地上に出ると安堵した。雨の匂いのする生暖かい風でも、行き止まりの場所よりずっといい。それでもやってきた通路から、エクスリスが追ってくるような気がして、思わず振り返った。紗夜子は手持ち金庫を抱え、息を吐く。そして、空を見上げた。第二、第三階層は、今日は薄雲に覆われて、遮られている。
 トオヤが歩き出す。住所は伝えてあったため、一番近い出口を選んで来ていた。表に出て、紗夜子は驚いた。そこは、第一階層でもビルとの立ち並ぶ中心街だったからだ。そのせいか、風が髪も裾もばさばさと煽り、吠えるような風音が響いている。
 通りに出ると、乗用車の排気ガスのにおいが感じられた。清潔な石畳にアスファルト、緑化運動の象徴である街路樹を見る。紗夜子はともかく、トオヤの容姿は浮いていた。染めた金髪を乱雑にまとめあげ、上流階級には決して見えないカジュアルすぎるジャケットやズボンを履き、ごついブーツでぷらぷら歩く。すれ違う人々はスーツばかりで、トオヤと紗夜子を不思議そうに、あるいは不快そうに見ている。
「ここからどこに行くの?」
「住所は居住区だな。なんつーとこにアジト作ってんだか」
 とトオヤはため息をつく。聞いてみると、どうやら第一階層の主要な人物たちが多く住んでいる高級住宅地区、のちょっと外れたところにあるらしく、トオヤは「多分、かなりでかい家にいる」と呆れたように言った。
「よくもそんな目立つところを選んだっつーか、ふてぶてしいっつーか。大丈夫なのかね。まあ、不審人物がいると目立つだろうが。そういえば、お前に用事頼んだの、あいつなんだな」
 じろりと睨まれ、紗夜子は誤摩化し笑った。
「で、でもね! エクスから荷物受け取って持ってきてくれって言われたのは本当!」
「分かってるよ。ったく、くだんねえ嘘つくなよな」
「ごめん……。でも、あのさ、やっぱり気まずいかなって思っちゃったんだよね」
 おかあさんのせいで。
 呟くと、トオヤは急に足を止めた。紗夜子は俯いて前を見ておらず、立ち止まられて彼の背中で鼻を打ってしまった。一瞬くらっとし、顔を押さえながら見上げようとすると、トオヤの真っすぐな眼差しが見えたと思ったら、上から顔を覆われてしまった。揺らされるのでびっくりしていたが、これが撫でているらしいと気付いて首を竦めた。
「トオヤ」
「……セシリアのことはお前のせいじゃねえし。俺が親父と仲悪いのもお前が悪いんじゃねえよ」
「でも、初恋だったんでしょ……」
 トオヤが動きを止めた。頭を掴まれかけたが、思い直したように手は肩に置かれ、ぎりぎりと食い込む寸前にこわばった。
「だ、れ、が?」
 笑っているが、めちゃくちゃ怖い顔をしているトオヤに、しまったまずった、と思ったが、言うまで逃がしてくれなさそうだった。小さな声で答えた。
「……おかあさんが、トオヤの初恋の相手だって……」
「――くそ親父ぶっころーす!!!」
 トオヤがアスファルトを割る勢いで歩き出してしまい、やってしまったと冷や汗をかいた。確かに、ばらされたくはないことだよなあと思う。でも彼は、紗夜子のことを、大切な想いを無神経にいじくり回す人間のように思っているのだろうか。
 そう思われているなら、悲しいことだな、とため息をついた。実際、細やかな性格ではないのだけれど。
「エリシア」
「……え?」
 懐かしい声が呼んだ気がして、振り返る。そこに立っている少女に、視界が不安定に揺れた。うまく焦点が合わない。合わすのが怖いからだった。
 見慣れた制服は、紗夜子がエリシア・ブラウンと名乗っていた頃に来ていたもので、短いスカートに悲しさが急に込み上げる。
 視線を上へ持ち上げていくと、タイは緩く結んで、ブラウスの第一ボタンと第二ボタンは開いているのが見える。
 相手の顔が、どうしても、嘘のように思えた。
「……フィオナ……?」
「うん」と彼女は目を細めた。
「フィーなの?」
「やだ、そんな幽霊見たような顔しないでよ、エリシア」
 歯を見せてあははと笑う。紗夜子は泣き崩れそうになった。駆け寄りたいのに、怖くて出来ない。
「助かったの? 本当に? よかった、私……」
「うん。助けてもらったんだ。ナスィームのこと……自分を責めちゃダメだよ」
「うん……ありがと……でも、ごめんね。守れなくて、本当に、ごめん……」
 よかった。助かったんだ。私は大切な人を二人も失わずに済んだんだ……。胸がいっぱいになり、唇をふるわせて、一生懸命フィオナを見つめた。姉貴分の顔をして、フィオナは苦笑している。
「傷は? 怪我は治ったの?」
「うん。私を助けてくれた人がいて、その人が診てくれてさ。命の恩人なの。あ、ねえ、今ヒマ? 紹介したいんだけど」
「あ、私いま……」
「忙しい?」
 紗夜子は抱えた金庫を持ち直し、微笑んだ。
「うん。ごめん、行かなくちゃ」
 連絡先を、という言葉が出そうになったが、息を吸った。目を閉じ、飲み込む。
 もうフィオナを巻き込めない。こうして話をしていることだけで満足しなければならない。また彼女を巻き込むようなことはしたくないからだ。そして、紗夜子はこの再会に感謝していた。笑った。
「会えて嬉しかった」
「エリシア」
「フィオナのこと、大好き。世界で一番、ナスィームと同じように、好きだよ」
 俯く。涙がこぼれてしまう。もう二度と同じ道は歩めないし、紗夜子は選んだ。ライヤの言う困難な道を、これから行く。そして紗夜子は、誰にそしられ、石をぶつけられようとも、生きる、と決めたのだ。
「私のこと、友達だと思ってくれてありがとう。いつか返さなくちゃいけないと思ってたんだけど、返せないままになっちゃった。ごめん。でも、いつか、思い出してもらえるように、頑張るから」
 だから、と言いながら、フィオナの手を握った。冷たい手。なんて、冷たい。

 まるで、血が通っていないような。

「――…………」

 紗夜子は言葉を失った。血の気が引くのが自分でも分かる。それは純粋な直感で、同時に意識したのは、隠し持った拳銃だった。
 フィオナの視線と紗夜子の視線が交差する。紗夜子は両手を使って彼女の手を握っている。親友の手、失ったと思った、離しがたい手だ。しかしその手からは温もりが失われている。どうすべきか逡巡した。どう動くのかを見定める感覚を研ぎすませた。周囲から音が消えていく。

 風が止んだ。

 次の瞬間、一発の銃声が響き、二人は同時に飛び離れた。
 二発目の銃弾が紗夜子が一度隠れた街路樹を撃ち、三発目の銃弾が石畳を穿った。四発目が路地を作る建物の壁に当たる。悲鳴が聞こえる。通行人が地面に伏せ、這うように逃げていく。
 紗夜子は銃を抜き、息を吸った。
(……そんなことだろうと思ったけどね)
 苦いような甘いようななんともいえない味が口の中に広がる。唇を噛み切ってしまったのだ。
 動揺はある。心臓が壊れそうだし、今にも泣いて許しを請いたい。
「でもこれは、私の責任だ」
 無線のスイッチを入れて吹き込む。
「こちら紗夜子! 第一階層、中央区、ポイント……何番か忘れた! ともかく現在交戦中。トオヤ、聞こえてたら戻ってきて!」
『了解。サヨコ、至急トオヤを向かわせます』
 AYAが応答し、紗夜子は安全装置を外した銃を構え、路地から撃ち出した。もちろんそんな戦闘は初めてのことなので、うまく当てることができない。当てられれば、勝てるのだが。
 胸の中に走った痛みを押し殺す。再び隠れると、壁に銃弾が埋まる。敵をうかがうと、少しずつ近付いてきているようだった。弾を撃って応戦しながら、考える。
(腕は生体義肢。もしかしたら足も。下手に組み合うと首をひねられるかもしれない。距離を取りつつ、確実に当てなくちゃ……)
 今いる通りからは非戦闘員はみんな退去したようだ。だから、普通の通行人がいるような場所に移ると、被害者が出そうで怖くてできない。勝てるの、という問いが、喉を渇かせる。鼻の奥がつんとする。瞬きを堪えた。
(まずいな。早くなんとかしないと弾がつきる)
 替えの弾倉はひとつ。
「バカトオヤ。早く来てよ!」
「誰が馬鹿だって?」


      



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