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 空を仰ぐ。やはり空は、こうして排気に煙っている方がいい。見通せそうで見通せない、むやみやたらに手を伸ばしたくなる、この空。
 江上七重を抱き上げたSPが、彼女の指示で足を止めた。小さな声で降ろすよう命じ、杖をついて、見上げた空から目を向けたジャックと対した。その傍らには、いつもいた【魔女】の姿はない。
「よう、お嬢ー」
「一体どこにいるのかと思ったら」
 ため息をついて言う。
「この事態は、あなたの指示?」
「いやー? こうなるやろーって予測はあったけど、それはそちらさんも一緒やろうし。情報は漏らしてないよ。そんなことしたら、俺の身ぃ危なくなるやん?」
「でもあなたは第三階層を見た。見聞きして、どういう場所なのか、どういう人間がいるのか、どういう派閥が紗夜子を取り巻いているのかを知った。あなたが戻れば、アンダーグラウンドは対応策を練ることが出来る」
「それって、俺が最初から潜入操作しに来たみたいな言い方やね?」
 違うのかしら、とエガミの当主は微笑む。
「あなたは切り開きたかった、変わりたかったんでしょう。紗夜子と、その側にいた男を見て思ったの。……きっとあなたは、見ていたくなかったんでしょう、あの子を導く存在が、自分ではない、あの男だということを」
 ジャックはゆっくりと首を傾げる。顔には、自然と苦笑が浮かんだ。買いかぶり過ぎだ。
「そんな大層な理由とちゃう。俺は、戦いが終わるんやったらどこでもええねん。これ以後の第三階層の対応次第で、どうするか考えるつもり」
「それがお前の本音か、UG」
 ざっと取り巻いた男たちがいた。七重は自らのSPに庇われ、目を細めて呟いた。
「……サイガ」
 三氏の一人、サイガ氏の手勢だった。この状況で、UGから離反したジャックの裏切りが推測されないはずはない。もしジャックがUGと繋がっていたとしたら、人質に取ればそれなりに有用な使い方が出来ると、第三階層の誰かが考えるはずだ。
「大人しくしてもらおう」
「困ったわあ。この状況でそれ言う? いや、こんな状況やからかな? 俺を盾にして前出られたらかなわんわ」
「助けてあげてもいいわ」
 ぎょっとしたのは七重のSPたちだ。主が第三階層に離反するようなことを言って、たまらないのは彼らの方だろう。
「どうすればいいか、分かるでしょう?」
 しかしそんなこと意に介さない、挑むような目。屋敷の中の令嬢には必要のない顔だ。
 ジャックはその望みに答えるべく、銃を取り出して、七重の頭に向けた。
「動いたあかんで。はい、離れた離れた」
 離れなさい。狙われているはずの七重が静かに命じると、血気盛んな若いSPはこちらを睨んだが、リーダーらしき男が片手で制した。
 ジャックはにやっとした。
 彼には、分かったらしい。
「というわけで、サイガの皆さん? 俺はエガミを人質に取っとるわけやけど」
 サイガの手勢の、銃口が逸れない。
「うん? 一般市民巻き込まれとるけどそれええの?」
「残念だな、UG。我々にエガミを守る義務はない。むしろ、三氏から脱落してくれることを主は望むだろう」
「……ってことらしいけど?」
「そうね」と七重は淡々と事実を認めた。取り乱すことはない。彼らは確実にジャックと七重に向かって引き金を弾くだろう。だからこそ、七重は命じたのだ。
「あなたたち、わたしを守りなさい。わたしを――生かしなさい」
「寝言はあの世で言え、エガミ!」

 銃声が一斉に響いた。

「ぐあっ!」
「うっ」
「!?」

 倒れていくのはしかし、サイガの方だった。エガミの手勢はすべて、サイガに向けて撃ったのだ。
「よっ、と」
 ジャックは抱え込んだ七重を解く。
 七重はジャックが展開したシールドとジャック自身に守られて、一歩も退くことなく相手を見据えていた。相手が一瞬戸惑った隙をついて、SPたちが肉弾戦を始め、一気に取り押さえる。
「こ、こんなことをして……!」
「俺たちは、単純に主を狙う相手を倒しただけだが?」
 手錠をかけられて転がされる。その腹に一発。側にあった池に投げ込まれた者もあった。エガミ側はジャックを睨んだが、ジャックはにっこり笑って銃を降ろした。
「俺らええコンビちゃう?」
「寝言は寝てから言いなさい。自分ひとりで決められないくせに。弱虫のUGがいるなんて知らなかったわ」
 確かに、これがなかったらどうするかは決めかねてたなあと、ジャックはがっくり肩を落とした。
「助けてあげたのだから、そろそろ正直になりなさい。あなたはアンダーグラウンドに帰る。そしてUGに戻る」
「そんな簡単にはいかんのやけど」
「せいぜい、努力することね」
「あ、どこ行くん」
「帰るのよ。わたしがこれ以上何かやったら、それこそ第三階層への反逆と取られるじゃない」
 それに、と彼女はそのとき初めて、ぎゅっと堪える顔をして呟いた。
「紗夜子の顔を見て冷静でいられる自信がないの。後悔した顔なんて、ダイアナに何て言ったらいいか……」
 思わず、お嬢、と呼びかけていた。
「お嬢。お嬢も、何か変えようと思ったんやね」
 七重の柳眉が、きゅっとひそめられた。胸を押さえる。
「出来なかったわ。わたしは、ダイアナを置いていくことしかできなかった……」
 ジャックは見て取った。彼女の手が、小さく震えている。
「……そしてそれを後悔しているのよ」
 押し殺した声が言う。
 周辺は黒煙が上がり、遠巻きにしている人々の騒ぐ声がしていた。警察や救急や消防が駆けつけ、その中で響く少女の声は、泣きそうに頼りなくなっている。仕方ないじゃない。言の葉が落ちる。続く言葉は、泣き声と同じ悲痛な叫びになる。

「だって仕方ないじゃない! わたしには何も変えられなかった。でも、あの子なら変えられるかもしれない。嫉妬したわ。だから自分のやったことがどうしても許せない。思ったの。わたしも、あの子のように変えられるかもしれない。ダイアナを解放できるかもしれない。できなくとも、回路さえあれば、将来的にマスターに縛られていないダイアナを創れるかもしれない……だってダイアナは、投影装置に現れたエデンマスターに膝を突いたのよ。【女神】のために生きていると言わなかったダイアナが! だからわたしは」

 顔を覆う。

「不確定で何も決まりきっていない、ただ希望だけがある自分の未来のためだけに、いつまでも続けられるはずだった日常を……ダイアナを捨てたのよ」

 そしてきっと、何度でも後悔する。それを捨てたこと。

 未来を、夢見ることが間違っているとは思えない。それでも連綿と続く時間を守り通す道もある。ダイアナは【魔女】でアンドロイドだったが個人だったことはジャックもよく知っている。
 自分の願いを守ってくれる存在が、彼女には、きっと、ダイアナしかいなかった。そしてダイアナは、七重が大切だっただろう。大切な存在を戦いから遠ざけることは優しさだ。
 けれど、それは自分の目から見た場合であって、必ずしも守られる存在が優しさと感じているかどうかは別問題。

「……俺も、何も出来ない自分が歯がゆかった」

 七重が涙の膜で覆われた瞳を上げる。

「何かしなくちゃ、何か成さなくちゃってずっと考えてた。でも何も出来なかった。そんな自分が嫌でたまらなくて……何か出来ないかって考えたのは、サヨちゃんがきっかけだった」

 いつの間にか、ジャックの口調はいつもの間延びした調子ではなくなっていた。

「何かしたかった。動かしたかった。もしかしたらそれは、運命ってやつだったかもしれない。……結局、何か出来た気はせんけど、俺は自分の選択、これでよかったと思ってるねん。俺が今まで選んできたすべてのことは、絶対、間違ってなかったって思う。お嬢もやで」
「……わたし?」と七重が不安そうに眉をひそめたから、うん、と笑って頷いてやる。
「ダイアナは思ったはずやよ。……お嬢には、自分を忘れて新しい別の道を生きてほしいって」

 やっと分かった。トオヤ、分かったで。

「でもな、お嬢。新しい道もあるけど、ずっと同じ道を選ぶことだって、自分の選択なんやで」

 トオヤ、お前は、俺らを選んでくれてたんやな。
 数あるうちの道から、俺らを。

「だからお嬢は後悔せんでええ。新しい選択をしたお嬢の手は、今、空っぽかもしれん。けど、だから大きなもの、掴めると思うねん」
「UGみたいに?」
 七重は言った。うん、とジャックは答えた。
 本当に何もない手だ。汚れていて、不器用で、短くて望む未来に手が届きそうもない。だが、その手に何もないからこそ、掴めるものがある。
「祈っとるよ。お嬢の綺麗な手には、お嬢の望むものが掴めるように」
 第三階層者の少女は笑おうとして、失敗したような顔をし、戸惑ったように目を伏せた。

「七重様。そろそろ」
 リーダーが呼ぶ。杖を鳴らした彼女は、SPに抱き上げられた。
 その顔に、少しの寂しさ、少しの決意。そして、戦いを決めた少女の瞳。もう弱音も、泣き言も、涙もなかった。
「ばいばい、お嬢」
「さようなら、UG」
 七重が去り、ジャックは振り向いた。UGたちが続々と退避を始め、まばらになりつつある。ホテル周辺には警察が展開しているだろうが、ジャックは知っている。この中央ホテルは、第一階層から一番第三階層に近い。そのため、この周辺には、アンダーグラウンドへの出入り口が複数あるということを。
「最後まで名前呼んでくれんかったなあ」
 だが、七重の中でUGと言えば、自分のはずだった。それは上出来だった。

 複数の足音が聞こえて、ジャックは笑う。片手を上げてひらりと振った。
「よお、トオヤ。サヨちゃんも」


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