「お前、無線どうしたんだ」
「え? 前にもらったじゃん」
 覚えてないのかと落ち込みかけたが、トオヤが不思議そうに紗夜子が示した胸元を見て言った。
「もう持ってないと思ってた」
「そう。上に行ったとき、何故か取り上げられなかったんだよね。身体検査もしなかったし」
「……だいぶと舐められてるな」
 だよね、と紗夜子も苦笑した。アンダーグラウンドに逃げてUGに味方するとも考えられていなかったようだ。そこまで何も出来ないと思われていたのか、それとも――わざと見逃したのか。
 第三階層は。その中の誰が、何を思っているのか。
「トオヤ。これ、ずっと使える?」
「あ? ……まあ、UGの回線だし、親機か、一番近い子機に自動的に送受信されるようになってるから、離れすぎなかったら使えるんじゃねえかな。なんで?」
「じゃあ、何かあったら呼ぶから」

 トオヤはきっと気付かない。
 このブローチにつながっていることを感じる紗夜子がいて、勇気づけられていること。一緒に戦うための勲章やメダルみたいなものに思えるのだ。これを受け取ったときの気持ちを思い出す。トオヤの笑顔に報いたいと考えたこと。未来を考えろと言われたこと。
 今欲しい未来は、誰も強くなりたいと泣き叫ぶことのない世界。自分の無力さで誰も何も失うことがない世界だ。

 トオヤはぼそり、呟いた。
「……気軽に呼ぶんじゃねえぞ」
 それがいかにも照れていたので。
 嬉しくなってむくむくと悪戯心がもたげて何か茶化してやろうと口を開いた時、サイレンが鳴り響いた。
「襲撃!?」
「いや」
 トオヤが無線のイヤホンを耳に入れるが、もうサイレンは鳴り止んでいる。アンダーグラウンドの空気はつかの間揺れたが、すぐに元通りの澱んだような人工的な風が戻ってきている。
「誤作動かもな。たまにある」
「あるの?」
「作動確認とかな」とトオヤは応じた。そして通信に耳を澄まし、「AYAが『理由はサヨコに聞け』って言ってるらしいぞ」と紗夜子を見た。私? と目をぱちくりさせて、思い当たることは一つしかない。
「あー……嫉妬かなあ。怒らせちゃったんだ」
「嫉妬?」
「こっちの話。それならまあいいんだけど……びっくりした。また【魔女】が来たんだったらどうしようかと思った」
「二度と来させねえよ」
「そう言ってくれると思った」
 くすぐったくて笑うと、トオヤはしばらく黙った。そして「お前って……」と言いかけ、「なんでもない」と首を振った。なんでもないなら別にいいかと思って聞かなかった。
「でも、危険なのは確かだよね。私が【女神】候補だってことは、同じ候補の【魔女】に狙われるってことだし。候補承認を受けたのは、私と第四の【魔女】テレサだけだけど」
「【魔女】は四体いる。その内、エリザベス、ダイアナ、テレサが確認済みだが、もう一体が分からないんだよな。あの認定式にテレサとダイアナ以外の【魔女】はいなかった。最後の一体は行方不明だってことは聞いてるけど」
「UGって、どのくらい第三階層のことが分かるの? 誰か潜入してたり?」
「第三階層の情報収集はあいつが一任してる。あそこは全部コンピューター管理だし、あいつはそういうのが得意だからな。他のやつが下手に動くと察知されるから、得意なやつがやった方がいい。あいつは病気かってくらいこそこそするのがうまい」
 あいつが誰か言うまでもない。なんだかおかしかった。なんだかんだ言いながら、ライヤの能力は認めているわけだ。でも笑うと機嫌を損ねるのが分かっていたので、ふうんと相づちを打って流した。
「それに匿名で情報を流してくるやつがいてな。第三階層の現状に相当詳しいみたいだ。サイガが猛攻をふるってるらしいぞ。エガミも【魔女】を失ったからな」
 サイガが擁立しているのはテレサだ。三氏の中で唯一【魔女】を持っている。ライヤの言う『くそじじい』たちが威張り散らすのも無理はないだろう。
 しかし、トオヤの言葉を聞いてどきりとした。何故か、その情報を流している人物が、ナナエではないかと思ったのだ。どきどきを鎮めるために息を吐き、呟いた。自分に訊くのと同時に、彼にも。
「勝てると思う?」
「勝つんだろ」
 トオヤの答えは迷いがない。
「アンダーグラウンドの全住民が、お前を守る。お前はUGの【聖女】なんだから」
 紗夜子は顔を覆いそうになって、口元を押さえるにとどめた。その選択は失敗だった。今、耳まで真っ赤に違いない。
(反則だ……)
 そんな風に言い切られてしまったら、守ってくれるんだと信じないではいられないではないか。私は強くなりたいのに。でもそんな葛藤なんて丸ごと受け止めた上で、守る、と言ってくれるに違いなかった。紗夜子が、「強いから守りたいんだ」と言ったのと同じように。
「…………って、トオヤ今【聖女】って言った!?」
「おう【聖女】」
「にやにや笑うなあ!」

「……あんたたち、何じゃれ合ってんのよ」
 声がして、振り返ると、髪を肩から払うジャンヌの姿があった。呆れた目をしてこちらを見、持っていたものをトオヤに投げ出した。
「はい、これ。ちゃんと連れ帰りなさいよね」
 どさりと地面に転がったのは、長い手足の男。
「……ジャック?」
「あははははトオヤ任務終了したであははははは」
「お兄さんたちと意気投合しちゃったのよねえ、女盗られたって」
 ジャンヌは疲れたように手を振った。
「まあおかげで外に出られたんだけどね」
「あははははなんか楽しいわああははは」
「うるさい」とトオヤが言った。紗夜子も頷いた。
「ジャックって笑い上戸だったんだ……」
「いや、あれは悪酔いしてる。普段は赤くなるくらいなんだけど。おい、何があったんだ」
 笑い声をずっと響かせているジャックは、まるでゴムかシリコンのようにぐねぐねと身体を投げ出して笑い続けている。仕方がないと諦めたらしいトオヤは、彼を肩で担ぎ上げた。
「俺、こいつ連れて帰るから。お前たちもちゃんと帰れよ」
「責任もって送るわ」
 ジャンヌがそう請け負い、そうだ、と言ってトオヤに紙片を投げつけた。
「客が見せびらかしてた。光来楼のシオンのたもとからくすねたんですって。返しといてよ」
「なんだ、これ」
 トオヤが首を傾げながら、四つ折りにしたそれを開く。紗夜子の覗き込んだ。そして、眉間にしわを寄せた。
「赤ちゃん……? あっ」
 じっくり眺める前に、トオヤが素早く折り畳んでポケットに入れてしまった。そして、紗夜子に低く言った。
「ディクソンには、黙っとけよ」
「う、ん……」
 威圧するような声に怯んで頷く。
 そして、ジャックのあははという声を汽車の煙のようにたなびかせて、二人は遠ざかっていった。
 今の写真の赤ん坊は誰だったのだろう。シオンのものだといい、ディクソンに黙っておけというなら、きっと二人の子どもなのだろうけれど。
(髪の色と目の色が……)

「さて……あんたはまた余計なことを」
 じろりと睨めつけられ、紗夜子は身をすくませる。
「う、ごめん……」
「思考が辿れるからもういいわ。まったく、お人好しね。あんた、交戦時でも負傷した人間を気にして前に進めなくなるんじゃない?」
「うん……」
 簡単に想像できて肩を落とすしかない。UGたちが仲間を見捨てているとは思わないが、自分の任務遂行を優先して前に進むことは、なかなか難しいだろうと思うのだ。だから、身体も精神も磨かなくてはならない。
 そんなに強くなれるのかな。いつまでも甘ったれの自分を知っているだけに不安になっていると、ジャンヌは大きなため息をついた。
「それがあんたのいいところでしょ。特技として活かすようにしなさいよ」
 弾かれたように顔を上げて、赤い髪をなびかせて歩き出すジャンヌに慌ててついていく。一体、どんな顔をしてあんなことを言ったのだろう。
「ジャンヌ、こっち向いて!」
「嫌よ! あたしはさっさと帰りたいの!」



     *



『【女神】にどんなAIが組み込まれているかは、まだ分からない』
 一応、組織体系として、本部と先鋒部隊の情報交換は行われている。ジャックとの一件以来、そのやり取りは活発化していた。それまでトオヤたちにとって不明瞭だった本部の目的を、ライヤたちは今になってようやく明らかにしつつあったのだ。ただの手足の末端でしかなかった先鋒部隊は、本当の意味で先陣を切る先鋒部隊と変化しつつある。
 その最初の言葉は、UGたちが倒すべき統制コンピューター【女神】についてだった。
(統制コンピューターの後継者に、どうして人間が選ばれる? コンピューターと人間の繋がりって、どういうものなんだ?)
 統制コンピューター【女神】。
 人が統制コンピューターに接続されることは、理論上は可能である――と本部上層部はトオヤたちに告げた。だからこそ、紗夜子を守れ、と発破をかけてきた。
 だったら、現在の【女神】は人間である可能性は?
 トオヤの問いに、ライヤは憶測を述べなかった。ボスもまた推測を遮断した。『言うべきではない』と言ったのだ。その場にいた数名の脳裏には、同じ人物の姿があったことだろう。
 かつての仲間を、友人を辱めたくないという気持ちがあるのは分かる。だが、あんなことを言ったからには、ライヤには、まだ、トオヤたちに明かしていないことがあるはずだった。
(だから嫌いなんだ、あいつ)
 知らなくていい、知らない方がいい。それを免罪符にしてトオヤを遠ざける。だから文句を言われないようにするためには、強くなるしかなかったのに、未だ、ライヤやボスは秘密を抱えていた。
 お前はまだガキだと、言われている気がした。
「……トオヤぁ……」
 笑い疲れたらしく、担いでいたジャックがもぞもぞと何かを言った。寝言を言うように聞き取りにくい。
「俺、お前、好っきやでぇ……」
「はいはい、ありがとうありがとう」
「んでなぁ……サヨちゃんも好っきやねん」
「だと思ったよ」
「だからなぁ、俺、二人に幸せーになってほしいねん」
 適当に相づちを打っていたが、突然、胸の中で仕切りのようなものが降りてきて、トオヤに考えさせた。

 紗夜子。
 声が蘇る。
 ――頼ってほしい、守りたいって思うんだよ!

 笑ってしまう。自分を守るのもあやふやなくせに、どうして俺なんかにそんなこと言えるんだ、お前。
 眩しいのは紗夜子の方だった。慕ってくれるあいつだった。真っすぐにこちらを信じている、その純粋さに目を背けたくなるくらいに。

「サヨちゃんを幸せにせな、許さへんで」
 ジャックはそれを言って寝落ちした。ずしっと身体の重みがかかる。酒臭い息で寝息を立て、満足そうな顔で目を閉じていた。
「……あいつを幸せにするのは、あいつ自身だよ」
 今のままでは、多分。自分にはやれない。平穏も、タカトオの死も。すべての憎しみの終わりも。いつだって、己の中の始まりと終わりは、自分にしか決められない。
(なあ、紗夜子)
 何の力もない。紗夜子を守ろうとしている自分は、自分もまた大人たちに守られている。守られたくない、子どもじゃない、自分はもう独り立ちできる。
 紗夜子を守ってやりたい。そう叫ぶのと同じ、庇護欲。
(なあ、紗夜子……頼むから)

 もうこれ以上、俺に何も出来ないと思わせないでくれ。


      



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