突然世界が明るくなった。日はすっかり落ち、部屋は真っ暗闇に包まれていたのを、ダイアナが明かりをつけたせいだ。
 ローヒールを鳴らして歩いてくる彼女は、少しオフの体勢で、いつものジャケットを脱いでいる。ヒールの靴のままなのは、それが蹴り技の時に武器になるからだ。
 七重は無心に動かしていたドライバーを置き、鈍く痛んだ目を押さえた。目を開けると視界が霞んでおり、また視力が落ちた気がした。眉間に皺を寄せていると、椅子にかけっぱなしのカーディガンが肩にかかった。ふわりと、温もりが感じられる。
「仕事の成果はどう?」
「……普通よ」
 嘘だ。進んでいない。
 紗夜子の顔が頭から離れないからだ。
「そろそろ眠りなさい」とダイアナは微笑みを浮かべて促す。
「明日はお披露目よ。早く寝ないとお肌に悪いわ」
「肌がどうのってガラでもないわ」
「おばかさん。早く寝ないと心配だって言ってるのよ」
 その美しさは、七重が最初に出会ったときから変わっていなかった。頑ななエガミの娘に言ったのだ。

『わたしはダイアナ。【魔女】ダイアナ。あなたを守りにきたのよ』

「やっと……終わるわね」
 七重の口からその言葉は自然と洩れた。長かった。七重自身が意識し始めて十年も経っていないけれど、それでも、少女時代を、大人になりきれない今になるまで費やした懊悩の時間が、明日、ようやく解き放たれるのだ。
「ええ。候補者が正式に認定されれば、【女神】も選定に入るから」
「あなたは後悔しない?」
 ダイアナは目を細め、頬を上げて笑う。頬を包まれ、すくいあげられるように上向かされた。
「【魔女】として作られたからには、より強い回路を残すための〈聖戦〉を経て、至高の【女神】を目指さなければならない。それが、わたしたち【魔女】の存在理由ね」
 そんなものに意味はある? とダイアナは言った。
「わたしは、ナナエ、【女神】のために生きてきたわけじゃないわ。わたしはわたしの思うように生きたいの。でも、わたしはあなたにこそ聞きたいわ、ねえ、本当にあなたは後悔しない?」
 ダイアナの瞳は特殊ガラス製であるため、鏡のようによく姿が映る。自分の顔には、戸惑いと、うろたえが見える。
「……なにが?」
「サヨコが好きでしょう?」
「たった一ヶ月過ごしたくらいで」
 情なんか移さない。十年過ごしたダイアナに情を移さないように。
「あの子は不思議な子ね。サヨコを見ていると、信じるという気持ちが分かる気がする。自分の不安を全部吐き出せば、あの子はきっと、分かっている、大丈夫と言って、受け止めてくれる気がするわ」
 何か、暗に言われている気がしてダイアナを見る。

 いいのだろうか。本当に、紗夜子を生贄に差し出して、いいのだろうか。個人が大事だという一般論を掲げるよりも、もっと重要で、大事な何かを、彼女を失うことでなくしてしまう気がする。
(わたしは予感している……紗夜子が未来を目指すとき、運命が変わるかもしれないと……)

「それでいいの、ナナエ」
 七重は息を吸い込んだ。
「いいのよ、わたしは。もうずっと決めてたもの」
 ダイアナの手を振り払い、言う。

「エガミは【魔女】ダイアナを候補者として擁立しない。エガミの【魔女】は〈聖戦〉から降りる」

 ダイアナと出会って、十年。彼女の上位的存在によって、ダイアナが去ることは最初から定められていた。【魔女】は人間を学ぶために三氏の元に出向させられ、仕えることが義務づけられていた。認定が終わり、正式に候補者が出揃うと、ダイアナは〈聖戦〉に向かわなければならない。
 そんなことはさせない、と七重は考えた。
 だから高遠紗夜子を保護したいというタカトオと手を組んだ。彼女が候補になれば〈聖戦〉が行われる。そうすれば、ダイアナは〈聖戦〉を放棄することが可能になる。
 彼女を、失わずに済む。
 ダイアナは、振り払われた手を更に伸ばして、頬を撫でた。
 迷いを撫でる優しい手は、その迷いの形を明らかにしたが、七重は見ない振りをした。そうしなければ、何か、取り返しのつかないことをしてしまいそうだった。
「そばにいて、ダイアナ。ずっと、ずっとそばにいて」
「大切なナナエ。あなたが決めたのなら、わたしはあなたの側にいるわ」


     *


 扉を閉じ、廊下に出る。聞き耳を立てていた男に気付いていたダイアナは、彼に向かって微笑してみせた。
「お仕事は順調?」
「ぼちぼちやな」とアンダーグラウンドの男は笑って言った。
「お嬢のおかげで、色んな端末に触らせてもらえてラッキーやったわ。俺、あんま第三階層のこと分かってなかったんやなーと思た」
 第三階層で仕事をするのだったら情報が欲しい。この男が七重に頼みにきたのはしばらく前のことで、七重のおかげで端末を手に入れ、情報を収集しているのだった。第三階層者にしかアクセス権限のないサーチエンジンやデータベースを利用しているらしいのは記録に残っている。だから知れたのは当たり障りのない情報のはずだ。――何か工作をしていないかぎり。
「何か面白いことが分かったのかしら」
 ジャックはぽりぽりと頬を掻く。
「第三階層はめちゃめちゃ発達してるんやな。全部コンピューター管理やん。水道、電気だけやなくて、ボディーガードになるような人間も半分機械、ロボットもおるねんな、それ全部【女神】で管理しとる」
「そう、あなたたちの言う【司祭】ね」とダイアナは認めた。ただ、ダイアナたち【魔女】のように高度な機械生命体ではなく、人間を素としてサイボーグだ。思考し、感情を持つ存在は、キリサカが開発したAIたちだけ。どんな魔法を使ったのか、ライヤ・キリサカ博士はたった四つの人間的AIを開発し、彼が第三階層を追われた今でも尚、そのAIの神秘は完璧に解き明かされてはいない。

 最初は赤ん坊程度だった。ダイアナは自身を思い出してそう評価する。生まれたとき、ダイアナは本当に赤ん坊だった。無数の情報を持っていても、それをどう扱うべきか分からなかった。数年かけて学習し、更に数年かけて、自身が存在していることを理解した。
『……ダイアナ?』
 不安を交えて、しかし意思強く響いたあの声を、ダイアナは脳裏に完璧な形で再生できる。自分が何を感じたのかも。

 ああ、この子がわたしの主。
 至高の座へ昇るための、わたしの存在理由。

「あんたは、【女神】に興味ないんか」
 蘇った喜びは、問いの声で遮られた。透き通った瞳でジャックを見たダイアナは、微笑む。なんて、無駄な問いかけ。
「【女神】と【魔女】の関係について、知識を得たのでしょう?」
「新たなエデンマスターである次世代の【女神】を選定するため、今代の【女神】は候補として数個のAIを用意、より強い個体を残すため、AIたちを競わせる〈聖戦〉と呼ばれるゲームを提示した……ということか?」
 よくできました、とダイアナは笑みを浮かべる。
「【魔女】は【女神】のために存在するのではなく、エデンという世界のために存在するのよ。わたしは、【女神】が〈聖戦〉を提示した理由に、感情を理解させるためだと理解したわ」
「感情?」
「執着すること。慈しむこと。不安を取り除くこと。抱くこと。すべては、『愛』という感情のため」
 ダイアナは彼を嘲笑する。
「アンドロイドの口から『愛』という言葉が出たことを滑稽に思うかしら? でも、わたしは知ったの。この二十年、わたしは愛を知るために生まれ、そのために生きてきたのだとね」
 彼には理解できないだろう。ダイアナとて不思議なのだ。
「あの子のためなら、わたしは永遠を信じていられるのよ」
 常に脳内ではじき出される未来は零から百までのパーセンテージ。多くのことに完璧がないように、零という数字も百という数字も存在しないのに等しい。だが、ダイアナはナナエがいて初めて、∞(インフィニティ)の存在を信じていられる。
「あんたの存在理由は、お嬢……ってことか」
「【女神】の使命はエデンを守護すること。エデンを愛することよ。ナナエがいる限りわたしはその使命を守れるでしょうけれど、もうあの子のため以外に存在したくないの。他の誰でもない、【魔女】でもなく、ダイアナ・ロヴナーとして、あの子の側に居続けることを望むわ」
 胸に手を当てる。そこに息づくのは心臓ではなく、通っているのは血液ではないはずなのに、温かなものが充ち満ちているのを感じる。
「あの子が望むものをあげたいのよ。あの子が幸せになるためだったらなんでもするわ」
「それほどお嬢に入れ込むことになった理由があるんやろうな」
 笑う。それこそ他愛ないことだ。
「あの子は自分の足では決して遠くへはいけない。そのことがわたしを満足させる」
 ジャックは何も言わなかったが、ダイアナは理解している。
 ――必要とされる。それがすべての理由なのだったと。
 彼は悲しい顔をするべきなのか笑うべきなのか分からない表情でこちらを見ていた。

「認定式が楽しみね」
 不意の言葉に彼から表情が落ちる。
「アンダーグラウンドが動く可能性を、【女神】は予測済みよ。あなたが裏切る可能性も試算されている。でも、そんなことは些細だわ」

 これは誰が喋っているのだろう、とダイアナは思った。

 口が勝手に動く。愉快な気持ち、そして胸を押さえていた時と同じ気持ちを満たして笑っている自分がいて、ダイアナ自身は、それを遠くに見ていた。


「世界が動く。地の底から天上へと道が延びる。そこを辿ってくる者がいる。至高の座に来たる者、それこそ、【女神】が望んだことなのだから」


      



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