人気のいない自宅マンションの屋上の縁に腰掛けて、背伸びすれば届きそうな、けれどやっぱり距離のある、回路の光る天井を見上げ、振る舞われた缶ジュースをごくりと飲んだ。遠くから宴会らしい声が聞こえてきている。アンダーグラウンドの悲願の一歩が達成された。これから、UGは地上へ、空を見上げることを許されるのだから。
地上を揺るがすような大歓声が地下からあがり、地上もまた穏やかではいられなくなった。第三階層の声明はまだ出されていない。ライヤも多くを語らなかった。第一階層は、これから始まる大きな運命の予感を覚えながら、日常を装い、人々はこれからのことを誰かの耳に語ったり、胸の内で思いめぐらせたりと、考え始めるのだろう。
靴音がした気がした。顔を上げると、肩に温かいものがかぶさった。スーツのジャケットだった。
「冷える」
一言トオヤはそう言って、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。ネクタイを緩めた後、温い空気に目を細めている。
「うん……ありがと」
ジャケットは温かかった。まだトオヤの体温が感じられる気がする。
「ジャックが気にしてたぞ。『疲れたから』つって先帰ったって」
「うん」
今頃、前祝会があちこちで開かれている。ジャックと少しだけ参加したが、すぐにここに戻ってきていた。
しばらく話題を考えて、まず、切り出す。
「トオヤ。……シオンさんの写真のことなんだけど」
「今ここで俺に聞くか?」
「聞く人、トオヤしかいないんだもん」
頭痛のしていそうな顔でトオヤは顔をしかめた。
「あれは……ディクソンとシオンの赤ん坊だ」
「銀の髪と目をしてた」
小さく、しかしはっきりと呟くと、トオヤは言葉を止めた。紗夜子は確認するように、でしょう、とトオヤを見た。
「どうして?」
「分かんねえ」とトオヤは首を振った。
「ほんとに分かんねえんだよ。赤ん坊はアルビノかと思ったらそうじゃないって診断された。シオンはディクソン以外の誰かと関係は持ってないって言った。むしろ、人工授精を頼んだっつって」
「人工授精」
それは、法律で禁止されている行為ではなかったか。禁止とはいかずとも、政府の許可がなければ行えないことになっているはずだ。
「……その子は?」
「死んだ。生まれて一週間後に」
トオヤの返答は簡潔だった。紗夜子は何も言わない以外に応えることができなかった。
あの優しい二人は、きっと、生まれた子どもを大切にしてくれただろうに。守りたかっただろうに。
(みんな、戦ってる。大切なもののために)
水面に石は投げられた。波紋は描かれていく。築かれた山の足下に爆薬が仕掛けられた。火をつけるのは時間の問題だ。
望まない人はいるだろう。すべての人間が、認知されることを望むわけではないことは分かっている。それでも、平等という言葉は夢を見させた。もう、生まれたところを理由に、誰にも見下されたり利用されたりすることはない。美しい世界ではないことは分かっている。その道の正否は誰にも分からず、だから正しいのだと信じ続けることしか望んだ道を作り上げていく術はない。迷ってはいけない。
だから私は、タカトオと決着をつけなければならない。
(でも、私はタカトオを殺すことができない)
許したわけではない。殺したいくらい憎い。大切なものを奪い続けてきたタカトオが、すべてを失うところを見てやりたい。絶望させ、死にたくないと言わせて殺したいと今でも思っている。
でも、それが正しい方法でないことくらい、とっくに知っていた。
折った膝に顎を乗せた。
エデンを変える。
そのためには、私が変わらなければ。
誰かを殺したいと考えている人間に、誰かが愛してくれる世界を作ることはできないと思うから。
「紗夜子」
「怖いね」
紗夜子は顔を埋めた。泣きたい。
「世界が動くのが怖い。物事の始まりや終わりが、世界のすべてや自分と向き合わなくちゃならないのが、怖くてたまらない。答えなんて出せない。でも迷いながら行くのも嫌。信じられるものがないのが、震えるくらい怖い。世界を変えるってこんなに怖いことだったんだ」
世界は流転する。回転し、巡り、歯車は回り、大いなる力で物事が動く。始めるのは人間でしかないが、その歯車機関そのものを止めることは、人間には難しかった。取り返しのつかないことになるのではないか。その歯車がすべて回りきったとき、何を呼び寄せるか分からない。それを、運命を呼ぶのだろう。
世界と運命は切り離せない。自分と世界が強固に結びついているのと同じくらいに。運命に挑むには世界と、世界に対するには自分と、向き合わなくてはならない。そう紗夜子は思った。
「誰かの命を奪って批難される覚悟、ちゃんとしてたつもりだった。殺したら、殺されても仕方がないと思ったよ。でも、そういう恨みや憎しみを断つには、私がまずそうしなくちゃならなくて。私はタカトオが憎い。復讐したい。あんな高いところから命の優劣をつけたあの男が許せない。でも、その気持ちを捨てなくちゃならない。でも諦めきれないのも本当なんだ。あの男のせいで死んでしまった友達がいるから……」
紗夜子は静かに笑い、唇を噛み締めた。
「思い知った。理想を口にしても、それを現実にするのはすごく困難なこと。私は、憎しみを抱かずには生きられない生き物なんだってこと……」
それでも敢えて理想を口にするなら、紗夜子は批難されるだろう。しかしそれは真実だ。紗夜子の精神を押しつぶす、批難と罪の恐れと、ひとかけらの希望の心だった。
「でも私は――」
温い風が、取り巻く。肌を撫でるこの風に身を任せても、どこにも行けはしないのだ。自分という存在は、目の前の影のように常に傍らにあるのだから。
紗夜子は顔を上げた。見えない空に、願いをかけるように。
「私は――そういうものを全部、持っていく。迷いながら進み続けるしか、ないと思うから。全部を抱えていくしかないんだ。その先にきっと、答えがあると信じて……」
同じように側にありながら、ただ言葉をぶつけられるだけの存在と化していたトオヤは、その時初めて気配を感じさせるように動きだし、紗夜子の隣に腰掛けた。風が遮られ、代わりに体温と呼吸が感じられるようになる。ただそれも、今の紗夜子にとっては自分を責めているようにも思えた。迷うなら、銃から手を離せ。覚悟もなく銃弾を放つな。なんて弱い覚悟。繰り返し選択を迫られ、戦うことを選んでも、結局自分を守りたいがためにその選択に立ち返ってくる。汚れたくないからだ。まだ、私は動き出せていない。
でも、それこそが私を人間足らしめているのだと、思う。
「……例えば、この銃が運命だとしてな」
トオヤが背中のホルスターから銃を抜いた。
「この部品一つ一つが、世界っていうものだとする。世界っていうのは、人間とか関係性とか、人が生きること、そのためのことすべてを言う。部品が集まって世界が作られてるわけだ」
重い一丁のピストルがトオヤの大きな手のひらに乗っている。そのグリップを彼は握りしめた。
「でも銃弾は、その世界から飛び出すものだ。銃弾が発射される仕組み、知ってるか? この中ではものすごい力が働いて銃弾を撃ち出す仕組みになってる。様々な部品の力がここに集結して、運命を飛び越える。でも、そのためにはトリガーを引く手が必要だ」
紗夜子の手首を取って、トオヤは広げさせた手の上に銃を置いた。重い。トオヤの銃は、紗夜子にとって重い。
「トリガーを引く手の役目は『選択』だ。ただ、その選択をするために、人間は色んな葛藤と戦わなければならない。運命と世界を握り、その運命を飛び越えるための力を撃ち出す、その決断が、どうして簡単なものだって思うんだ?」
トオヤは紗夜子の指を包み、銃を握らせた。
「俺たちはこういう人間だから、トリガーを引くことでしか運命を飛び越えられない。頭のいい奴らだったら、他の方法を知ってるんだろう。そんな風に、お前が同じ方法を選ぶ必要はないと思うし、これしかないと思うなら、決断を誤るな」
「うん」
紗夜子は真正面からトオヤを見つめた。
「一緒に戦いたい。強くなる。私、未来がほしい。みんなが当たり前に生活できる世界がほしい。そのためになら、どんなことだって受け止めてみせる」
「お前、やっぱり変わった」
言って笑ったトオヤの目は、寂しげに光っている。
「でも強くならないでほしいとも思う」
「……どういう、こと?」
「仲間は、すぐに、いなくなるからな」
冷たく、固くこわばった声だった。トオヤはかけられる言葉が見つけられない紗夜子を見つめていたが、ふと向こうへと視線を投げ、足首を交差させるとその上で手を組み、どこか遠いところを見ていた。
「強いやつほど、いなくなる。強くなろうと、何かを守ろうとしたやつほど、去っていく」
どれくらい見送ったのだろう? それが戦いなのだと言えばそれまでだけれど、どのくらい傷つけば、人は強くなれるのだろう。だって、トオヤは今でもその悲しみを抱いているのに。
そして、気付いた。トオヤの横顔。遠くに行ってしまった仲間たちを思い、それでもまだ銃を握っている彼の心を。紗夜子が何度も尋ねてきた、その理由。
「じゃあトオヤは、」
強くなれ。紗夜子に言ったそれは、きっと。
自分に。
「そんな人たちのために、強くなろうとしてるんだね。UGを、そこに住む人たちを守ろうとしてるんだ。自分が、誰かの前からいなくなることがないように」
トオヤが目を大きく見張って、紗夜子を見ていた。だから、見つけた彼の理由が間違っていないことを確信した。すると、込み上げてきた感情が、紗夜子の目に溢れた。
「それってすごく、優しくて強いことだね」
トオヤだって迷っている。終わらない弱さを抱えている。それはきっと、すべての人に言えた。揺るぎない人なんて、そう簡単にいやしない。
無力さに打ちひしがれ、誰かを亡くすことのない世界を手に入れるために。
きつく目を閉じ、勢いよく空を見上げた。
運命を握りしめて。
ピリリリリリ、と着信音が鳴り響く。遅れて、もう一つの音が重なった。二人の携帯がそれぞれ鳴っているのだ。
「ジャック?」
「AYA?」
『テレビを見てください』
『大変やトオヤ!! 今どこ!?』
「たまり場のマンション、」
『はよ来い、テレビ――!!』
二人は顔を見合わせ、次の瞬間急いでたまり場にしている部屋に向かった。ドアを破るように乱暴に開くと、ディクソンがちらりと視線を投げ、すぐにテレビに向き直る。ジャックは両手をだらりと下げて、食い入るようにテレビを見ていた。
『――階層サイガ氏はライヤ・キリサカ氏について以下のようにコメントしております。『エデン機構を乱す者に、我々はいっさいの容赦をしない……』
「これがなんだ?」
「しぃっ! 黙って」
『――日、第三階層は、統括コンピューターのOSの更新を発表しました。また、それに伴い、第一階層、第二階層、第三階層から、技術者の募集をかけるとのことです。詳細は公式ホームページをご覧ください。また、第三階層の代表として、統制コンピューター【女神】の管理者代表、セシリア・アルファ=テンが声明を発表しました』
――ぞっと、全身が総毛立つ。
映像が切り替わり、無数のフラッシュに白く点滅する記者会見場が映し出される。映っているのはタカトオ、エガミ、サイガの三氏と。
白い女。
それが誰かを、紗夜子は知っていた。ずっとずっと、知っていた。
『長らくわたくしは【女神】としてこのエデンを見守ってきました。しかしいつの間にか、エデンは選ばれし者たちの場所であるという、大きな誤解がこの都市を取り巻くようになっています。そんなことはありません。エデンは常に開かれています。それをすべてのエデン住民に知ってもらうべく、この会見を行うことにしました。わたくしを目指してください。わたくしの元へ歩んできてください。わたくしたちのエデンのために、あなたの力が必要なのです』
銀の髪、銀の瞳。白いドレスに肢体を包み、声もまた銀の鈴。
『この度、皆様に初めてご挨拶することになりました。わたくしはセシリア。【女神】セシリアです』
紗夜子はその姿に見入る。アルバムの写真の後ろ姿。投影装置から降ってきた白い姿。あの声。すべて、記憶のまま。六歳の時に別れた、あの正義ほどの美しさは損なわれていない。
声が、する。
わたくしは紗夜子を愛しているわ。
「――おかあさん」