指を振って進行のサインを示される。仲間たちに続いて身を低くしながら、静かに前進し、各自応戦の配置についた。頭の周りは熱いのに、芯の辺りが冷静で、耳も、肌も、異変がないか感覚が張りつめているのが分かる。自分の心臓の音が触れないでも分かるような鋭さで、やってくるトラックのエンジン音を拾う。
(五)
 カウントが始まる。銃を抱え直す。安全装置は外れている。一発目は為損じない。何故なら、自分の銃弾が合図だから。
(四、三)
 二、に至るまでが長かった。全身に、ぎゅうっと力が入る。
(一……!)
 飛び出した。
 進行方向に飛び出した小柄な人影に、運転手が急ブレーキをかけながらハンドルを切る。紗夜子の撃った二弾は左側のタイヤ二輪をパンクさせ、車体を横転させた。後続の車両がブレーキを踏んだが、そこへ急襲に現れた車両が進行を阻む。
「おおおおおおっ……!」
 紗夜子が雄叫びをあげて走り出したのと、三つ目の車両から護衛の【司祭】たちが下りてきたのが同時だった。紗夜子にUGたちが続く。人通りの少なく、けれど夏が近付いて明るくなってきた朝の第一階層。第三階層が企てたライヤ・キリサカ襲撃事件は、そうして未遂に終わる。



 蹴った板の床がキュウッと小動物のような音を立てた。相手の懐を目指した瞬間、ディクソンは腹に力を入れ、防御の態勢を取った。そうなるのは双方ともに予測済みだったため、紗夜子は握った拳の力をわずかに解き、脇からの蹴り技を両足で叩き込むが、相手は師匠である。当然受けられ、足がじんと痺れる。中で身体をひねって、両手で床をたたき、両足で叩き込む……と見せかけて、ディクソンの上を飛んだ。ぎゅうっと、腹筋が絞られる。目を丸くする師匠の顔が見えたが、それに気を緩めることなく、紗夜子は両腕でもってディクソンの首を締め上げ、後ろへ全体重をかけた。当然、首は締まり、相手の身体は仰け反るが、ディクソンも修羅場をくぐってきただけあって、決して焦らず、音も上げない。腕をロックしたまま、その厳つい身体を柔軟にひねり上げると、自分の何分の一も体重の軽い紗夜子をハンマー投げの容量で投げ飛ばした。
「うっ、わ!?」
 自身の体重に軽いという自覚がなかったせいで、紗夜子は簡単に投げ飛ばされた。広い奥の方へ投げられたということは、ディクソンも手加減したのだろう。しかし、どたーん! と音が響くぐらい道場に叩き付けられ、しばらく起き上がれなかった。
 ディクソンがはっと息を呑んだ。
「すまない! 大丈夫かい!?」
 紗夜子は呻いた。
「いっ……たぁ……!」
 ディクソンがほっと緊張を緩めた。
 紗夜子は起き上がり、ぶうぶう文句を言う。
「ひどいよー! プールじゃないんだし、あんな思いっきり投げなくても」
 プロテクターをつけているとはいえ、肘も肩もじんわり痛い。きっと、しばらくした痣になっているだろう。
「それを言うなら、紗夜子さん。君も本気で締めにかかっただろう?」
 太い首を示して、ディクソンは苦笑いだ。その通りだったので、紗夜子は肩をすくめた。
「手を抜いたら怪我しそうだって思ったんだよね。最近のディクソン、容赦ないから。……でも首を絞めるのはやりすぎだったね、ごめんなさい」
 頭を下げると、ディクソンは首を振った。
「いや、最近、私も手加減の具合が分からなくなってきてね。つい本気になる時がある。強くなったね、紗夜子さん」
「ほんと!? だったらいいなあ」
 筋肉もついたし、身体を動かすのが苦ではなくなってきている。相手の動きも多少読めるようになった気がする。そして何より、神経を研ぎすます感覚が心地よかった。相手を確実に倒すという熱くてかつ冷静な意識が全身に行き渡り、心の底から力が湧き出てくる。そしてそれは、生きているという実感になっていた。
「でももっと、強くなりたいな」
 心を揺らされることないように。自分の望みのために、道を作れるほどの力を。
 ここは、トオヤやジャックが鍛錬した道場なのだという。昔、そういう格闘技をやっていたUGがいて、彼が『健全な魂は健全な肉体に宿る! 健全な肉体は美しい道場でできる!』とかなんとか言って、アンダーグラウンドに本物の道場を作ったのだそうだ。
 携帯の着信音が響き渡り、紗夜子は慌てて荷物置き場に飛んでいった。携帯電話を探り出している間に音は鳴り止む。画面を確認して、ディクソンを振り向いた。マオからメール、と言って。
「早く来いって言ってる」
「射撃訓練かい?」
「うん。昨日私に負けたからリベンジに燃えてるみたい」
「だったらちゃんと汗を拭いて、着替えをしてから行きなさい。無理はしないように」
「うん。ありがと」
 荷物をまとめ、道場を後にする。道場の入り口で一礼して、もう一度走り出そうとすると、目の前に他人の姿があって仰け反った。
「ジャック」
 後ろに倒れそうになった紗夜子の肩をつかんで、サングラスの向こうの目を丸くする。
「サヨちゃん? あれ、トレーニングとちゃうの?」
「トレーニングだよ。今から射撃!」
 一歩後ろに引いてジャックに笑ってから、駆け出した。急がなければ、マオにどんなペナルティを食らうか。
「またね!」
 道場の前は和風の前庭を作ってある。松の木が狭そうに、低い枝を伸ばしていた。この松の木は実をつけるのだろうか。アンダーグラウンドの四季は、空気の冷たさで大雑把に感じ取るしかないので、秋が来るのが楽しみだった。もちろん、地上で花を見ることができたら、それもずっと楽しそうだけれど。
(みんなでお花見、したいなあ……)
 そんな風に、UGの人々が当たり前に地上にいられたらいい。
 でも今はとりあえず、射撃場に行かなければ。

     ・

「…………」
「ジャック」
 ディクソンに呼ばれ、奥を示される。ジャックはごついブーツを脱いで、久しぶりに道場に足を踏み入れた。最近は、訓練といえばジムとそれに付随するフロアだったからだ。
 中は板が張られているだけのシンプルな作りで、何の旗も書も掲げられていない。靴下越しの床はひやっとしていて、ここに数時間正座させられた子ども時代を思い出した。
「下に何も敷かんとやってたん?」
「敷こうと思ったら、全面に敷かなければならないからね。それでいいと彼女が言ったから」
「うわあ。サヨちゃん痣作ってないかなあ」
 見た感じは元気そうだった。痛いところは何もない風で、普段通り走っていったし。……いささか、元気がよすぎる。笑顔も、不自然なところは何もなくて。
「……痛々しいんよな、あれから」
 低い声でジャックが呟くと、ディクソンは声は出さなかったが同意していた。紗夜子の訓練に付き合っているディクソンの方が、それを痛いほど感じているに違いなかった。無理をしないぎりぎりの範囲で、しかしかなり上級レベルのトレーニングを、いとも簡単にこなせてしまうから難なのだ。
 紗夜子は、男たちが頭を抱えているのに気付いていないふりをしているだろう。自分の身体が軽い理由を知りながら、動き出さずにはいられないほど、精神がたがぶっているのだ。そろそろ落としどころが必要だろうと、ジャックは思うのだが。
「私はむしろ、トオヤの方が心配だな」
 ディクソンが言った。ジャックも、うん、と頷いた。
「トオヤはなあ。時間をおけば吹っ切れるんよな。迷ってるのが危険に繋がるって知っとるしな。ただ今回は長いなあ」
 毎日のトレーニング時間がかなり長い。ひとときもじっとしていない。交戦の知らせがあれば飛び出していく。こちらも、そろそろ落ち着かせなければ。
「そういうお前は? いつものように人のことばかりを気にしていると、また穴に落ちるぞ」
「気遣いありがとさん。俺は別に構わへんねん。俺にとって、リアはすごい怖い人やった。親父がかなり警戒しとったのが分かってたし、トオヤみたいに心酔もできんかったから、なんとなく、こういうことになるやろうってのは思とった」
 彼女が何かひとつ動作を起こす度に感じた、居心地の悪さや不安を思い出す。人と人の間にあるテンポや空気といったものが、セシリアにとってはないのも同じで、彼女自身が作り上げる絶対的な空気で、彼女の世界は回っていた。ジャックはその独特の世界がどうしても受け入れられず、しかし逆らう術は持たなかったために言いなりになってしまっていた。セシリアが完璧に美しいと思っていたし、知識や技術、才能といってものにもおののいたが、ジャックにとって恐怖の具現に等しかったのだ。夜、恐ろしい夢に現れるのは、あんな魔性だ。
 ディクソンは目を細めた。
「そうだな。お前は、いつもどこか冷めている。周りがひとつのことに熱くなればなるほど、お前は別の役を選ぶんだった。誰も担当したがらない任務とか」
 ジャックは苦笑した。聞いたんやな、と聞けば、聞いた、と彼は頷いた。
 ダイアナ襲撃から第三階層へ上るに至るまでのことには、一部、UG本部の指示があったのだということを。
 以前から第三階層の調査の必要性が唱えられてきていたのだが、それ以前に上る方法がないということで棚上げになっていたのがこの案件だった。しかし、紗夜子がアンダーグラウンドに来たことで、本部は揺れた。人質にして第三階層に揺さぶりをかけるべきだとか、囮として使おうだとか。
 ジャックはそれに手を挙げた。自分が潜入捜査するので、紗夜子の扱いには猶予をくれないか、という交換条件を出して。
 もちろんダイアナを使わした第三階層側は紗夜子の身そのものが欲しかったので、紗夜子共々、アンダーグラウンドに離れることになった。もちろん本部と連絡はとれないので、その後の行動はすべて自分の考えに基づく。
 しかし、これら全体を把握しているのは、本部の上層部だけで、他のUGたちは知らない者ばかりのはずだった。トオヤの態度が変わらないのでそういうものらしいと渋々納得した人間が多いらしい。トオヤはそういうご注進が大嫌いだということもある。結局、ジャックは居場所を失わなかった。そうなってもいいという気もあったのにだ。
「それを言うならディクソンもやろ。俺がほんまに裏切ってたら銃殺予定とか。親父も容赦ないけど、それを引き受けるお前も相当やで」
「褒め言葉と受け取っておこう」とディクソンは太く笑った。
 ジャックも笑った。
 仲間に万が一があれば、その仲間の責任を肩代わりする。それが三人組の不文律でもあったからだ。
 そうなると、トオヤの問題は、自分たちが解決してやらねばなるまいということで。
「どうする、トオヤと紗夜子さん」
 ジャックはにやっとし、携帯電話をひらめかせた。
「男と女が揃ったら、やることはひとつやん?」


      



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