『ぐっもーにん! さよちゃん今暇? 暇だよね、じゃあ今から地下三層に来てくれる? 人手が欲しくて手伝ってほしいんだよねー!』
 寝起きのがっさがさの声で、紗夜子は言った。
「…………今、何時……」
『七時半!』
 中年親父の元気のいい声が携帯電話から飛び出し、しぱしぱする目で時計を見た。確かに、七時半。紗夜子の睡眠時間は五時間といったところか。
「今……起きたところ……」
『だったら一時間後、地下三層に集合ってことで!』
「……どうして、私が……」
『コーヒーおごったじゃーん?』
 あなたが奢ってくれるって言ったからじゃないかとか、そもそもトオヤとのすれ違いの一件はまだ許せてないとか、この番号をどうやって知ったのかとか、七時半にこのテンションはとか……考えることは山ほどあったが、言葉としてまとめられなかった。結局「九時まで待って……」としか言えなかった。
『オッケーオッケー。じゃあ、九時までに来てねー!』
 何の後ろめたさも感じられない明るい声で電話は切れた。通話終了ボタンを押して、紗夜子は枕に顔を埋めた。目が痛い。身体が重い。一瞬寝てしまい、はっとして起きると七時四十五分だった。急いで起き上がった。

 封を切っていたシリアルとヨーグルトで朝食とし、顔を洗って歯を磨いて着替える。人手が欲しい手伝いと言われたからには動き回ることだろうと考え、汚れてもいいトレーナーとジーンズ、髪はポニーテールにする。部屋の鍵を閉めて飛び出した時、時計は八時半。まあまあのタイムだ。
 エレベーターを使って三層に降りるのだが、下から上がってきたエレベーターには大勢のUGが乗っていた。
「お、うっす、【聖女】!」
「【聖女】は止めて。おはよう。どうしたの、その荷物」
 UGたちの手には一抱えの荷物がある。段ボール箱、紙袋、たくさんの荷物を持って、エレベーターを上がってくるのだ。
「本部の整理するからって呼び出されたんだよ。引っ越しでもするみたいだぜ」
 急ぐからまたなと言って、UGたちは列をなして去っていった。下から呼ばれるエレベーターに慌てて飛び乗り、地下三層に向かうと、これまたUGたちが荷物を持って並んでいる。彼らに挨拶して、紗夜子は駆け足で本部に向かった。
 三層は騒がしかった。男性たちは荷物を運び出しており、女性たちは荷物を仕分けしているようだ。言われたように大掛かりな引っ越しという光景に、紗夜子は首をひねる。一体、何が始まったのだろう。
「あ、サヨちゃん。おはようさん」
 ジャックが荷物や女性たちをまたいでやってきた。いつもの髪は後ろにまとめられ、バンダナが巻かれている。いかにも作業中といった格好だ。
「おはよう、ジャック。……う、酒くさ」
「二日酔いやねん、ごめんやで」
「ジャック、倉庫の荷物に手を付け始めていい!?」
「お願いしますーおねえさんー」
 まかしとけ! と腕を上げて、女性たちが向かっていく。
「これ、どういう状況? ライヤさんに手伝いにきてって言われたんだけど」
「荷物を上にやってくれって言われてん。そしたらおねえさん方が『片付けもしよう!』って言い始めてな。引っ越しと模様替えが同時に始まってん」
 バンダナやタオルを首や頭に巻いた人々が動き回っているが、一部では出てくる品物をじっくり眺めていたりもする。片付け仕事にはよくある光景だった。しかし、本はともかく、ガラガラにしか見えない玩具やモビールなどは、本当に必要なものなのだろうか。その前に、何故、本部に赤ん坊の玩具があるのだろう……。
 ともかく、紗夜子は袖をめくった。
「手が足りないところってどこ? 手伝うよ」
「助かるわあ、ごめんなー。指示だけ出して、オヤジさんもボスもどっか消えて困っててん。オヤジさんが、サヨちゃんが来たらここでおねえさんたちのお手伝いしててーって」
「そうなの? ……どうしかしたの、ジャック?」
 何とも言いがたい顔をしているので尋ねると、ジャックはぶつぶつと何かを呟いている。
「…………ぜんっぜん普通やん。覚えてへんやん! いいんやけど。いいんやけど、なんかつまらんなあ……。いいんやけど、俺にとってはうつくしー思い出やし……」
「サヨコいいとこに! 手伝ってー!」
「あ、はーい!」
 そこにいた女性たちに声をかけられ、倉庫に呼ばれた紗夜子はジャックを放り出して仕事を開始した。倉庫は埃っぽく、薄暗かったが、かしましい女性たちの声が常に響いているので明るい。
「きゃー! アルバム出てきたー!」
「え、どれどれ!? いやーん、トオヤかわいー!」
 トオヤと聞いて紗夜子も飛び上がった。かわいいかわいいを連呼する女性たちの上から、紗夜子も覗き込む。
「わ、かわいい!」
 黒髪を切りそろえ、ブラウスとサスペンダー付きの半ズボンを履いている、切れ長の目をした美少年の姿があって、紗夜子も思わず叫んでいた。見れば見るほど、将来美形になる顔だ。
「もしかして、こっちはジャックですか?」
「そうそう、こんな顔してた」
 隣に、手足がひょろりと長いさわやかな少年の写真がある。笑顔が今のジャックと同じだった。にこーっと楽しそうに、嬉しそうに笑う顔だ。側にいる渋い男性はボスだった。こちらは、昔もダンディの気配が漂っているが、今の方が渋みを増してかっこいいと感じる。
「今やクッソ生意気なガキどもだけどねえ」と女性たちの感慨は深いようだ。
「おねえさんたち手ぇ止まってますけどー? ……って、え? なんでそんなに睨むん?」
 やってきたジャックは、じっとりした目とため息に迎えられてしまった。
「何見てんの? アルバム? うわ、恥ずかしいやめて!」
 取り返そうとするが、仲間にするように女性には手を出すことができず、アルバムは遠ざけられて、ジャックは両手で顔を覆った。
「黒歴史やのに……」
「そんなことないよ、かわいかったよ」
「そんな慰めいらん。あーもー、おねえさんたちに倉庫任すんやなかったー」
 とほほという顔でジャックは放り出されたままの荷物を箱に詰め始める。紗夜子も、その手伝いを始めた。女性たちはまた別のアルバムを取り出して盛り上がっている。また後で見せてもらおう。シャッター音がしているので、携帯電話のカメラで撮っているのは間違いないのだから。ジャックはますますがっくりしている。

 写真を見て、ふと思い出したのは、シオンのものだという赤ん坊の写真のことだ。
 ちら、とジャックを見る。ジャックは気づいて首を傾げた。それに、にこっと笑ってみせる。
「そういえば、ジャックとゆっくり喋るの久しぶりかも」
「え? あーそうやなあ。サヨちゃんトオヤしか見てなかったもんなあ」
「ええ!?」
 真っ赤になると、ジャックは笑い出した。くすくすと笑うさまは、写真と同じだったけれど、ずっと大人びている。
「そんな風に、見えた?」
「見えた見えた。トオヤしか見てなかったもんな」
「そんなに私って分かりやすい人間だったのかなあ……」
「最初会った頃は、そんなことなかったで」
 その理由を、ジャックは思い返すようにゆったりと語った。
「なんて言うんかな。んー、すごく『普通』やったんよ。すごく普通の女子高生。俺らが描く感じの。女子高生っていったらこう、みたいな。ストレートに思考が辿れるんやけど、でも女子高生ってそんな単純なんか? この子自身の考えってどれなんやろう? って疑問に思ってた」
「今はそんなことないの?」
「うん。だって、人の好悪に関してはサヨちゃん素直やねん。大好きと大嫌いがすごい分かりやすいで」
「そうなんだ……」
「好悪に関して『は』、な」
「え、何か言った?」
 ジャックは微笑んでいた。
「でも、ジャックの言ってること、当たってるかも。第一階層にいた頃と違って、ここじゃ好きになったり嫌いになったりできるくらい、人と付き合えるんだもん。第一階層の私、誰かと深く関わろうと思ってなかった。関われないと思ってた。多分いつか私はここじゃない別のどこかに行かされるんだろうとか考えてたから」
 居場所を、大切なものを作れば、それはタカトオによって奪われる。第一階層に落とされてから、ずっと思考の裏側に張り付いていた恐れだった。立ち向かう術がなかったから、奪われるものを作らないようにしてきた。
 でも今は。彼らはそう簡単に奪われてはくれないだろう。
「ジャックは……どうしてあんな危険なことしたの?」
「ん?」
「だって、トオヤ本気で怒ってたよね。ディクソンとも戦ったし。ジャック自身は第三階層っていう敵地に乗り込んで危険な目に……。私、三人が一緒にいないの、嫌なんだ。一人も欠けてほしくない」
「俺もな、そう思ってん」
 紗夜子は手を止めた。まとめられた冊子やファイルを詰めていくジャックの手も止まる。
「だから俺、強くなりたかった。変わりたかった。世界は変えられんかもしれんけど、自分は変えられる。だから動いた。色々無茶やってんけどな」
 ジャックは苦笑する。
「一緒にいたい、いつまでも。でも、そのためには、離れるための勇気も持たなあかんとも思った。大事にしたいだけやったらあかんねん。もう一つ、捨てるための勇気も必要やって。俺はトオヤやディクソンを失いたない。でも、その思いだけやったら弱い」
 いつの間にか声は止んでいる。

「サヨちゃん」
 だからその声はよく響いた。
「トオヤを買いかぶったらあかん」

 言葉も表情も、凍り付き、固まった。思考が止まり、息は滞り、ジャックの真っすぐな目とその言葉は、鉛のように胸に沈む。ぞっとするくらい衝撃を受けていた。
「――……」
 それでも何か言わなければと口を開き、言うべき言葉を見つけられずに呆然として。

「あでえっ!!?」

 ごす、と鈍い音がして、重い物がジャックの背後に落ちた。ジャックが後頭部を押さえて呻く、その向こうに、ジャンヌの投擲を終えたポーズ。
「……決まった……」
 彼女はふっと息を吐いた。途端、周りから拍手が起こる。
「痛いやんかジャンヌー!」
「いい年して小娘いじめてんじゃないわよ。信じさせてやりなさいよ、男でしょ!?」
 涙目になったジャックが食いかかると、ジャンヌはそう言った。そうだそうだ、の声が上がり、圧倒的な声の差にジャックはぐうの音も出ないようだ。他人事のように可哀想だなあと思ってしまう紗夜子だった。
「…………」
 買いかぶってはいけない。
 重かった。ライヤよりも真っすぐに、紗夜子の胸に波紋を投げ掛けていった。危険性を指摘するよりも、忠告していったのだから。だがいつまでも動揺しているわけにはいかない。落ちたアルバムを拾い、散らばったページをまとめようとかがみ込むと、一枚の写真が目に飛び込んできた。

 白い後ろ姿。

 どくん、と鼓動が打つ。周りの音が歪んで、遠くなる。嫌な予感。汗が出る。
 拾い上げたページを震える手で眺める。その人物は、後ろ姿だけで正面が映ったものは一枚もない。だからよく見なければならない。いや、見るな。見ろ。見るな。見ろ。見ろ見ろ見ろ。

「……サヨちゃん?」
 ふらついた紗夜子の手をつかんだジャックが顔を覗き込む。アルバムが落ち、今度こそページがバラバラになった。
「どうしたん、顔真っ青や。ちょっと座り、ほら」
「だい、じょうぶ……平気、ちょっと、疲れただけ……」
 声が、どこかから聞こえてくる。つい最近それと似た声を聞いたせいだろうか。あの人であるはずがない。紗夜子の目の前から消えてしまったはずだった。
 でもその行方を聞いたことがないというだけ。

「――おい。……おい、ジャック!?」
 倉庫にUGたちが飛び込んできた。
「なんや、どうした?」
「テレビ、テレビテレビテレビ!」
 テレビがどうしたねん、とジャックが聞き返すが、「早く、早く見ろって!」とばたつくばかりだ。紗夜子が立ち上がると、心配そうに支えてくれるので、言った。
「だいじょうぶ。行こう」

 倉庫内の女性たちと共にモニターのある部屋に行くと、みんなぽかんとして画面に見入っていた。


『――時、ライヤ・キリサカ氏が会見を行い、第一階層と共にエデン運営に携わる旨を発表しました。この会見によってキリサカ氏は事実上第三階層を離反することを宣言したことになり、これを受け第三階層のサイガ氏は、』


 あっけにとられてそれを聞いたUGたちは顔を見合わせる。だが、平然としているUGもいた。
「これってつまり」

「アンダーグラウンドと第一階層の共同戦線だ」

 言った人物に注目が集まる。白衣のポケットに手を突っ込み、真っすぐに、モニターに映るライヤを見ているのはオオナミだった。
「第三階層に虐げられていたのは俺たちだけじゃない。第一階層だってこの階級の現状を打破したい。ライヤはその第一階層の有力者たちに協力を取り付けた」
 病的にこそこそするのがうまい、というトオヤの言葉が蘇る。
 準備されてきたのだ、静かに。長い時間をかけて。UGたちの一部にすら秘密にされて。

「現状、第三階層は第一階層を労働力として支配階級にある。第一階層すべてに範囲を翻されれば、やつらは機動力を失うはず。アンダーグラウンドは少しずつ働きかけ、第一階層が第三階層の支配がなくても運営できるように準備を整えてきた」
 第三階層は慌てるだろう。逃亡したはずのキリサカが第一階層を負って立ち上がった。真っ向から対立し、エデンを変革するために。
「四年前と同じ轍は踏まない」
 フラッシュ一つ光らない、彼らだけの記者会見で、スーツ姿のライヤが宣言する声が響き渡った。
『俺たちは、これからエデンの階段を上る!』
 歓声が、上がる。


      



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