新しくできた湖だからか、夜の闇に満たされていても水が澄んでいるのが分かった。木々をなぎ倒して生まれたために水の中には倒木が折り重なっており、これが網の邪魔をしたのだろう。その間にはどこからやってきたのか魚の影が見えた。
 光はずっと底、入り組んだ木々の下にある。枝を掴んで下へと降りていけば辿り着けるのでかなり楽だ。息が少しずつ苦しくなってきたが、慌てないよう慎重に枝を伝っていく。
 底に近付くほど暗く、月の光も射さなくなっていた。だが発光するそれが周囲を白く浮かび上がらせる。セレスレーナはそれを手に取った。
 水以上に冷たいつるつるとした石だった。冷たいと感じたはずなのに握っていると熱を発しているかのように温かくなる。
 だがほのかな熱を堪能する時間はなかった。息が切れる前に石を胸の衣嚢に入れ、水面を目指して木を蹴った。
 途端、ごおんと音を立ててその木が倒れた。一つが崩れると連鎖的に動き出し、土が舞い上がって視界を覆う。巨大な影が見えてはっとすると、垂直に立っていたらしい木が倒れてこちらに迫ってくるところだった。
(……っ!)
 身をひねったがわずかに掠った。だが巻き込まれずに済んだようだ。右肩に痛みを感じながらひたすらに上へ向かった。
「……っぷは!」
 無事に夜の空気を存分に吸い込んで、セレスレーナは辺りを見回した。船は少し離れた位置にあったが、手を挙げるとディフリートが立ち上がったのが見えた。そちらに向かって泳いでいき、手を借りながら船に上がる。
「かなり水が冷たかったけれど、光るものはちゃんと回収したわ。この胸のところに……わっ!?」
 悲鳴を上げた。抱きしめられたからだった。
 冷え切った身体にディフリートの体温は熱い。内側に火をつけられたような熱を感じて目眩が襲った。まだ水の中にいるのではないかと思うほど息が苦しい。
「無事でよかった」
 囁きとともに回された腕がぐっと力を増す。
 何が起こっているのか理解が追いつかないでいたセレスレーナだったが、触れ合う胸元で光が瞬いているのを思い出して慌てて腕を突っ張った。
「ちょ、ちょっと、離して! 濡れるでしょう」
「濡れるくらいなんだ。心配かけやがって。夜の湖に飛び込むなんて、あんたは本当に命が惜しくないらしいな」
 声が凄みを帯びてきたのを聞き取って身体が震えた。わななく唇で反論する。
「潜れると思ったからそうしただけ。死ぬつもりだったわけじゃない」
「言っておくと、俺は泳げない。シェラもそうだし、カジも得意ってわけじゃない。俺たちの故郷にはこんな深い水場はないからな。だからあんたが湖に飛び込んだ時、どれだけ肝が冷えたか想像できないか?」
 不安にさせたのだと理解はできたが、セレスレーナはなおも腕を突っ張って彼から離れようと試みた。
「だ、だめ。離れて。シェラに知られたらどう言い訳するつもり?」
 妙な沈黙が漂った。
「……どうしてシェラが出てくる?」
「だって恋人同士なんでしょう?」
 またちくりと胸が痛んだ。今度はざわざわとした落ち着かなさも感じる。きっとディフリートは気まずそうに顔を背けるか照れたように笑うのだろう、そう思ったのに彼は知らない言葉を聞いたかのように不思議そうに瞬きをした。
「誰がそんなでたらめを言ったんだ?」
「ヴェルティ氏との会話がそうとしか聞こえなかった。ヴェルティ氏はシェラの前の恋人で、今の恋人であるあなたは彼のことをよく思っていない。シェラはあなたとかなり親しいみたいだし……」
 ディフリートはセレスレーナの肩を掴み、真顔で言った。
「それ、シェラに言うなよ。爆笑しすぎて三日間は使い物にならなくなるから」
 眉をひそめていると言い聞かせられるように何度か肩を叩かれた。
「俺とシェラは同郷の幼馴染みだ。子どもの頃からお互いをよく知ってる。恋愛関係になったことはないし、これからも絶対にならない。親しすぎるように見えたなら、勘違いさせて悪かった」
 髪から滴った雫がまぶたの上を滑る。
 瞬きをしながらどんどん顔が赤くなるのを感じた。自分は想像力をたくましくして下世話な推測をし、思い込みのもとに彼を誤解したのだ。
「わ……私の方こそ、ごめんなさい。おかしな勘違いをしたみたい」
「いや、あまりに長く一緒にいるから分からなくなってたが、そういう風に見られる距離感なんだな。気をつける」
 ディフリートは悔いるように呟く。なんだかおかしな空気感になってしまったので、セレスレーナは急いで胸元から石を取り出した。
「これが湖の底で光っていた石よ」
 手のひらでも輝くそれは、月の光の下にあると銀で塗装したように見えた。握りこむと隠れてしまうような小さな石だが見た目よりも重く、ひんやりとしている。けれど放たれる光は清浄で温かみすら感じられた。
 ディフリートは計測器を確認して笑顔になった。
「《天空石》の欠片だ」
「っくしゅん!」
 セレスレーナの歓声は盛大なくしゃみに取って代わられた。ぶるぶると震え始めたのを見てディフリートは急いで船の動力を入れる。
「離れたところにいないで、近くに来いよ。風除けくらいにはなってやれる」
「さっきの話の流れでそれを言う? 距離感には気をつけるんじゃなかったの」
 ディフリートは「そうだな」と苦笑して船を操作した。ぶおんと動力が吠え、自分の声さえろくに聞こえなくなる。
「……なんとも思ってないなら家族でも幼馴染みでもない奴にそういうことはしないっての」
 そして背中を向けているセレスレーナは、その声のことも、彼がどんな顔をしていたのかもまったく気付かなかったのだった。
 岸で明かりを灯して待っていたカジは、全身ずぶ濡れのセレスレーナを見て驚き、ディフリートを糾弾するように顔を険しくした。セレスレーナが自分から飛び込んで《天空石》の欠片を拾ってきたことを説明すると、呆れたように首を振り「あまり無茶はしないように」と短くたしなめた。
 船を車の荷台に運び、街へ戻る。着替えはなく備え付けの毛布にくるまってがたがたと震えていると、いつの間にかうつらうつらしていた。車の振動がやけに心地よかったのだ。
「この状態でよく眠れるな。寒くないのか?」
「船に戻ってシェラを呼んでくる。彼女に任せた方がいいだろう」
「悪い、頼んだ」
 かすかに残っていた意識がディフリートとカジの会話を聞いていた。目を開けて起きていると伝えようと思ったのに、むにゃむにゃという言葉にしかならなかった。
(ねえ私、役に立ったでしょう? あなたの助けを借りなくたってちゃんとできる。あなたが言うほど私は弱くないんだから)
 返事はなく、代わりにふわりと抱き上げられた。近くにあるその温かさはさきほど感じたディフリートのものだ。自分を安堵させる温もりに浸ったセレスレーナはゆるゆると眠りの底へ落ちていった。



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