「UGっていうより、トオヤかな。トオヤの味方をしてくれてるよね。どうして?」
その言葉も表情も、何も考えてなさそうな、思いつきの疑問からのように思えるけれど。
長い時間をかけて、紗夜子は答えを探した。
「UGに味方するのは――何も出来ないことが嫌になったからです」
世界を変える。そんな途方もないことを思った。それを途方もないと思って諦めて何も始めないのなら、何も変わることはないだろう。ゼロの地点からポインターは動かない。でももしもがいたなら、0.1ミリ、0.01ミリでも前進するかもしれない。
「それがたとえ、誰かを傷つけて殺すことになっても。私は、動き続ける。足掻き続ける。そうしなくちゃいけない。だから、UGの人たちと一緒にいるんです。何が出来るのか、本当に目指す世界を手に入れられるかは分からないけれど。私は、戦い続けると、思います」
「すごく苦しい道を選んだね」
ライヤは呟いた。
「未来が見えないことは、生きることで最も苦しいことだ。今の行動が本当に望む未来を引き寄せるのか分からないということは、すごく辛いし、止めたくなるときもくる。止めたいと思ったときですら、ここで本当に止めていいのかと不安になる。選択するときなんて正しいかも分からないからなおさらだ。選択を翻すことは、この世界の価値観において罪悪に近い。それでも、君はアンダーグラウンドに立つと決めたんだね」
紗夜子はそれを実感として聞いた。ライヤもまた、第三階層を変えられずにアンダーグラウンドに来て、彼らに手を貸した人だ。戦いはまだ終わらないし、世界は変わらない。常闇に、光らない石を置いているようなものだ。未来がくればその道は輝くのに、未来は差し込んでこない。ライヤでさえそうなら、自分はどれだけ泣いて足を止めていかなければならないのだろうと不安になる。
でも、私には。紗夜子は膝の上で手を握りしめた。
「トオヤは……私にとって、目指すもの、みたいな人なんです」
言って、言葉を切った。ライヤは何も言わない。茶化さない。紗夜子の答えを待つ時間は、本当にそれを聞きたがっているように感じられた。だから多分、トオヤを心配しているのかも、しれない。
「だから、すごく大事にしたい。守っていきたいし、同じくらい強くもなりたいって思います」
彼がいるから、私は戦っていけるのだろう。改めて感じたそれは、強さでもあり弱さだ。でも、それでもやはり、トオヤが好きだ。彼の側に立てるようになりたい。強く、強く。
「もし今すぐトオヤがアンダーグラウンドを裏切ったら、どうする?」
ライヤはにやりとしてそんなことを聞いた。
「どうする? さよちゃんは、トオヤを撃てる?」
どくり、と心臓が嫌な音を立てた。そんな想像はさせないでほしかった。
「そんなこと絶対ないとは、言い切れないよね」
紗夜子が言いたかったことを口にする前に、ライヤは笑って否定してしまった。涼しいとも思える表情に、紗夜子はゆっくりと血の気が下がっていく思いをする。首を振る。考えたくもない。
でも、そんな風にして、紗夜子がトオヤを失わない保証はないのだ。
息を吐く。冷静に考えなければならない。そうでなければ、この人は笑いながら紗夜子に言葉を突き刺すだろう。答えが出せなければ、今導きだせる真実を口にすればいい。それは、紗夜子の本心なのだから。
そう思って、言った。
「『トオヤが裏切ったから』。そんな理由で、ついてくことは絶対ない」
次の瞬間、あっは! とライヤが笑い声をあげた。
「よーし、とりあえず合格! 妄信的でないみたいで安心した。いくらでもトオヤのこと好きでいてくださーい」
「なっ!?」
紗夜子が言葉を失うと、ライヤは口元に笑みを浮かべて呟いた。
「人間を信仰するほど危険なことはないからね。自分の行動をその人のせいにしたりするから、そういうのだったら止めようと思ってたけど」
「でもそうならない可能性もない?」
赤い顔のままぶすっとして言うと、うんうんと彼は頷く。それがいかにも「よくできました」の態度なので、紗夜子はますますこの大人が信用できなくなってきてしまった。投げやりな気持ちで冷めてしまったモーニングを突き始めると、気付かれないような素早さで声がした。
「大切にしてやってね」
「ライヤさん、ちょっといいですか?」
マスターから声がかかる。紗夜子はライヤを見たが、変わらない笑顔でどうしたのと聞いている顔しか見られない。
「ちょっとパソコン診てくれませんかね? 最近急に回線が重くなることがあるんですよ」
「んー、そういえば最近AYAをいじったけど……それかなあ?」
そう言ってマスターと一緒に店の奥へ引っ込んでいく。マスターはすぐに戻ってきた。苦笑を浮かべて紗夜子に言う。
「ライヤさんって、機械のことになると周りが見えなくなるんだ。俺がいても見えてないみたいでね。だからとっとと離れるに限るんだよな」
紗夜子もくすっと笑った。本当に子どもみたいな人だなと思ったからだ。
「さっきトオヤがライヤさんを嫌う理由の話をしてたけど……聞き耳立ててて悪いね、で、俺が思うのは、ライヤさんは手間のかかるAYAが一番かわいいんだよ。トオヤはよくも悪くも自立してる。だからトオヤはあの人のこと、嫌いだと思ってる節があると思うな」
「それはつまり……AYAに嫉妬してるってことですか?」
放っておかれた子どもの寂しさ。振り向いてくれない悲しさ。気付いてくれないとき、その人は傷ついている。だからすべての話を総合したことが真実ならば、トオヤのライヤに対する怒りは、傷ついた心を隠すものなのだろう。
でも、トオヤはきっと歩み寄れるはずだった。だってライヤは「大切にしてやってね」と言ったのだ。今はすれ違っているだけ。それは紗夜子も同じはずなのに。
(私はきっと、取り返しがつかない……)
手に、刺した肉の感触。ホットケーキをフォークで突き刺した瞬間、冷たいものが一瞬這い上がってきた。
タカトオと、話をすべきなのかもしれない。
でも何を話せと言うのだろう。もう二度とあの子は帰ってこないのに。
「マスター、マスター!?」
その時、ドアを割る勢いで、UGらしき男が飛び込んできた。
「どうした、血相を変えて」
「親父さんはいるか!? ガキどもが上に上がっちまったらしい。連れ戻そうにも、本部と先鋒部隊どっちを頼るかで揉めてやがるんだ」
マスターの声は低くなった。
「はあ? さっさと探しに行きゃあいいのに」
「トオヤとライヤさんのことと、ジャックのことがあって、信用できねえって言い始めたやつがいて。でもこれまで世話になったトオヤを頼らねえのはどうかって声もあって」
めんどくせえとマスターは顔をしかめた。紗夜子は、するりと椅子を降りた。
「私、トオヤに知らせてきます!」
「嬢ちゃん」
「私が行くと角が立たない……んじゃないかな? 私がその話を聞いてトオヤを頼ったってことでよろしく!」
じゃあ、と走り出しかけて、「あ、お代!」と足踏みすると、マスターは叫んだ。
「ライヤさんにもらっとく! 急いでくれ!」
「すまねえ、聖女!」
ここでもそう呼ばれずっこけそうになったがそんな場合ではない。紗夜子は三人組のたまり場である司令部へ向かった。零区までかなり距離があったせいで、食べたばかりの横っ腹が痛み始める。だから、司令部に飛び込んだときには満身創痍だったので、トオヤもディクソンも目を丸くし、ジャックが驚いて飛んできた。
「どうしたん、サヨちゃん!?」
「た、助けて……」
「だから、どうしたん!」
「子ども……いたたた」
お腹を押さえて呻く。痛みのせいでうまく話せない。急がなければならないのに。
ジャックは紗夜子を支えていたが、はっとして言った。
「産婦人科か!? 誰の子!?」
「ちがうーっ!!」
叫んだらまた横っ腹が突っ張った。
「いたたた! あ、もう、子どもたちがいなくなったんだってば!」
説明しているさなかに、ディクソンがすでにコンピューターを使って、AYAに問い合わせを行っていた。確かに、出入り口のカメラに孤児の子どもたちが出て行く様子が映っている。
「大変や。はよ連れ戻さな」
ジャックがトオヤを見るが、トオヤはだるそうに椅子にもたれ、机の両足を載せて、背もたれをぎしぎし動かしていた。
「あいつを頼ればいいんじゃねえの? お前、あいつと仲いいんだろ」
「そんなこと言ってる場合か馬鹿!」
誰よりも早く紗夜子が叫ぶと、ジャックもディクソンも口を開けたまま止まり、ぱくんと口を閉じた。
「あーもう! 言わずにおこうかと思ったけど言う! ここしばらく私のこと避けてたでしょ!? なに、私がしたこと、そんなに気に入らなかったの!?」
「俺が怒ってんのは」とトオヤは足を降ろした。
「俺のことで、お前がわざわざあのくそ親父に頭を下げたことだ。あの親父に、俺のことをなんとかしようと頼ったことだ」
「私は、トオヤに戻ってほしくて!」
「女に世話してもらうほど甲斐性なしか、俺は。そんなに弱いか」
「強いよ」
何を言ってるんだ、と紗夜子は軽蔑と同じくらいの気持ちでトオヤに答えた。そんな分かりきったこと、どうして聞く。
「強いから、何かしたいんじゃん。頼ってほしい、守りたいって思うんだよ!」
トオヤが急に力が抜けたようになった。
「……う、わ!?」
リクライニングが馬鹿になっていたのか、全体重を預けるのに失敗したらしく、そのままひっくり返ってしまう。がっしゃーん! という音が響き渡り、一同は慌てて駆け寄った。
「大丈夫か!?」
「トオヤ!」
「待て!」
トオヤは上から覗き込んだ紗夜子に手を突き出した。
「待て……頼むから」
もう一方の手は口元を押さえている。目の端が、ほんのり赤いのは気のせいだろうか?
「もしかして、どっか打った? 耳が赤い……」
「気のせいだ! 勘違いだ! だから近付くな!」
「青臭いのはその辺りにしておけよ」ディクソンが呆れたように言った。
「お前の名前で捜索隊を出した。父親がどうのと駄々をこねて取り返しのつかない事態になったらどうするつもりだ? 自分のコンプレックスにこだわるのは止めるように」
トオヤは何も言わず、黙って椅子を元に戻す。ジャックは、まるで自分が叱られたように気まずそうに、でも半笑いの顔で紗夜子に向かって首を竦めてみせた。
子どもたちは、一時間後には連れ戻され、大人たちにかなり叱られたらしい。しかし無事でよかった、また、アンダーグラウンドの出入り口が知られなくてよかったと、UGたちは胸を撫で下ろした。