.Interlude T 
      


 少年が一人、空を見上げている。彼はこの頭上に広がる世界からやってきた。青空というものも、雨も、雪も、油などで汚れていない風に吹かれることが当然だったのに、それらの記憶はもう遠くなってしまっていた。手は固くなり、刃物や銃の扱いも覚え、ようやくパソコンのキーボードをつっかえずに打てるようになったが、まだ地上へ至るパスコードを教えてもらえる年にはなっていなかった。
 彼は空を見上げる。同じように天上を見上げる、魔女とも女神ともつかない女性が、何を見ているのか理解するために。


     *


 左足を軸に、右足で数度蹴り技を叩き込む。腹に力を入れ、軸足が歪まないように、だが決して技が手抜かりにならないように、素早く強い蹴りを。キックミットで受けたジャックは、次の動きを察して低く構えた。トオヤは、今度は右足を軸にすると、大きく弾みを付けて、左足で回転蹴りを入れたのだ。ばごん! と重い音が響く。
 一度息をついた。汗が滴る。
「そこまで」と落ち着いた声が我を返させ、トオヤはジャックに向かって礼をした。
 顔を上げて雫を飛ばして見上げた友の父は、満足そうにこちらを見下ろしていた。
「お前の身体能力には驚かさせられるな、トオヤ。お前の父親は、あんなにもやしなのに」
「おやじは、よわい。だからだれも守れないんだ」
 最も古い記憶を掘り出しても、コンピューターと本に囲まれていた父だ。あんなものにはならない、とトオヤは心に決めている。コンピューターがいじれて、武器が作れて、だからと言って誰も守れないようでは、意味がない。
 だが相手は首を振った。
「そんなことはない。トオヤ、人間には様々な守り方がある。お前のように力で守ることもあれば、極端に言えば、傷付けることで守れる場合だってある」
 疑わしいと顔に出た。ボスと呼ばれる灰髪の男は、少し難しかったか、と微笑を浮かべた。

「トオヤって、オヤジさんのこと、ほんま嫌いやねんな」
 ひょろり縦に長い友人は、ポケットに片手を入れ、ちゃらちゃらと小銭を鳴らしながら隣を歩いていた。しゅっと音を立てるような歩き姿の彼に比べ、トオヤの姿はぽてぽてといった具合だ。たった二つ、されど二つ。年齢の違いを、身長で感じるトオヤだが、格闘術、射撃では引け目を取らないと思っている。
「それってやっぱ、第三階層から落ちてこなあかんかったから恨んでるん?」
 トオヤが第三階層で過ごしたのは三年だ。たった三歳で、何を記憶できるだろう。毎日食事がおいしかったくらいの記憶しかない。
 何故なら、今の方が断然、実感があるからだ。
 今、生きている。動いている。呼吸している。地を踏みしめて歩いている。第三階層のイメージは、今やふわふわとした天上の雲を歩いている感触に変わりつつある。
 だから、そんなんじゃない、とジャックに言った。
「だれも守れないようなやつ、好きになれない」
 遠矢、と呼ぶ声は母のものだ。母は、第三階層に夫と息子が逃げる際、一人、第三階層に残った。
 ――母は父上とリエンしました。だからもうキリサカを名乗れないけれど、いつまでも、あなたの母ですよ。
 別れの説明を母に求めた。まだ三歳の頭では理解できなかったが、聞こえてくる周囲による説明は『キリサカのシッキャク』のせいで、『オチメの家にいるのは恥である』ためだった。しかし母は、『私の病気のせい』と語った。
 母は病弱な人だった。身体の主な機能を、薬と人工臓器で補っていた。だから行けないのだということを、息子に説明したのだった。
 アンダーグラウンドにやってきて、トオヤも理解した。ここでは、第三階層のような清潔な病院はなく、専属の医師はいない。母が不自由なく生活するためには、第三階層の方が適していると認めなければならなかった。
「確かに、オヤジさんは強ないかもしれんけど……守れないのとは違う気ぃするで」
「……みんな、なんでそんなにかばううんだよ」
「オレ、トオヤの将来心配やわ。個性ってあるやん。オヤジさんはすごい人やと思うで。オレもおとんも、もちろんトオヤも、オヤジさんみたいな技術者には絶対なられへんやん。オヤジさんにはオヤジさんの守り方がある、そういうことちゃうのん。個性は認めるもんやで」
 ちらっと思ったのは。
 親父が母上と離婚したのは守るためだったのかな、一緒に連れてこなかったのは嫌いなわけじゃなかったのかな、ということだった。
「……なあ、なんでジャックって、そんなスラングでしゃべるんだ?」
 ただそれを認めるのは癪だった。代わりに聞いた。
「え? あー、むかし倉庫から掘り出した映像資料に、こういう喋り方をするお芝居みたいなんあってな、コメディなんやけど。めっちゃちっちゃい頃にそれを一日中再生してたから、移ってもうたんやと思う」
 お芝居。女地主とか養女が出てきて家を売る売らないの話みたいなものかな、とトオヤは考えた。見てみたい。
 だがそのとき、鼻先が花の香りを嗅ぎ取った。はっとして、その香りの先を見る。ジャックも気付いたらしく、息を呑んだ。二人、顔を見あわせて、走り出した。
 零街の歓楽街を抜け、住宅が密集する通りを抜ける。辺りを見回し、その人を探していると、向こうの方、第二街へ向かう道の先に白い光が見えた。あっちだとジャックに叫んで、走る。
 果たして、思い描いた人はそこにいた。
 銀色の髪をさらさらと肩に流した彼女は、やってきたトオヤたちに笑いかけた。それだけで、星が爆発したみたいな眩しさを覚える。
「こんなところで何をしているの?」
「こっちの台詞だよ、リア!」
 息を弾ませ、笑う。すると、リアの白い手がトオヤの頬を撫でた。
「頬が林檎のようね。それとも熟れた桃かしら。罪の果実にそっくり」
「こんなとこで何してるん?」とうわずった声でジャックが言った。まるで、構ってもらえないことに異議を申し立てるみたいに甲高い声だった。だがリアは喉を鳴らし、空を指差した。
「なに?」
「高みを見ているの。私の玉座を」
 ここはとても遠いのね、と静かにリアは笑った。二人して、彼女が指す先を見ようとしたけれど、完璧に閉ざされた空には何もない。ぼうっと、常時灯が揺れているくらいだ。
 でもその顔が寂しげに見えたので、トオヤは彼女の手を取る。その手を取るのだったら男たちはきっと何でもするだろうが、トオヤにとっては、最も親しい年上のひとの愛する手でしかなかった。
「寂しいのか、リア」
「さびしい……胸にあふれ、掻き乱し、涙を流したくなるのがそうなら、違うわ。だから、楽しいのかもしれないわね」
「楽しいの?」
「あなたたちといるから」
 そう言って、トオヤを見、ジャックを見た。「ジャック」と呼べば、友人は姿勢を正した。
「これから十五分で私たちは隠れるから、あなたは私たちを見つけてご覧なさい。何を使ってもいいわ。大人でも、機械でも。私たちを捕まえてご覧なさい」
「かくれんぼするのか?」という問いに、そうよと言いながら、彼女はトオヤを抱きかかえた。
「さあ、後ろを向いて」とジャックの耳元に囁く。身体を強ばらせたジャックは、その通り銅像のように忠実に、リアとトオヤに背を向けたまま動かなくなった。


      



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