自宅に戻ってきたのは六時半頃だった。アンダーグラウンドの常時灯は明るい紫に変わっている。そのまま風呂に直行した。
 あれから、マオたちと合流し、射撃訓練のはずがいつの間にか手合わせすることになってしまって、かなり汗を掻いたからだ。服を脱ぐと、脇腹がずきんと痛んだ。どうやら筋を違えたらしい。後で湿布を貼っておかなければ。
 全身の筋肉が重たかった。二の腕やお腹、太ももとふくらはぎ。首もだるい。その重さを洗い流すべく、シャワーのコックをひねった。
 シャッ、と勢いよく水が噴き出し、身体を叩く。内側から暖めるには湯船に浸かった方がいいのだろうが、水に漂うより、叩かれる方がいい。上から打たれていると、自然と頭が下がる。
 顔を覆った。水が落ちてくる。水の粒が落ち、あるいは身体を伝い、排水溝に吸い込まれていく音が、耳の中でこだまする。こうしてぴくりとも動かず、何も考えようとしないのは、世界を遮断するのに似ている。けれど、内側から聞こえる自分の声が大きい。だからシャワーを浴びる。声を消す。

(立ち止まるな)

 風呂を出て、身体を拭いて、着替えて、食事を作る。髪を乾かして、眠る。何も変わりはしないし、何を変えられもしない。世界が動き出した時、いつでも地を蹴って走れるように、準備を整えておくだけ。身体も、心も。
 風呂を出て、肩にタオルをかけて頭を拭いていると、携帯電話の受信ランプが光っているのが目に止まった。何気なくそのメールを確認して、顎を落とした。
「なっ……な、な、な……!?」
 メールにはこうあった。

『From トオヤ
 明日ヒマか?
 どっかデートしないか』

 まさか。何かの間違いでは。というか、送信したのは本人ではないのでは……!? せっかくシャワーを浴びてきたのに、変な汗が額に浮かぶ。もしかして、送信相手を間違っている、とか。
(しかも今の状況でデートって)
 けれど今だからとも言えた。テレサの言葉が本当なら、【女神】は紗夜子に対する攻撃を一切禁止しており、誰からも狙われることがない可能性が高いのだ。
「……気ぃ使われてるのかな……」
 だよね、と納得する。心配そうに見ているジャックたちのことは知っている。無茶を怖がらなくなった自分自身にも気付いていた。何も怖くないという気がしているから、怪我も怖くないし、何をするにも本気になった。それに比例するかのように、色々な能力や戦績が上がっているので、余計に立ち止まれなくなっているのだ。
(トオヤもいっぱいいっぱいに見えたけどな……)
 そう思うと、断るのは悪い気がした。それに、紗夜子だって、トオヤとデートしてみたいという欲求はある。ジャンヌに言ったように『健康優良児』なので、人並みに恋もするのだ。
「……よし!」
 デートしよう。したいことはしたいって言おう。こんな機会、いつあるのか分からないのだから。
(後悔がないようにしないとね)
 ほんの少し、寂しい気持ちで笑う。自分たちには、いつ何があってもおかしくないのだということに気付かされたからだった。

     ・

 デスクの上で携帯電話が鳴った。振動でゆっくりと縁の方へと移動していくそれを、机の下で待ち構えて受け止めた。メールは紗夜子からで、了承の返事と、具体的な予定について教えてほしいというメールだった。絵文字がぴこぴこ動いているが、文面としては素っ気ない気がする。
「……なあ、これって、本当に『良い作戦』なのか?」
 いまいち納得しきれていないのだが、ジャックは大袈裟に肩をすくめた。
「なに言うてんねん。気分転換に散歩とおんなじやん。気分転換にデート!」
「それはまあいいんだよ。でも、なんで俺?」
 そこが納得できない。第一階層の遊び場なんて分からないし、アンダーグラウンドの遊び場など酒が飲めない紗夜子にとってはもってのほかだろう。ジャックの方がずっと紗夜子をリラックスさせることができるだろうに、何故、自分なのだ。しかしジャックは「そこはまあ、女心やで」と知ってるような口をきく。知ってるんだったら何故自分でしない、とトオヤの疑問はつきない。
「分からへんかったらサヨちゃんに任すってのもありやで? どこ行きたい、って聞けばいいんやから。単なる護衛のつもりでいいんちゃうの。逆に、どこどこ行きたいんやけどどう行くん? 一緒に行かん? って聞くのもよし」
「……めんどくせえ」の一言につきた。
 ディクソンはちらりとこちらを見て言った。
「それ、紗夜子さんの前では絶対言うなよ」
「トオヤ! トオヤには、サヨちゃんを元気づけようって気持ちはないんか!」
 ジャックが声をあげる。そこを突かれると痛い。
「慰める方法なんて分かんねえよ。悩みってのは、結局、解決するのは自分自身でしかないんだから」
 仲間たちはそれぞれに黙り込み、ジャックなどは真顔になって「……トオヤのそういう達観したところ、人間として、いや、男としてあかんと思う」ととても静かに言った。
「そういうお前は慰められるってのか?」
「どうかなあ。……俺、サヨちゃんにキスしたけど、覚えとらんみたいやし」
 ごふっとディクソンが噴いた。トオヤも椅子から滑り落ちそうになる。
「はあ!?」
「何やってるんだお前。というか、いつの間に?」
「第三階層で。すんごい必死な顔して、泣きそうで、めっちゃ可愛かって、つい」
「『つい』、じゃねえよ!!」
 怒鳴りつけてジャックの胸ぐらを掴む。拳を振り上げるとジャックはむかつくことにへらへらと思い出し笑いをしている。
「でも全然覚えとらんってことは、意識してへんってことやん。まあ、あんときすぐ後で気絶さしたから、ただ覚えとらんだけかもしれんけど?」
「……気絶って……何する気だったんだよてめえ!」
「なんでそんなに怒るん? トオヤにとってサヨちゃんって何やねん」
 ジャックの目がトオヤを射抜く。
「そんなんやったらマオの方がマシやん。あいつ、サヨちゃん連れ回して元気づけとるみたいやん」
 胃の中で、眉の間で、苛立ちがぎゅっと固まった。そして、首を傾げる。
(……なんで俺、むっとしてんだ?)
 多分、ジャックの言い方に腹が立ったのだ。だったらデート相手が俺でなくてもいいじゃないか。そう思ったからに違いない。納得したのだが、それでもジャックもディクソンも、トオヤでなければだめだ、と言うのだろう。自分と紗夜子の、何が関係するのかは知らないが。

「…………」
 いや、実は知っている。気付いている。
 紗夜子は自分を慕ってくれているし、目標みたいなものに据えているのも聞いている。何をそんなに一生懸命になるのか分からないが、己のことを二の次にして何かをしようとしてくれる。本当に、自分の何がそんなにいいのか分からないのだが。
 トオヤ、と呼ぶ声の明るさを、真摯さを、甘さ、柔らかさを、いつの間にか日常にしている自分がいる。真っすぐな声が心地いい。頼られているという実感で、守ってやらなくては、と思う。

 そういうトオヤを、ジャックもディクソンも知っているに違いなかった。椅子を回転させ、立ち上がる。
「何かあったら連絡するから、万が一があったらすぐ出れるようにしておけよ」
「どこ行くん?」
「部屋。この分だと、デート先まで世話されるじゃねえか。箱入りじゃないんでね、俺は」
 携帯電話を振って、たまり場を後にする。だが、大切なことを聞かずにいたのを思い出した。
「それじゃあ俺、今日と明日とオフってことでいいんだな?」
「しゃあないなあ。許したろ」とジャックがにっこりした。その裏にある思惑には気付かずに、トオヤは部屋に戻り、AYAに何を調べてもらおうか算段し始めていた。


      



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