Stage 08 
      


 誰も、何を言ったのか分かっていなかった。まだ報道は続いている。キャスターが三氏の声明を読み上げ、コメンテーターが興奮したように【女神】管理者代表の美しさをたたえ、経歴を読み上げた。すべての音は空々しく、聞こえる説明がその通り偽物であることは、紗夜子だけが知っているはずだった。
 だって、あの人は。


「……『おかあさん』?」
 誰かが言った。そこで初めて、紗夜子はその言葉を口にしたことを知った。全身が総毛立ち、再び画面に映った白い女の微笑みに、悲鳴を上げた。
「どういうこと……この人は、十年前私を捨てた、私のおかあさんだよ!」



     *



 セシリア・アルファ=テンが銀にきらめくローブを引きずって歩み出すと、彼女から目を離せぬその場にいたすべての人間のため息が漏れた。白銀の女神はそんな人間たちには目もくれず、床につくほどの髪を甘い水のような香りとともに揺らし、会見場を後にした。その間、誰も一言も口をきいていない。
 会見場を出た彼女に一瞬怯んだ後目礼して、護衛や補佐官たちが続いた。彼女の前を歩く人間は誰もいない。そうさせない、許されていないのではなく、できないのだ。例えどの方向を見ていても、彼女の存在は感じられる。風が吹くように。香りがするように。影にさす光のように。
 セシリアが絶対的な微笑を浮かべたまま、滑るように歩いてくるのを見て、亜衣子は優雅に一礼し、頭を垂れた。その手には薔薇がある。自宅の庭に咲いた春の最後の薔薇は、美しさと艶やかさを妖しいほどにひたひたと含んで、濃く、深い、闇のような紅の花弁を重ね、強い香りを振りまいていた。
 女神は足を止めた。花を見、同じ目をして相手を見た時、亜衣子はこのときを待っていたと勢いよく顔を上げた。
「お久しゅうございます、セシリア」
「まあ、アイコ。久しぶりね」
 セシリアは目を細めた。銀の粉が落ちるのではないかというくらいまつげが長く、形作られた微笑みは、対した相手の鼓動を速めた。顔が赤くなるのを自覚したが、亜衣子は知っていた。常に冷静沈着でいて、研究所の第一線で働いている自分が、少女のように頬を染めた顔はおそらく魅力的なはずだ、と。
「覚えていらっしゃったんですね」
「もちろんよ。とても美しく成長したこと」
 本物の女神にそう言われても、それは小さくて可愛いという愛玩と同じだったが、気分はますます高揚していった。
「ありがとうございます。セシリアも変わりなくお美しくて嬉しいです」
「元気なの? 相変わらず機械のいじくりが上手なのかしら?」
「はい。今日も研究所に出勤しました」
「それはよかったわ。あなたのことは、いつも気がかりだった。泣いて私に縋ってくれたわね」
 ぴくっと、亜衣子は身体を震わせた。
 胸の底で、ふつと煮えたものが生まれる。
「……それは、私ではありません」
「そうだったかしら?」
「ええ。……それは、エリシア……紗夜子です」
 亜衣子の血のつながらない妹、生き汚い生き残りの妹の名前を呼ぶと、亜衣子の表情には気付かずに、セシリアはゆったりと笑顔になった。亜衣子の目には、その顔は無邪気な夢見る少女のようだった。
「ああ、そうだったわね。わたくしの紗夜子。あの子は今、わたくしを目指しているのね。ねえ、亜衣子。あの子の行方は分かっているのかしら?」
 いつもそうなのだった。セシリアの感心は、常に紗夜子にある。女神の血を受け継いだたったひとりの子ども。女神に愛された紗夜子。しかしその手は血に塗れている。亜衣子は忘れていない。セシリアにとって我が子が一人なら、亜衣子にとっても妹は一人。
 九歳で殺され死んでしまったあの子だけ。
「……はい、分かっています。今は、アンダーグラウンドに」
「アンダーグラウンド?」
 セシリアの瞳に浮かぶのは、確かに歓喜だった。目をそらせないほど確かに、陶酔に似た、歓喜の表情にしか見えなかった。ああ……と香しい吐息を吐き出すと、うっとりと言った。
「そう……。どんな子になっているのかしら? わたくしに得られるのはデータだけなのよ。データ処理でなく、視覚として処理するのがとても楽しみなの。あなたから見たあの子は美しい? それとも醜いかしら? でもいいのよ、強ければ」
 絶対に答えなければならないセシリアからの問いかけを、亜衣子は意志の力で無効にしようとした。しかしそれでも絞り出されたのは、心からは望まない言葉だ。
「紗夜子は……あなたに似ています」
 まだ十代。二十にもなれば、紗夜子はその美しさを花開かせるだろう。何故なら、あれは女神の血を引く娘。このエデンで最高の血統を持つ娘なのだ。三氏のひとり、高遠の血のみの亜衣子とは違う。
 胸の底にあぶくを立てたものは、今は溢れんばかりに煮えたぎり、目眩がするほどだった。赤い色がちらつくのを感じる。
 どうして紗夜子なのだろう。何故、あの何も持たない子なのだ。あの子は高遠家に災厄しか呼ばない、呪われた子だ。女神の血を引きながら、女神になり得なかった者。神に成り損ねた者は、得てして悪となる。罪と罰を背負い、災厄を呼び、光に焦がれる亡者と化して、ただ、堕ちていくのみ。
「紗夜子に会いたいのなら、お手伝いできると思います」
 セシリアは笑った。彼女は亜衣子に手を伸ばし、銀糸のような指先で亜衣子の頬を包み込んだ。
「ありがとう、亜衣子」
 亜衣子が頭を足れると、セシリアは微笑みの気配を残して去っていった。その去り方も、仕草も、まるで何も起きなかったかのように静謐だった。亜衣子に決して未練など残さない。

 セシリアの気配が遠ざかると、彼女の芳しい香気の名残を吸い込み、立ち上がった。
(強ければいい……では、弱いあの子に意味はない)
 女神は、己の娘を至高の座につけたがっている。しかしそのためには後継戦争〈聖戦〉を勝ち抜かねばならない。四体いる【魔女】たちの中、運良く生き残ってこれたようだが、それはただの偶然でしかなかった。いかにUGの中にいようと、人間の戦うための力は限られている。紗夜子のその精神も、肉体も、ロボットに比べれば脆弱の極みなのだ。
 亜衣子は嘲笑った。

「生きて連れてくるとは、誰も言っていないわ……」



     *



 壁を殴りつけたことによって、天井にまで振動が伝わった。埃がぱらぱらと紗夜子たちに降り注ぐ。
 ニュースは、すでにトップから事件に移り変わっている。UGの犯行と思われる宝石店強盗事件を読み上げているキャスターを睨みつけ、トオヤはぎらついた目を見開いたまま、震える拳を壁にめり込ませている。しかし、彼が画面を睨みつけているわけではないのはすぐに分かった。
「あの、くそ親父ども……!」
 そう言って踵を返すと、荒々しい歩調でマンションを出て行ってしまう。「トオヤ!」とジャックがその後を追いかける。紗夜子はそれを見て、がんがんと打ち鳴らされる心臓と思考の痛みに、頭を抱えた。
「紗夜子さん」と名前を呼んだディクソンが、目眩を覚えてぐらつく紗夜子の肩を支え、言った。
「行こう」
 ディクソンはイヤホンを耳にいれ、居場所をAYAに聞きながら、トオヤを確実に追っていた。
 見慣れた第二区の路地、あの喫茶店のドアを開けるトオヤが見えた。急いで追っていくと、トオヤが父親の襟首を掴んでいる。顎を反らし、ライヤはトオヤを見ていた。トオヤは何も言わない。二人の間に流れる空気に、すべてが仕組まれていたことは、トオヤがこれ以上暴力を振るうなら止めようとしているジャックも、見ていたディクソンにも、紗夜子にすらも感じ取れた。

「どういうことだ」
「何がぁ?」
「おかしいと思ったんだ。どうして【女神】が自意識を持ったなんて発想になったか。お前らは知ってたんだ。セシリア。アンダーグラウンドにいたあの人が、何らかの形で【エデンマスター】に組み込まれた可能性を!」

 紗夜子の全身に鳥肌が立った。

 セシリア。そうだった。写真に写っているのなら、トオヤが知らないはずがない。ここにいるジャックも、ディクソンも。ライヤも。
 力が抜ける。膝が立たなくなった。目の前は暗く点滅する。吐き気がした。身体が冷たい。
 血が、冷たい。

 時は沈黙を持って流れた。トオヤが怒りを殺す呼吸や、小さな震えが見え、聞こえる。掴まれているライヤは静かだった。自分より背の高い息子を見上げ、ゆっくりと瞬きしている。答えを迷っているわけではないだろう。不思議そうに、冷静に、この状況を見ているのだった。
「トオヤ――」
「殴らせろ」
 素早く呟くと、トオヤは拳を振り上げた。ジャックが割って入ろうとし、しかしその拳は、また別の人間に掴まれていた。
「落ち着け、トオヤ」
「おとん」とジャックが呟いた。紗夜子が気付かなかっただけで、店内で事の成り行きを見ていたらしい。ボスはしばらく拳を受け止めたまま、トオヤをじっと見ていた。その拳から力が失われると、ゆっくりとその手を離し、マスターに告げた。
「すまない。また来る。ここでの話は、できれば他言無用に。君の胸にも秘めておいてくれ」
 マスターは真剣な目で頷いた。

 ボスの指示で全員が店を出て、どこか落ち着いて話が出来る場所の提供を求めた。それなら、とディクソンとジャックが顔を見合わせ、マンションのたまり場に戻ることになった。
(トオヤ)
 紗夜子はディクソンの側で、トオヤを見ていた。心なしか、髪がぱさつき、顔を覆うように垂れ下がっている。足を引きずるようにし、行き場のない感情を、身体を震わせて堪えていた。彼の中の感情は、まだ生々しいのだ。セシリアの記憶は。
 逆に、紗夜子の中では、すでに凝固した過去でしかない。六歳の時、それまでのすべては忘れてしまおうと決めて、実際にそうしてきた。最初はうまくいかず、一人きりの夜に泣いたり、理不尽さを噛み締めたりしたけれど。全部過去にしてきたはずだった。姉のことも。母のことも。
 手のひらから指先まで濡れた感触がした気がして、ぎくりとする。少し折り曲げた手の中の影に、色がついていたように見えた。しかしそれはただの影でしかなく、紗夜子の手は汗をかいて冷えている。ナイフだこや傷ができた、普通の手のはずだ――今は。

 マンションのたまり場に六人が入る。ボスは少々目をすがめたようだった。パソコンとテレビとゲーム機、再生レコーダーなどの機械と、置きっぱなしのグラスや封の開いたペットボトル、食べ物の包み紙などに目をやり、部屋の最後に入って、全員が逃げられないよう、部屋の入り口に近いところに立った。
「ライヤ。そろそろ話す頃合いのようだぞ」
 低くボスが言うと、ライヤはくすり、と笑って足を組んだ。部屋の中で、一番いい椅子に座った彼は、聞いている人間が苛立つ速度で口を開く。
「その前に聞きたい。さよちゃん、セシリアは、いつ、君のところから去ったの?」
 紗夜子はびくりとし、震えを押さえつけるため、右腕を握りしめて答えた。
「十一年前。私が六歳の時に。……私が、第一階層に落とされる少し前に」
「今、君、十七だっけ。そうかー、もう二十年も前になるのかー」
 笑ったライヤは不意に遠い目をした。
「リアがいなくなって十八年だ」
 声が鋭く、刃物のようだったので、短い沈黙があった。
「……リアは、結婚するために出て行ったんやと思ってました」
 ジャックが言う。ライヤとボスが彼を見、ライヤは小さく笑った。
「それ、信じたの?」
 嘲るように。ジャックの背筋がこわばる。「……いいえ」と、否定があった。
「だよねー。リアが結婚って、どんなドッキリだよって思うよねえ。どちらにしろ、オレたちには、アンダーグラウンドには予感があった。セシリアは絶対ここには留まらない。いつかどこかへ去っていく。だからオレたちは、いつの間にかリアがいなくなっていても、当然として受け止めた。結婚云々は、オレたちが子どものお前たちについた嘘だよ」
 ライヤは組んでいた足を降ろし、その膝に肘を置くと、疲れたように口を開いた。
「二十年前、第三階層で出会ったセシリアを連れて、オレたちはアンダーグラウンドに落ちてきた。その二年後、リアは行方をくらませた。誰も行き先を知らなかった。オレは、第三階層に戻ったんだろう、と考えていたけど」
「それがどうして【女神】管理者なんて形で、今になって現れるんだ……!」
 拳を握りしめ、抑えきれない苦悩を叫ぶ。トオヤの叫びは、紗夜子のものと同じだった。どうして今。どうして【女神】。
 ライヤはその答えを提示する。
「第三階層には、当時、次期【エデンマスター】を決める三つの派閥があった」
 一つ目。【魔女】の元となったプログラム、新開発のAIを搭載する、新規プログラムプロジェクト。これはキリサカが主に開発を担い、サイガ氏がそれを応援する形を取っていた。
「後で、サイガのじじいが掛け持ちしてたって聞いたんだけどねー。三つそれぞれにいい顔してたみたい。まあ、それで今の地味な位置にいるわけだけど?」
 必死だよねーと、ライヤは嘲る。話し始めてから、彼は笑っても皮肉な顔を止めようとしない。
 話は続く。
 二つ目。【純血計画】と呼ばれる、Sランク遺伝子保持者で運営陣を固めるプロジェクト。IT技術、ロボット工学が発達しているエデンで、今一歩遅れている遺伝子について研究している、第二階層を主とした計画だという。
 そして最後に、【女神】プロジェクト。
「オレの新規プログラムプロジェクトは、この【女神】プロジェクトに反抗して作ったもの。オレは【女神】プロジェクトが許せなかった。生贄を必要とするからだよ」
「……イケニエ」
 その言葉の響きに不穏なものを感じる。耳鳴りがする。聞きたくない。
 ライヤはゆっくりと言った。
「【女神】はプログラムじゃない。――人間がコンピューターと同化して、統制コンピューターになるんだ」

 わたくしは紗夜子を愛しているわ。
 白い姿。光の全て。彼女をたたえる言葉は数多くあれど、どれも彼女の本質を表さない。あの人は、愛の中の絶望。喜びと共に浮かべる嘲笑。救い主になりえない光。かみさまだった女性は、本当の女神になった。エデンに君臨する存在に。人を越えて。それは、第三階層の上、本当の高み。

 ライヤは紗夜子を射るように見た。
「【女神】候補としてさよちゃんが選ばれたことで、オレたちは【女神】プロジェクトが成功したと気付かされた。人間は、コンピューターほど強度を持たない。いずれ限界が来る。その前に次の【女神】を選出するつもりだ。【魔女】と高遠紗夜子、五人の中から誰かを」
「リアが本当に【女神】やとして」
 ジャックが静かに尋ねる。
「UGはどうするつもりなんや、おとん。統制コンピューターの破壊っちゅう名目を掲げている以上、そうなったら俺らはセシリアを倒さなあかん」
 ジャックの言葉は真実を思い出させる。
 セシリアは、紗夜子たちが倒さなければならない最後の存在。
「そうなるのは最終手段だ。キリサカが表に出た以上、第三階層は無視できない。何らかの形で会談の機会があるはずだ。動くのは、その時」
「オレは【女神】プロジェクトを認めない。【女神】の存在が続く以上、オレはあれを破壊するつもりだ」

 紗夜子は握った拳を目に当てた。
【女神】を破壊する。――エデンを変える。それが、今まで以上にこんなにも不可能に思えてしまう。たったひとりの、あの非の打ち所のない微笑みを見たせいで、自分がちっぽけで、無力であると痛感する。
 トオヤが出て行こうとする。話すべきことは話したからだろう、ボスは止めなかった。ただその背中に向かって言った。
「トオヤ。……それからジャック。UG本部の連中は、お前たちをいずれ要職に就けるつもりだ。心づもりをしておけよ」
 扉の閉まる音がして、ボスはライヤと、ジャックはディクソンと目を見交わした。ジャックの眉間には皺が寄り、トオヤの手前、表せなかった苦悩を吐息で吐き出した。

「……それでも」
 紗夜子は呟いた。顔を覆っていた手を外し、その手の中を見つめて。
「それでも、戦うしかないんだ」
 手のひらには、影がある。


      



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