その報告を聞いた紗夜子が司令部を出て自宅へ向かっていると、携帯が鳴りだした。さっき三人とは別れたはずなのに誰だろうか。でもトオヤの態度はずっとおかしかった。不機嫌そうにずっと黙り込んでいたし、そのせいかと思いながら、ディスプレイの表示を見てびっくりした。
『トオヤの態度はどういう意味だったのですか?』
「あの、AYA? どうしたの、突然」
『トオヤはライヤに嫉妬していたのですか?』
「だから! いきなり、なに? どうしたの?」
『あなたにも分からないのですか? 分かりました。もう少しデータを集めてみます』
 いきなり電話をかけてきて、かと思うと自分で納得して話を終えてしまった。もしかして紗夜子が一人になるのをずっと待っていたのだろうか。だとすれば、状況判断が出来るなんて、やっぱり変なAIだと思う。
「もう話せないかと思ってたよ」
『何故ですか?』
 それは分からないのか、と面白くなった。
「AYAは、第三階層に行った私のこと、怒ってると思ったんだ。電話、途中で切っちゃったし」
『私があなたに怒りを覚える理由を見出せません。あなたが決めたことに、私が反対する理由がどこにもないからです。あなたの選択はあなたのものです、サヨコ』
(コンピューターだからかな……)
 心配だとか、不可解といった許容できないという理由でコンピューターが怒ることはないのかもしれない。そもそも、コンピューターというのはすべてを計算ではじき出す。それは理解という形に似ていると思う。もしかしたら理解ではなく、『機械的に』処理しているのかもしれないけれど。
『ただ理解できないとは思います』
「やっぱ怒ってるんじゃん……」
 自分の考えを述べられるAYAは異質だ。ライヤは、だから天才なのかもしれない。『女神』プロジェクトに反して、別プログラム【魔女】を作ったライヤ。疑問が浮かぶ。でも、どうしてAIという人工知能を必要としたのだろう。人間とほとんど変わらない知能を持つということに意味があるのだろうか。
 そもそも、【魔女】プログラムとはどういうものだったのだろう。
「ねえAYA。あなたは『何』なの? もしかしてあなたは【魔女】と同じもの?」
『私の基本プログラムは【魔女】と変わりません。現在アンダーグラウンドが【魔女】と呼んでいる存在は、学習プログラムによってあのようにセッティングされたものです。私は、この一年の間に学習プログラムを開始したばかりで、会話が可能になって半年にも満たない。ただ、ライヤも【女神】と同じ結論を導きだしています。――人間と接して学習することで、私たちプログラムは完成する』
 AYAの答えは澱みなかった。
「完成って?」
『Untitled――Unknown――Uncertainty――』
 英単語の意味をそのまま告げるなら、『無題』『不明』『不確定』だろうか。
『私にも想像がつきません。何故なら、モデルがいないからです』
 人間の英知であるコンピューターに弾き出せない。でも、紗夜子にもまったく想像がつかなかった。コンピューターの完成形とは、一体どういうものなのだろう。
 そんな時、離れた十字路を横切っていく人影が見えた。ぼさぼさの髪、あれはライヤだ。
「ライヤさん」
 あの先には、紗夜子の知っているかぎりエクスリスの教会くらいしかないが、知り合いの家にでも行くのだろうか。
『追わないでください』
 ぴしゃりとAYAは言った。ただでさえ抑揚に欠けているのに、怒っているような声だ。
『彼は端末の電源を切っている。私と話が出来ないのに、あなただけ会話するのは止めてほしい』
「……それって嫉妬?」
 答えはなかった。考えているのかもしれない。
 だから紗夜子はにやーっと笑った。通話を切ると、その電源まで切って、携帯電話をポケットに押し込んだ。
 そんなことをしてしまうのは、今日一日でさんざんからかわれたせいだったのかもしれない。とばっちりを食らったAYAは可哀想だが、そんなことは悪戯を始めた本人は気付かないものだ。
 ライヤを追っていくと、彼は早足で路地を抜け、広いところに出た。青い光が照らすのは教会で、ライヤの姿はなかったが、扉が開いて閉まる音がかすかに聞こえた気がした。だから、教会に用事なのだろう。
 エクスリスとライヤは知り合いだったのか。
 同じ第三階層者だったから不思議ではないかもしれない。純血計画の存在を、あの階層にいた頃大人であったライヤは、トオヤより知っていて当然なのだろう。興味がもたげてそっと教会に近付く。話をしているところが見えたら、それで帰るつもりだった。エクスリスと何でもない顔をして会うには、彼の悲しい過去の一片を聞いてしまったので。
 そっと扉を押してみる。きい、と軋んで、細い隙間が出来た。内部は青い。正面のガラス窓から光が差し込んでいる。奥に二つの人影。きっと、ライヤとエクスリスだ。

 そこへ、ぽんと肩を叩かれて飛び上がった。
「ここで何してんのよ」
 悲鳴を上げかけたとき、聞き慣れた声がしたが、安堵するよりも後ろめたさが勝った。
「じゃ、ジャンヌ……」
 まるで芸能人かファッションモデルみたいに、長くてばさばさした孔雀の羽のようなまつげを瞬かせると、ジャンヌはちらりと扉を見た。そして、紗夜子の腕をつかむとそこから離れた。
「教主様の邪魔するんじゃないわよ」
「ご、ごめん……怪我、もうだいじょうぶなの?」
「まあね」
 こそこそしていたことに嫌みを言われるかなと思ったが、「あんた今暇?」と彼女は言い出した。「暇に決まってるわよね」という口調だったので、頷くしかない。すると、ジャンヌは顎をしゃくった。
「付き合いなさい」
 紗夜子は顔をしかめた。
「私?」
「あんた以外に誰がいるのよ」
 そうなのだが。紗夜子はジャンヌの心証が良くない。ジャンヌだってそうだろう。わだかまりが解消しきれていないために、返事はあやふやになってしまう。それを見て、ジャンヌが一気に不機嫌になった。豊満な胸を乗せるように腕を組み、顎を上げて、据わった目で睨んだ。
「なによ、嫌なの?」
「そんなことない、けど……」
「行くの、行かないの。どっちなの」
 これ以上怒らせるのは得策ではないなと思ったので、「行く」と答えた。向こうから機会が提供されたならそれに乗る方がいい。嫌な思いをするかもしれないが、できれば仲良くしていきたいとは思っていたのだ。嫌われるより好かれたいというのは、素直な欲求だった。
 ジャンヌはふんと鼻を鳴らすと、赤い髪を颯爽となびかせ、底の厚い靴をことことと鳴らして歩き始めた。

 第一街、歓楽街。夜も更けてきており、常時灯は黄色から赤へ、赤から紫へと変わっている。落ち着いたその天井の色だが、それより地下、彼女たちの足下はそれよりももっと色とりどりのネオンやライトアップで華やかに明るかった。
 一見すれば商売女でしかないジャンヌだが、紗夜子はその時初めて、彼女がすごく綺麗な顔立ちをしていることに気付いた。客を引く女性たちや、ドレス姿のコンパニオンなど目ではない。髪は金を溶かした赤できらきらしており、意志の強そうな青い瞳は、髪の色と相まって激しいくらい華やかさを主張している。豊かな肢体を包んでいるのは黒革のタイトな戦闘服だが、同性の目から見てもつばを飲み込むくらい色っぽかった。
 そんな彼女が選んだのは、ビルの外の階段を下りていった先にある、静かなバーだった。店内は薄暗い。外の溢れる光に目をやられていた紗夜子は、暗い店内の扉の前に敷かれているマットレスにつまずいた。
「何やってんのよ、恥ずかしい」
「ごめん、目が慣れなくて」
 ジャンヌはそんな明暗の差などなかったかのように、奥のカウンターにひょいと腰掛けた。紗夜子もよたよたと後に続く。
「あんたは未成年だっけ。なにか飲む?」
「未成年だっけ、の続きが変」
「ここはアンダーグラウンドなのよ。別にどうってことないでしょ。それともなに、飲んだことないの?」
「ない」
 ジャンヌは大袈裟に目を見開いた。
「まああ。真面目なこと。あんたがどうしてそんななのか分かった気がするわ」
「私もジャンヌが分かった。この不良女」
 フフン、とジャンヌは嘲笑した。
「大人の女にとってワルいオンナってのは褒め言葉なのよ、ネンネちゃん」
 くすくすと二人して笑った。不快な気持ちが起こらなかったのは、ジャンヌが紗夜子を馬鹿にするのではなく、受け入れた上で面白がっているのが分かったからだろう。不思議だった。初対面のときは最低最悪だと思っていたのに。

 ジャンヌはカクテルを頼み、紗夜子はミルクを頼んだ。その後の間に、紗夜子は尋ねた。
「どうしたの、ジャンヌ。なんかいつもと違う」
 最初にジャンヌを見たとき、彼女を取り巻いていた激しさは今は内側に秘められており、それは逆に不安を呼んだ。元気がないようにも思えるし、ぐっと大人びても見える。何があったのだろうと問いを含ませて尋ねると、ジャンヌは複雑にもつれあったような息を、ふうっと吐いた。
「あんたさあ、恋したことある?」
 目を剥いた。何故よりにもよって今日この日にその話題なのだ。同様は表に出て、ジャンヌはにやっとチェシャ猫のように笑う。
「あるのね。そこは赤ん坊じゃなかったわけか」
「……一応、健康優良女子だし……」
「どういう人? 初恋は?」
「初恋は小学生のとき。でも、私は第三階層出身だから誰かを好きになっちゃいけないと思ってたなあ」
 監視付き、報告必須の生活を、六歳から続けてきた。束縛されているという苦しさはもうすっかり摩耗して肌に馴染み、意識しないようになっている。何をしたって父親と姉の怒りを買うなら、何をしたっていい、みんなと変わらない生活をすればいい、と思うようになったこともある。でも、胸の底にはこれもまた仮初めでしかないかもしれないという恐れがあり、不用意に親しい人を作らないようにしてきた。小学校から同級生だった、フィオナとキャロラインが一番近かったのだ。その二人も、もういないけれど。
「他に恋はしなかったわけ?」
「付き合おうって言われたことはあるけど、断った。私のせいで監視対象になったり、ご両親の仕事がなくなるとか生活に支障が出たら可哀想だったし」
「げ、そんなにえげつないの、あんたの親」
「私のことは秘密にしてたし、だから秘密が漏れるようなことはしなかったと思うけど、必要ならやるよ、あの人たち」
「そもそもなんで秘密にされてたのさ?」
 紗夜子は曖昧に笑った。タイミングよくミルクが出てきたので、それを受け取ることで話題を流すつもりだったのだが、ああ、とジャンヌは手を振った。
「別に言いたくないんだったらいいけど、不思議なのよ。タカトオの娘だってことを隠すんなら、どうして第一階層に追いやったんだろうって」
「え?」
「だって、考えてみなさい。第一階層と第三階層、あんたに接触する人間が多いのは、明らかに第一階層でしょ。第三階層でも、幽閉でも何でもできたはず。なのに第一階層に落とした」
 ああ、と紗夜子は納得し、皮肉に笑った。
「それは、教育を奪いたかったからだよ。第三階層の富と権力を私に与えないため。……あいた!」
 がっつんとジャンヌの厚底が紗夜子のすねを蹴った。
「あんた、何も分かってないのね」
 ジャンヌは青い目を怒らせて、低く言った。
「あんた当時いくつよ」
「六歳だけど……」
「子どもから教育を取り上げるのなんて、大人からすれば簡単なことよ。第三階層にいたってできるわ。簡単な方法は閉じ込めること。それに教育と富と権力って、自分の受けるはずだった生活のことを言ってるんだろうけれど、六歳から十七歳まで、あんたは何不自由なく普通の生活を送ったんでしょ、第一階層者として」
 ジャンヌは指を立て、紗夜子の胸をどんと突いた。
「十一年間で食べるものに困ったことは? 着るものに困ったこと、冬に暖房器具もなくてお酒で身体をあっためたことは? 家がなくて路上で寝る時があったこともないでしょ。それに、食べ物を手に入れるために働いたこともないわよね」
 どん、どん、と彼女の指先が紗夜子を責める。これまで罰だと思って甘んじて受け入れてきたことが、その白い指で急にぐちゃぐちゃに混乱し始めた。
「で、でも、三氏の娘に生まれたんだよ、その資格を奪ったんじゃ……」
「報告させるんでしょ、あんたに。想像だけど、タカトオの娘として恥じることない行動をしろって言われなかった?」
 言われた。毎月。毎回。
「タカトオ氏は、あんたを生かしてきたのよ。三氏の娘としての資格を奪いたいなら、追放するだけでいいわ。追放したら面倒なんて見なくていいのよ。これは自分の娘じゃないと知らないふりをすればいいだけなんだから。あんたの生活を『高遠の娘として』なんて拘束したりしない。例えタカトオ氏が自分の血にプライドを持っていて、追放した娘にも血筋に恥じることをするなと言う理由になったとしても、第一階層に落とす理由はどこにあるの? 第一階層には大勢の人間がいる。あんたが三氏の娘だということが知られれば、人は『高遠氏の娘』という奪ったはずの資格をあんたに見るし、実の娘を第一階層に落としたという事実は、タカトオ氏を危険に晒すとは思わない? だったら手元に置くか、いっさい関係ないと知らないフリをすればいいのに」

 あんたは最初から高遠の娘という資格なんて剥奪されちゃいない、とジャンヌは言った。

 第一階層に落とされたのは、罰だと思っていた。紗夜子がしたことをタカトオは許していないのだと。だから彼は紗夜子をエリシアと呼んできた。『忘れるな』という意味で、エリシアの名前で第一階層の生活は始まった。そのはずだった。

 もしジャンヌの言うことが正しいのならば、どうして生かされてきたのだろう。
 どうして、第一階層だったのだろう?
 第三階層にいてはならない理由。紗夜子が高遠の娘として育てられなかった理由は。
 ジャンヌの瞳が光った。

「ねえ、誰に隠してるの?」

 私は、誰から、隠されているの?


      



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