楽園の名を冠す場所で、少女が息を切らしている。切羽詰まり、追い詰められ、苦しく、辛さと痛みを引き攣ったように響かせる呼吸で、彼女は泣き出すまいと眉間に皺を寄せて歯を食いしばり、希望と呼ぶには頼りない包みを胸に抱えていた。
*
頬を打たれた幼い少女の前に、咄嗟に入り込んだ。少女はこちらの顔を見た途端、高い声で泣き出すが、彼女を抱きしめ庇うようにして背中越しに振り返ると、頬を打った女性が美しい微笑で見下ろしているものだから、泣き声を堪えて黙り込んでしまった。ただか弱い手だけが、守られることを祈って、袖に縋り付いている。
「セシリア様……」
「何故打たれたのか分からないのなら、もうわたくしのところへ来なくてよくてよ」
少女だけに向けられた言葉に、その彼女はびくんと飛び跳ねた。反応を見るまでもなく、美しい人はこちらを無視し、長い裾を引きずって踵を返していく。姿が消えると、少女はぽろぽろと涙を零した。
「大丈夫よ、大丈夫。さあ、温かい飲み物を飲みましょ、ね?」
微かに頷いた少女を連れて食堂に行き、メイドに命じてココアを作らせた。
「セシリア様ですか」とついていてくれてもいるメイドは眉尻を下げた。
「あの方も、しょうがない方ですね」
うん、とそぞろな返事を返して、呟いた。
「あの子はまだ子どもなんだよ。まだ三つ。三つの子どもに何ができるっていうの。あんなに泣き虫なのに……」
「泣き声が聞こえていましたよ」とメイドは苦笑し、湯気の立つココアを渡してくれた。
「そう言うお嬢様も、たった九つだってこと、忘れちゃだめですよ?」
礼を言って、部屋に向かう。
厚い陶器のマグを持つ三つの少女の手は傷だらけで、可愛らしい顔にそぐわないそれに微かに眉をひそめるが、穏やかさを心がけて尋ねた。
「ずっと何をしていたの?」
「…………」
ぼそぼそと話してくれたことによると、ナイフの手入れをしていたという。
「ナイフ……」
まだ三歳の子どもに一体何を教えているのだろう。抑えきれなかった表情で、機嫌を損ねたと思ったのか、彼女は「だいじょうぶ、ちゃんと、できるようになったよ」と言った。そんなことではないと首をふり、言った。
「でも、ぶつなんてひどいわ」
すると、ちがう、と首を振る。
「何がちがうの」
「刃物、放って、絵を描いてたから、怒られたの」
だから、と言うがその続きが消える。そう、としか、彼女は妹に言えなかった。
セシリア。銀の髪、銀の瞳。汚れのない光と同じ白をまとう、楽園最高の女性が姉妹の母親だった。美貌は光のごとく、声は天上の祝福のごとく。立ち居振る舞いひとつで花が咲き、彼女が滅べと口にすれば、それだけで世界は滅ぶ。九歳でも、入れ替わり立ち代わる家庭教師たちの賛辞を聞いていれば覚えたし、目の当たりにすれば納得した。あの人は神の領域にいるのだ。
そのセシリアは、娘たちの教育に偏った関心を見せた。姉妹のうち、末の妹にだけ、自らの教育を与えたのだ。その多くは、何故女の子に、こんな幼子にと思うような、銃の扱いやナイフの扱い、体術や武術といった訓練なのだった。
女神に認められた妹を、リトル・レディと人は呼び、注目されてしまった彼女はみるみる引きこもるようになった。人の目から逃れるように黙々と、幼児が行うには過分な課題や訓練を行う。長姉は末妹を嫌った。陰気な子、と一瞥をくれて言い放った。それだけではないだろう、姉は、セシリアの執着を受けている妹が羨ましいのだ。
妹を寝かしつけ、廊下を歩いていると、庭に出て行くセシリアの姿を見つけた。
一言もの申さねば。あの子はまだ子どもだ。もっと甘えさせ、愛情を注ぐ必要がある。
追っていくと、銀色の鈴の声が聞こえた。
ねむりつく墓はあなた 言葉は土塊 時を経た
さえずる小鳥はわたし わたしの歌を風は覚えた
恋歌よ 永久に響け 地底の骨にも聞こえるように
錆びた銃弾で開いた穴に 誰にも知られぬ花を咲かせよ
思いがけず、それは死と愛の歌だった。
歌い終わると、彼女は振り向いた。地に着くほど長く、艶のある髪を軽やかな琴線のようにして。
「……だれのための」
歌ですか。娘の問いに笑ったセシリアは言う。
「わたくしが気に入らないのね。どうしてあの子にあんな苦を強いるのか」
この人に対して文句を言える子どもを、自分は知らない。大人でさえ、彼女と言葉を交わすことは困難な部類に入る。彼女は気まぐれで、自分の交わしたい会話しか受け入れないのだ。
「わたくしはあの子に早く大人になってもらわねばなりません。強くなってもらわねば。第三階層者の中の、選ばれたる血の、選ばれたる人間に。――女神に」
「あの子はまだ三つです、セシリア様」
「そう。時間は短い。美しい時は儚い。そうでなくって?」
「あの子は子どもです!」
「だからと言って、労苦を背負わないでいい理由にはならない。子どもは庇護すべきという理想は気高いでしょうけれど、わたくしはそれをあの子に適用するつもりはない。あの子は、わたくしの娘」
セシリアは花の香気をまとって側を通っていった。決して、こちらの意見を聞こうとはしないのだ。
(あなたがあの子をそのように扱うのなら)
私は間違っていないと証明してみせる。
(あの子を、子どもとして扱ってみせるわ)