「アクセスポイントを偽装できるやつは多い。でも、ハードがAYAのリストにないものだった。アクセスポイントだけならまだしも、オレに知られないようなハードの開発、偽装、隠蔽なんて、そんなことを出来るやつは限られているからね」
「天才科学者殿から評価をいただくのは光栄です。そのように怖い顔をされないともっと嬉しいのですが。あなたは笑う顔がよく似合うのですから」
「君の褒め言葉は寒気がするな」
「それこそ光栄です。僕にはそのために生まれてきたようなものです」
「何を企んでいる」
 言葉の応酬は、不意に厳しいものになった。
「オレは聞かなかった。その必要はないと思ったから。お前の悲しみは理解できるからだ。妻と子を、」
「あなたの言葉の上っ面さは僕と同等のものがありますね。寒気がします。真に他人を理解できることなど、この世の理には存在しないのですよ」
 沈黙。青い光が揺れるのが、波のように陰影を作る。折しも、彼らの足下にはどちらも影が落ちた。
「あなたたちの邪魔はしません。トオヤにも言いました。いつでも壊せるものになど興味はありません。何故なら、今まさにこの都市は崩壊の道を辿っているのだから」
「じゃあ何を?」
 問いの声はきつい。彼は微笑んだ。
「いつ、僕が何もしな『かった』と言いました?」
 男は見る。白い相貌は、影から影へと伝う魔性に見える。
「興味はないのは、もう手筈を整えたからです。僕はエデンを壊します。いいえ、もう壊したと言ってもいいかもしれない。僕は、この街をいつでも壊せるものにしたのですよ」
「……何をした」
「あなたがたの邪魔にはなりません。むしろ手助けしたようなものです。あなたがたが積み上げた山の上に、ほんの少し武器を置いたようなもの。僕はやがて来るその時を、完成図を知っている絵を見るように待っているだけ」
「何をしたと聞いている!」
 怒声は教会に、痛いと叫んだ時のようにいんいんと響いた。男の抑えきれない激しい呼吸こそむしろ苦しげに聞こえる。相手は驚きもしなかった。肩を揺らすことも、呼吸も乱さなかった。世界から隔絶された存在のようにただ泰然と美しく微笑んだまま。



     *



 杯を重ねたジャンヌは、ひたすら「エクスリスがどれだけ素敵なのか」「エクスリスがどれだけ好きなのか」という話に終始した。顔は普段と変わらない白薔薇色で、酔っているように見えないのに、繰り返し。
 静かなバーにもいつの間にか人が増えていたが、それでもひっそりとしていた。紗夜子は何も言わずにいられるほど、心穏やかな気分ではなかったし、早く新しい話題が欲しかった。そこで振ったのが「ジャンヌの恋」という話題で、しかし、それはとてもまずい話題だったらしい。
「そんなにエクスが好きなの?」
「あの人は世界の誰よりも綺麗で、世界の誰よりも汚いの。人の好意を踏みにじったりもできる。あたしが何度好きだって言っても、あの人は美しく微笑むだけなの。言葉の一つの音すら届いちゃいない。だから一度でもいい、あたしを見て、笑わせたり、驚かせたりしたいのよ」
 ジャンヌは知っているのだろうか。エクスリスがSランク遺伝子保持者で、第一階層の女性と関係を持ち、その女性と子どもが殺されてしまったこと。
「あの人に愛されたいわ……」
 ジャンヌは呟き、顔を覆った。泣いているのか、と驚いたが、ため息と笑みをこぼして疲れた人のように目を覆った。
「何度身体を重ねても、少しの情も持ってくれない。あの人にとってあたしはただの人形と変わらない。でも人形にも心があるのよ。あなたが好きだって叫んでるの」
 それでも、紗夜子の目には彼女が流す涙が見えた気がした。届かないのが辛いのではなく、まだ決して摩耗していない透明な気持ちが溢れているように。精神は疲れ果てているのに、それでもその人を好きだと思う気持ちにあるものはなんだろうか。彼女の気持ちは、心は疲れ果てていても汚れてはいなかった。
「どうして、エクスなの」
 いくら美しくても、紗夜子にとって彼は恐ろしい存在だった。心を許すことはきっとないだろう。
「あたし、過去の記憶がないのよ」
 ジャンヌはそう言った。
「四年くらい前にここに落ちてきたらしいんだけど、それ以前の記憶が全然ないの。あたしはどこの誰で、どう生きてきたのか、記憶がぽっかりないのよ。最初はパニックだったわ。怖くて口も聞けなかったし、ここが誰なのかも分からなかった。そこへ、教主様が現れたの」

 僕のところへおいでなさい、迷える子羊さん。僕ならあなたを助けてさしあげられる。光をまとい、こちらに手を差し出した。記憶のない自分には、その圧倒的な美しさが正しいもののように思われたのだと、ジャンヌは言った。

「世話をしてくれたわ。おかげで言葉も常識も取り戻せた。人間らしくなった時、あの人に恩返ししなくてはと思ったの。あの人と寝たわ。『あたしを捧げます』って、『受け取ってください』って」
 ちらりとジャンヌは視線を投げた。紗夜子は淡々と見返した。そうすると彼女はにっと笑う。こちらが動揺していないことを褒めたつもりらしいが、あまり見くびらないでほしいものだった。真剣に話を聞いているのだから。
「でも、ちっとも満たされなかったし、満たして差し上げられなかった。空しくて虚しくて、あたしの責任かもしれないって思った。あたしに過去がないせいかもしれないって。それを確かめてみるために娼婦になったのよ。あんたみたいな子にとって汚らわしい仕事には違いないでしょうけどね」
 紗夜子は何も言えなかった。娼婦という仕事を受け入れることは到底出来ない。だが、彼女が何かを希求した気持ちは分かる気がする。ジャンヌは、言葉も常識も取り戻したと言った。だとすれば、春を売ることに抵抗がなかったとは思えないのだ。だからきっと、それほどまでにジャンヌはそれを欲したのだろうと。
「あの人は一緒に落ちていく人を求めているのよ。でもあたしはそうじゃない。あたしはすくいあげたいの。落ちていくあの人を」
 強い瞳で言った。
「あたしは、落ちない」
 その声も表情も、気高くて。
「ジャンヌは……」
 美しい横顔を見ながら思ったのは、一つだけだった。
「強いね」
 多くの意味を込めた『強い』という言葉を、ジャンヌは軽く受け流した。
「そりゃそうよ。あんたと違って、あたしは戦えるUGだもの」
「そうじゃなくって……いや、それもあるかもしれないけど」
 もっとうまい表現が見つからなくてもどかしい。言葉というものはこんなに難しいものだったろうか。
「好きっていう気持ちが強いなと思う。なんか……負けた」
 フンと一笑に付したジャンヌは、紗夜子の肩を抱いた。
「ばっかねえ。好きっていう気持ちは人それぞれなのよ。比べて意味なんかないわ。だってあたしは、あんたの『好き』には絶対勝てないんだもの。あんたからすれば、あたしのこれは不毛で、汚れてると思うし」
 あんたに殴られたとき、効いたわーと、笑いながら言うので、紗夜子はトオヤに叱られたときよりももっときつい気持ちで、ごめん、と言えた。そんな謝罪をとうに飛び越えたところに、彼女の意識はあったらしい。大人びた微笑で、呟いた。
「これがあたし。それでもあたしはあの人を愛してる」

「きゃあああ!!」
 近くで悲鳴が上がった。外からだ、と気付いたとき、入り口に、いかにも無頼者といった三人の男たちが現れた。その手には木刀やバットといった武器が握られ、地面をいちいち蹴りつけるような歩き方をして、戦闘のサングラスの男が言った。
「ここにカヌマってやついるだろ。出せ」
「い、いません、知りません!」
 マスターが大声で答えると、「オラァ!」という声とともに、ドアがバットで殴られ、ガラスが割れて床に散らばった。客の中にヒステリックな叫び声を挙げる女性がいるらしく、「キャアアキャアア!」と叫び続けている。
「あの女を締めた方がいいんじゃない」と物騒にジャンヌが呟いた。
「嘘つくとただじゃおかねえぞ、コラァ!」
「知りません!」
「へええ。じゃあ俺たちがここにいてもいいよなああ?」
 そう言って武器を置くと、カウンターに肘を置いてマスターに酒を出すよう言い始めた。中には女性客の間に割り込み、嫌がっているのに無理矢理肩を抱いて笑い出す男もいる。リーダー格のサングラスは、入り口に一番近いところで、その光景をにやにや見ていた。

「ど、どうしよう……」
 紗夜子が不安になってささやくが、ジャンヌは平然としていた。
「どうもしないわよ。その内べろべろに酔っぱらうから、その時に出ればいいのよ」
 どれくらいの時間か分からないが、同じ店内にいたくないと、男たちの声が響くたびにびくつく紗夜子だ。
「お?」
 酒を飲んだ男が、こちらに気付いた。さっと顔を背けたのがいけなかった。男を煽ったらしく、薄笑いを浮かべながらこちらに近付いてきた。
「おお? 見たことあるような顔してんなああ? ちょっと俺の相手してよ」
「あ、あの……」
「ちょっとお兄さん。その子慣れてないんだからさァ」
 紗夜子はぎょっとした。思わずジャンヌを振り向くと、その目も、表情も、唇や頬の歪め方、座り方も、先ほどまでの彼女ではないジャンヌがそこにいた。くつくつと笑う声が耳の中を舐めるようでぞわりとし、それは男も同様だったらしく、男の興味はジャンヌに移る。
「姉ちゃん、美人だなあ」
「この子より?」
 彼女の爪は短い。戦闘員だからだ。しかし紗夜子を指差したしなやかな指には、まるで赤く塗られた爪が見えるような気さえした。男は笑った。
「ああ、俺が今まで見たどの女よりも綺麗だ」
「ふふ、ありがと。ねえ、一緒に飲まない? この子ったらもう帰るって言うの。あたし退屈で。ねえ、相手してよ、お兄さン?」
「いいぜ、おごってやるよ」
「そういう気前のいい男、好きよォ。だったらあんたは用なし。とっとと帰っていいわよ」
 しっしっと、犬を追い払うようにジャンヌは手を振った。躊躇していると、ジャンヌは紗夜子から目を反らし、するりとスツールを降りると、紗夜子と反対側の男の隣に腰掛けた。もうこちらを見もしない。紗夜子はおそるおそる店を出た。出る時、サングラスの男がこちらを見たが、何気なく視線を外して、ガラスを踏み、割れたドアを閉めて階段を駆け上がった。

 地上の騒がしさに取り巻かれて、安堵の息が肺から込み上げた。しかし気がかりはまだ地下のあの店にある。ジャンヌは何も言わなかったが、大丈夫なのか心配だ。ああいう人間の相手は、彼女の方が数段慣れているだろうが。
(トオヤを頼ろう)
 そう思ったのは、今日のことがあったからかもしれない。携帯電話を取り出したが、コール音が続くだけで出る気配はない。
 じゃあAYAに居場所を、と思ったが。
(そういえば、意地悪したんだった……)
 怒っているかもしれない。怒っていないと言いながら、ものすごく怒っているに違いない。学習しつつあるAYAから、無茶な報復をされると思うと怖い。
 そうすると頼れる人はジャックやディクソンくらいしかいないのだが、ふと、ブローチに目が留まった。第三階層にいた頃から、ずっと習いでつけているのだが。
「……これって無線だって言ってなかったっけ」
 滅多にスイッチを入れたことはないが、オンにする。ジジジ、と電気と空気がこすれ合うような音がした。
「トオヤ。トオヤ、聞こえてるんなら第一街の」
 辺りを探し、看板を見つける。
「『ジョーリンデ』ってお店に来て! 三人組の男の人たちが暴れてる。ジャンヌが相手させられてて……私だけ逃がされたの。三人組はカヌマって人を捜してるみたい。ジャンヌを助けて!」
『紗夜子?』
 声が返ってくる。ぱっと希望が灯った。
『お前、何してる? 無線が……』
「トオヤ、聞こえる!?」
『紗夜子なのか? お前、どうやって』
「この前もらったブローチ型の無線だよ! よかった、使えて。ジャンヌが大変なの、助けて!」
『……了解。すぐ行く。後で話聞くからな!』

 紗夜子がはらはらしながら道の左右を見ていると、あっという間にトオヤが駆けてきた。ジャックも一緒だ。
「サヨちゃん、大丈夫か!?」
「私は平気。でも店の中に男の人たちが」
「どんなやつだ」
「ジャケットを肩に羽織ったサングラスの男、青いカラコンを入れてる白い金髪の男、鼻と口にピアスをした男。みんな二十代だと思う。カヌマって人を捜してるみたいで、いきなり店に入ってきて暴れて」
「カヌマ」
 トオヤが呟き、ジャックを振り返ると、呆れたように肩をすくめられた。
「カヌマっていうたらホストのカヌマしか思いつかんわ。女癖悪うてな、しょっちゅう揉めてるで。こりゃ、またどっか大きなところの女の子に手ぇ出したんちゃうかな」
「匿ってるとしたら出すのが懸命な方だな」
「ジャンヌが絡まれてるんだってば!」
 苛々して叫ぶと、二人は顔を見合わせた。
「助けない方がいいと思う」
「なんで!?」
 理解できずに叫ぶと、ジャックが困ったように言った。
「うーんと、下手に俺らが出ると、相手を煽る可能性があるんよ。男女の修羅場は手ぇ出さんっていうのが暗黙のルールやねん。サヨちゃんの話を聞く限り、その三人組はこの辺りでシマ張ってるお兄さんたちや。UGは戦闘員であって、アンダーグラウンドの支配階級とちがうっていうのがあるから、下手すると第一街とUGで反目し合うことになるかも……」
「……ジャンヌを見捨てろって!?」
 小さく爆発する紗夜子に、「いやいや」と慌ててジャックは手を振った。
「ジャンヌなら切り抜けられる。押し倒されそうになったお前と違ってな」
 トオヤが言ったが、それでも紗夜子の腹の虫は治まらない。いくら紗夜子とジャンヌの男あしらいの経験値が天と地ほどの差があってもだ。万が一殴られたりしたらどうするのだ。
「お前に助けてほしいとは思ってないと思うけど……」
「……分かってるよっ!」
 紗夜子は地団駄を踏んだ。
「逃がされたから逃げていいのかなって。でも素直にそうして家に戻っても、私、悶々とするんじゃん。だから何か動きたかったんだよ! でも私には助けられないから」
「分かってるならいい」
 トオヤは言い、ジャックに顎で店を示した。
「ジャンヌの様子見て来てくれ。危なそうだったら連れ戻してくりゃ、紗夜子も納得するだろ」
「やっぱり俺の役目かぁ……」
 ジャックはがっくり肩を落とした。
「俺には酔っぱらいの相手はできねえからな」
「はいはい。そうやね、トオヤはむかついたら殴るもんね。ええよ、ええ、行きますよ。サヨちゃんのためやもんね」
「トオヤ、ジャック!」
 目を輝かせると、トオヤははっきり釘を刺した。
「お前はいい加減男あしらいを覚えること! 何度も助けてやらねえって、再三言ってるだろうが」
「そんなこと言ってー。サヨちゃんがスレたらがっかりするくせにー」
「ばっ」とトオヤが口ごもり、ジャックに向かって拳を振り上げるが、紗夜子には意味が分からなかった。
「どういう意味?」
「あんなー、男は大体、初心いのが好っきやねん。故事にもあるやん、若紫ってやつやな。初心い子をいかに自分好みの女にするかが、」
「もういいからとっとと行け馬鹿っ!」
 トオヤがジャックを本気で蹴り飛ばすと、ジャックは得意の敏捷さでそれを避けて、えへへと笑いながら地下へ消えていった。紗夜子はトオヤを見上げた。
「私が初心ってこと?」
 聞くなという感じで顔を背けられてしまった。
「……初心なのか?」
 どうだろう、と考えた。トオヤが注意深く観察する目つきで見ていることには気付いていない。
「……ジャンヌに言わせたら初心かも」
「比べる相手が間違ってるぞ」
「それもそうか。でも初心の基準ってなんだろう? キスの有無?」
 トオヤはものすごく何か言いたげな顔をしたが。
「……まあ、その言動が答えだよな」
 と、答えを導きだしたようだった。
「何、どういうこと?」
 しかしトオヤは答えず、背を向けて歩き出した。
「ちょっと、ジャックとジャンヌ……」
「どうにかするだろ、ジャンヌが。用事がないなら行くぞ」
 頼られてないよジャック……と彼がここにいたら落ち込むようなことを思ったが、ここにいても紗夜子に出来ることはない。店にも戻れないので、大人しくついていくことにする。


      



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