あなたの一番古い記憶はなんですか? そう問われたら、紗夜子はこう答えることにしていた。本を読んで聞かせてもらっていた、ベッドの中のこと、と。
 本当はベッドの上で、くたくたになった身体に鞭を打ち、母に命じられた通りにナイフの手入れをしていて、誤って指を傷つけていても。指先に滲んだ血の色に、泣きながら唇を噛み締めていたことも。そんなことは、誰かに言うべきではないのだ。それは決して一般的ではないし、誰かに理解されるとも思わない。されたくもなかったと、第一階層で大きくなった紗夜子は思うようになった。
 愛してくれていると思った人が、ナイフを振りかぶり、自分を殺そうとした。それはもう、例え傷ついていなくとも紗夜子の一部であって、逃げられない現実だったのだから。
 気付けば、母の英才教育を受けていた。銃器の扱い方、ナイフの手入れ、体操から始まったありとあらゆる格闘術。空き時間には読み書き算数で、その分野の教育だけが一般的なレベルだったが、到底、格闘術等は三歳児に教えるレベルではなかったと思う。まだ身体ができていないうちから、そのためだけに育てるようにして仕込まれた。そのまま育てば、多分、一流の暗殺者になっていただろう。
 思えば、殺されないための教育だった。セシリアは死の危険にさらされるところはなかったように思うが、恐らく自分でそういった事件は処理していたのだろう。身を守る最低限と言えばその教育は行き過ぎだったが、おかげで、紗夜子は十七まで育った。自分の命を狙った、姉を殺すことまでして。

「えぃちゃん」というのが、姉の名前だった。亜衣子とエリシアは母親が違い、一番上の姉は紗夜子を毛嫌いしていたので、近付くこともできなかった。二人の母親であるローゼットを、紗夜子は「おばさま」と呼び、ローゼットは紗夜子を娘として扱うことはせず「紗夜子さん」と呼んだ。二人の娘が紗夜子に近付くことをおおっぴらに禁止することはなかったが、あまりよくは思っていなかっただろう。ただ、エリシアだけが、紗夜子を妹として見てくれた。
「おねえちゃん」
「違うよ、えぃちゃんだよ」
「えぃちゃんはおねえちゃんでしょう?」
「えぃちゃんだけ、名前がちょっと違うの、いやなの」と姉は苦笑した。
 亜衣子、エリシア、紗夜子。一般的に名付けは、家系のルーツによる。高遠氏に重んじて長女は亜衣子だが、二番目の子どもは妻ローゼットにちなんでエリシアだった。それを疎外感として感じていたらしい。
「だから、紗夜子はさぁちゃんね。二人だけの名前。そう呼ばれるの、いや?」
 首を振った。二人だけの、というのがとても嬉しかったからだ。
「あ、さぁちゃん、笑った!」
「わらった?」
「うん笑った! その顔の方が可愛いよ。さぁちゃん、あんまり笑わないから」
 意識して表情を作ると、エリシアはお腹を抱えて笑った。「変な顔!」と言うので、ますます困ってしまったが、その顔が可愛いと言って、また笑い転げていた。
 そんな楽しい時間が過ぎると、紗夜子はひたすら身体を動かす。息を切らし、泣いて叫ぶことも許されず、恐怖や不安で胃の腑を縮ませながら、倒れるまで。気付けば朝ということが何度もあり、あの頃、生きている実感はとても薄かった。いつも靄がかかって、現実は透明なフィルターを通していて、心は波立つことはなく、常に誰かの言いなりだった。自分で考える時間はなかった。
 だから、語ることは多くない。



「えぃちゃん、けが、ない?」
「さぁちゃん……!」
「だいじょうぶ、なら、いい」
 高遠氏の娘というだけで、亜衣子もエリシアも暗殺対象だった。紗夜子もそうだ。だが、紗夜子には姉たちと違って戦う力があった。安堵した。
 わたしの力はこのためのものなんだ。だれかを守るためのものなんだ。
 けれど、エリシアは喜んでくれなかった。必死に紗夜子の肩を揺さぶり、泣きそうな声で訴えた。
「さぁちゃん、お願い、もう二度としないで! だめだよ、このままじゃ、さぁちゃん……」
「えぃちゃんは、ころされてもよかったの?」
 まるでそんな風に言っているように聞こえたから。
「そ……そんなこと……」とエリシアは声を詰まらせ、泣きそうな顔をした。そんな顔をさせないために、私は強くならなくちゃ、と、紗夜子は言葉を探した。
「だったら、きけない。わたしが、えぃちゃんを守るんだもん。そのためだったら、なんでもする」
「だめだよ! 絶対だめ!」
「どうしてだめなんて言うの?」
「さぁちゃんが子どもだからだよ! どうして分かってくれないの!?」
 肩をつかんで揺さぶられた。紗夜子こそ分からなかった。言葉がうまく出ず、されるがままに姉の声を聞いた。
「さぁちゃんはまだ三つなんだよ!? 成人だって認められる二十歳まで、まだ十七年もあるよ! そんなに早く大人にならなくていいって言ったでしょ? 子どものさぁちゃんが好きだって、私言ったよ!」
 姉の言葉は時々難しくて、すべての意味を取ることはできなかった。でも、今のままの自分が、エリシアにとって喜ぶべきでないことは分かった。どうしよう、と思った。おかあさんの言う通りにしないなんてことは、最初から無理な話だ。でも、えぃちゃんに嫌われるのは嫌だ。
「お願い、誰かを殺すなんてこと、しないで……!」
 その声が聞こえた時、頭の奥が、がち、っと凍った。冷え冷えとしたものが首から広がり、心臓は息をひそめるように小さくなる。視界に映るもの、世界のすべてを理解したような気持ちになった。
「どうして、そんなに大人がだめなの?」
 えぃちゃんは知らないんだ、と紗夜子は思った。

 誰かを手にかけない日なんてこない。誰だって、いつも何かを殺している。いつ誰が死ぬとも限らない。世界は、とても平等な生と死でできている――。

 いつか大人になったとき、エリシアは、きっと、誰かを殺している。セシリアのように、タカトオのように。絶対に大人になって、直接にしろ間接にしろ、故意にしろ自己にしろ、何かの命を奪い取る。私たちは、そういう生き物なのだから。
 まだそんなことを知らないエリシア。
 だから、私は、大人にならなくちゃいけない。

「だれかをまもれるなら、わたしは、かみさまだってころせるよ」

 エリシアを守るためには、大人になって、何かを殺していかなければならない。
 エリシアは、衝撃を受けたように立ち尽くし、ふらりと一歩引いた。恐ろしいものを見るように、がたがたと身体を揺らし、瞳を混乱に見開いた。乱れた息づかいが聞こえるほど、静かな夜だった。エリシアは、落ちていたナイフを掴むと、それを振りかぶった。



 生きたかった。
 死ぬつもりなんて、絶対になかった。
 殺されそうになれば、抵抗しなくてはならなかった。
 それがあの時の紗夜子の世界の、絶対的なルールだった。



 自分の二倍はあったエリシアの、覆い被さろうとする身体を、紗夜子は正面から受け止めた。鳩尾を殴り、しかし力が弱かったために痛い思いをさせただけだった。跳ね上げるように手首を叩き、ナイフを奪うと、紗夜子の首に手を伸ばしたエリシアの、首の骨を断つつもりで、ナイフを突き立てた。
 あの時の悲鳴を、絶対に忘れない。声はなかったけれど、エリシアは、確かに紗夜子の名前を絶叫した。
 人が戻ってきて、惨状を知り。エリシアは運ばれ、紗夜子は隔離され。


      



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