寝台の上でセレスレーナは伸びをした。目を開けると見知らぬ天井が飛び込んできて、慎重に周囲を見回して起き上がる。寝台と小さな戸棚があるだけの生活感のない部屋は恐らく宿の一室だろう。昨夜は車に揺られながら眠ってしまったのを、ディフリートに運ばれた覚えがうっすら残っている。
 濡れた髪はそのまま乾いてごわついてしまっており、着ていたものは一枚ものの寝巻きに変わっていた。脱がされたものは壁にかけられている。誰が着替えさせたのかと真っ青になったが、棚の上にあったセレスレーナ宛の伝言を読んでほっとした。
『着替えさせたのはあたしだから心配しないように! シェラ』
 服は乾いていて、脱ぎ捨てた胴着なども椅子の背もたれにかかっていた。着替えを終えたセレスレーナは窓の外を見やり、靄に包まれた白い街の風景からすでに朝を迎えていることを知り、少しだけ街を歩いてみようと考えた。宿の前の道に出るくらいならディフリートも口うるさく言わないだろう。
 階段を降りて誰もいない受付を通り、扉の鍵を外してそっと表に出た。
 子どもの玩具のようだった街は湖から流れる霧に包まれ、表情を変えていた。
 燃え尽きた蝋燭のように侘しい気配がそこかしこに漂い、緑林に君臨していた街はいつの間にか森と湖に飲まれた廃墟に変わったかのようだった。じきに人々が起き出してまたきらきらと玩具の街を輝かせるのだろうけれど、セレスレーナは街のほとんどが眠りにつくわずかな時間に宿を横手に見る橋の上に立っている。
 まだどこか夢を見ているような気がするのは、故国が遠く感じられるせいだろう。ここには息苦しいドレスも、針のような値踏みの視線もない。少年のような格好はドレスよりも自分に合っている気がするし、どんなに会話が気詰まりでも常に微笑んで機嫌よくしているよりかは、ディフリートに振り回されて怒ったり戸惑ったりしている方が楽しいと思えた。
(でもそれではだめなんだ。私は自分の世界に戻ってジェマリアを救わなくちゃならない。そのためにはディフリートに私を認めさせる。こんな……)
 歯を食いしばる。
(こんな楽しい思いをする資格は私にはない)
 きちんとディフリートと話をすべきだと思った。彼は根っからの悪人ではないし、聞く耳を持たないわけではない。自分の思うことをたどたどしくても正直に説明すれば、ジェマリアに帰ることを納得してくれるはずだった。
 石灯の光が消えた。霧が晴れ始め、空が金色に染まっていく。太陽が昇ってきたのだ。
 そろそろ戻ろうと思ったとき、後ろから近付く人の足音を聞いた。ゆらりと揺れる黒い外套と長身は、遠目で見てもすぐにヴェルティと分かるものだった。
 じっと見ていると彼は目を上げ、微笑んだ。ディフリートに対する時とは打って変わって穏やかな表情だった。
「お前、ディフリートと一緒にいた女だな」
 通りすがりに愛想を振りまいただけのように思ったけれど、どうやら覚えていたらしい。セレスレーナは頷いた。
「私はセレスレーナ」
「ヴェルティだ。こんなところで何してるんだ? まさか俺を待ってたわけじゃないだろう?」
 翔空士の男の八割はこうした自惚れ混じりの冗談を言うのかもしれない。それとも類は友を呼ぶのかとディフリートを思い浮かべつつ、笑みで答えた。
「ただ散歩していただけ。あなたこそ、私を探していたわけじゃないわよね?」
 ヴェルティは楽しそうに口元を歪めた。
「お前、ディフリートの船に乗ってるのか? どうせあいつが子犬みたいに拾ってきたんだろう。こんなところで俺と喋ってるのが見つかったら飼い主が怒り狂うぞ」
 旅をする者としては全体的に貧相な体つきを見て取ったらしく、ヴェルティはにやにや笑いながら懐から巻き煙草を取り出し、火を点けて口にくわえた。むっとしながらセレスレーナは言った。
「助けてもらったのは本当だけれど、飼われているつもりはない。私には帰らなければならないところがあるから」
「へえ? それにしちゃ自信がなさそうだな。あいつと揉めてるのか」
 ぎくりとして口をつぐむと「やっぱりな」と声を立ててヴェルティは笑った。
「どうして翔空士が《天空石》を探し回るか知ってるか?」
 煙を吹かしながら、返事を待たずに彼はつらつらと語り始めた。
「《天空石》は成果なんだよ。どいつがどのくらいそれを見つけたか、その成果次第で《蒼の一族》から褒美がもらえる。特に一族と密接な関係がある天空世界フェリスフェレスの人間は、国同士で競い合うように翔空士を送り出した。俺もディフリートもその一人だ。これがどういう意味か分かるか?」
 ヴェルティは煙をまとわりつかせながらセレスレーナに顔を近づけた。
「《天空石》を探すのは、《蒼の一族》から国へ、国から翔空士へ褒美が出されるからなんだよ。さて、ディフリートは国とどんな取引をしたんだと思う? お前が命を預けているそいつは何の打算もなくお前を船に乗せているのか? 自分の願いを叶えるためにお前に綺麗事を言っていないか? よく考えてみろよ」
 ふうっと吐き出された煙をまともに浴びて咳き込んだ。ひどく目に沁みて涙が浮かぶ。
「レーナ!?」
 橋の向こうから現れたのはディフリートだった。セレスレーナと一緒にいるのがヴェルティだと気付いて怒りを露わにしたが、煙草を咥えたヴェルティは駆けつける彼のそばを堂々とすれ違いながら「忠告したぞ」と半分振り返って言って去っていった。
「あいつに何かされたのか」
「ちょっと話して、からかわれただけ。何かされたわけじゃないから」
 大袈裟にするとディフリートが今すぐ追っていって殴りつける可能性があったので、そう答えた。こんな朝方に喧嘩騒ぎは避けたかったし、彼が人を傷付ける光景を見たくなかった。
 けれど実際に直接手を下されたわけではないのに心を揺さぶられ、険しい顔をしているディフリートをまっすぐ見られなくなっている自分に気付いてしまった。
(ディフリートが《天空石》を探す理由……。世界を救うんじゃなくて、彼自身が翔空士として望むものがあるのか)
「宿に戻ろう。次の行き先も決まったし、昼頃には出発したい」
「次はどの世界に《天空石》があるの?」
 ディフリートは首を振った。
「いや、次はその《天空石》を預けに、天空世界フェリスフェレスに行く」
 どこかで聞いた名前だと首を傾げ、すぐに思い出す。それは先ほどヴェルティが口にした、彼らの世界の名前だった。



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