世界が白く塗りつぶされる。圧倒的な質量の閃光の洪水が降り注いで、目を潰され竿立ちになった馬から投げ出された。馬のいななきが、あちらこちらに響き渡っていく。
 闇の世界でただそこにだけ、光が襲ったのだ。投げされても、キサラギはそれでも剣を離さなかった。咄嗟に受け身を取り、次第に光を収めていく世界を捉えようと必死に目を開け、明滅する視界にはっとした。
 光を鱗粉とするような鱗の巨体。白い翼と銀のたてがみが、大きく震われ粒子を振り落とす。
「セン……!?」
 センがマミヤ守護団のただ中に舞い降りたのだ。
 突如現れた巨大竜にマミヤ守護団は冷静さを失った。彼らが竜狩りで、そして新しい王を戴いているという強さが仇を成したのだ。この場では生き延びようと逃げる者が正しいはずなのに、竜に向かう者たちが現れている。当然、血を流させまいとセンは襲い返してしまう。
 脱出を試みるも、飛び立てない。人が群がっていくのだ。仕方なしに振り払った人間たちは更に勢いを増して白竜に襲いかかる。
「セ、きゃあ!?」
 横から腰を攫われ悲鳴を上げた。マミヤ守護団の男が、キサラギに乗りかかり手首を握って動きを封じ込める。
「くそっ、どうなってやがる!」
「は、なせ……っ!」
 手足をばたつかせるも拘束は解けない。必死にセンを見る。人間を振り払う竜は、決して血を流してはならないと誓っているはずなのに、襲われてしまっては身を守るためにその身を使うしかない。人間に戻っては、センは糾弾される。
 それでもあのままでは血が流れる。マミヤ守護団の人々が危ない。しかし、キサラギもまたどうにもできない状態に陥ろうとしている。
「じっとしろ!」
 細い何かが光った、と思えばそれは足に吸い込まれ、刺し傷を生んだ。
「う、ああぁっ!」
 血が流れた。足が一度反射的に痙攣して、キサラギは痛みに歯を食いしばり、身を縮ませる。声を殺し、だがセンを探した。男はその隙にキサラギを担ごうとして。
 竜の爪に薙ぎ飛ばされた。
 悲鳴が近くで響き始めた。今度の悲鳴は苦痛の声だ。身体を起こして目を凝らし驚愕する。白竜の足下でまだらになった血の跡に、戦慄してセンを見上げた。
 センは動きを止めようとしない。動くものすべてを襲うように、身をよじり、尾を振り、爪を繰り出す。吠えているのは、竜としての歓喜。
「……見境をなくしてる……? 血が流れたから!?」
 この狂いよう。竜人が人間の血を得て叶える願いがよぎるものの、しかしセンは人間に姿を変える様子は欠片も見当たらない。少しだけ意識があるのだろうか、決して牙で人を襲おうとはしなかった。彼にとって、人間の血に触れることは禁忌であるのだ。
 だがセンはほとんど暴走の一歩手前。爪や足には血の跡がある。セノオの竜狩りたちが装備を整えて現れるのは時間の問題だ。
 その前に、止めなければ。
 立ち上がる。が、刺された足から力が抜けた。ぎりっと歯を噛んで堪える、と同時に先程刺していってくれた馬鹿をこれでもかと罵った。
 適当な布で傷口を覆い、外気に触れたり血が新しく流れたりしないよう止血する。きつく縛れば痛みが和らいだ。だが長くこうしていると血の巡りが悪くなって使い物にならなくなるかもしれない。傷は深くはないようだが、いつものように動けないと思った方がいい、そう見当をつける。
 側に転がる剣を掴み取った。
「セン!」
 彼に呼びかけながら走る。今もまた彼に襲いかかる竜狩りたちを突き飛ばした。
「早く行け! 勝てない相手だって分からないのか!」
 はっとして伏せた上を人間が吹っ飛んでいく。転がって動かない仲間に彼らはようやく気付いて、忙しなく周囲を見回した。そして、叫び声を上げて逃げ出した。
「あ……お前は……!?」
 だがそれでも冷静さをすぐさま取り戻した竜狩りが、一人そこに留まり続けるキサラギに、わずかばかり立ち止まって問いかける。キサラギは早く行けと返した。
 砂埃が舞い上がる。羽ばたきで風を起こし始めたのだ。視界を潰されて呼吸もままならない。
 しかし次の瞬間斜め後方に跳躍している。足がそこを薙ぎ払っていた。
 また叫び声が上がっている。センを止める前に、この場から彼を狂わす要因を取り除かなければと、そちらに走り出す。今まさに次の攻撃の展開を指示している男に、怒鳴りつけた。
「何してる、早く逃げろ!」
「命令だ、邪魔を、するなっ!」
 向かって振り下ろされた刃を弾き返す。命令という言葉が引っかかれば、次々に新しい竜狩り部隊にも気付いた。マミヤの、都ノ王が命令しているのだ。進軍は止まる気配がない。
「馬鹿野郎……!」
 きつく噛んだ唇から誹謗が洩れた。そんなに竜の力が欲しいのか。そんなに、人間のままが嫌か。人間を越えた人間に意味を見出すなら、そこに幸福はないと気付くことをしないのか。
 そのままで未来を見つけられないのが、人間という種の宿命か。
 遠くから声がする。それは、キサラギが希望する命令の声。
「退却……! 退却――! もう相手にするな、命令なんて捨てて自分の命を守れ!」
「ゴウガ!」
 馬上の人はこちらに気付いた。キサラギと竜狩りの前に割って入る。
「キサラギ、無事だったのか!」
「私はいいから全員退却させてくれ! このままじゃもっと血が流れる。白竜がもっと暴れる!」
 示す先には止まらない白い巨体がある。
「ゴウガ隊長、都ノ王の命令です! 白竜を捕らえなければなりません!」
「あれに勝てるっていうんなら続行しろ。俺はごめんだ」
「ゴウガ、おばあさんたちは無事逃がしたって。うちの部隊長が言ったから間違いないよ、安心して」
 反対側の叫び声を両断してゴウガは再びキサラギを見やる。その瞳に深い感謝が表れた。
「ありがとう。……何か手伝えること、ないか」
「彼の近くまで行かせて。止める」
 どんな方法が有効なのかいくら考えても分からない。時間もない。だがこの動く身体があるのならキサラギは諦めない。諦めたくない。
 ゴウガは馬を譲ってくれた。自分は適当なのから馬をもらうという。果たしてそれが本当に可能かどうか危ういところだったが、言わないでおいた。彼の厚意を無駄にしたくなかったからだ。彼は竜狩りだ。キサラギの、単独で白竜に向かうという言葉に思うところもあるはずだった。それでも、またな、と言ってくれた。
 騒乱の守護団の者たちの一部も、何故か厳かにキサラギを見送ろうとしている。
 キサラギは、剣を確かに手にする。ゴウガの馬は竜と血の臭いとに興奮して荒く呼吸をしている。周囲には風と、白竜の吠える声、竜狩りたちの傲慢の音。目を閉じると段々それらが消え、ふっと、キサラギの瞼の裏に浮かんだ、銀色の光があった。
 走り出した。
 一騎、素早く動くキサラギに白竜は眼を動かした。仕掛けてくるのだと分かって少しずつ間合いを取っている。キサラギもぐるりと周囲を回りながら様子を見る。
 今、キサラギはセンと対峙していた。彼が人間を襲うようなら狩ると決めた、その時が今来ている。
(さあ、人生最大の竜狩りだ)
 でも、決して来なければいいと、願っていた。
 竜の殺気が膨れ上がった。身を乗り出し素早く這った手が繰り出される。
 キサラギは馬の腹を強く蹴った瞬間に飛び降りた。馬は爪に攫われる前に間一髪で走り去り、キサラギが跳躍して白竜の腕に降り立つ。そのまま頭上へ向かおうとした。
 身を乗り出してもまだ顎を使わない。きつく閉じられた口からは、歯を食いしばる強い力が見える。まだセンには理性がある。それが希望だ。
 だがキサラギの狙いを彼はすでに察知していた。腕はすでにキサラギを振り払い、飛ばされてしまう。受け身を取ったそこに尾が叩き付けられ、横に転がりながら体勢を整える。
 剣を握りしめても攻撃の隙が見えない。どれだけ近付いても距離が開いてしまう。
 それでもただ走った。行くんだ、行かなければ。そうすれば風がどこへ行くんだと問いかけ、キサラギは叫ぶ。センへ。センのところへ。
 再び飛び、しかし倒され、転ぶ。近付けない。
(すごいな)
 その思いは呼吸するように浮かんだ。
(センはすごい)
 何を考えているかいつも分からなかったけれど、強かったのは知っていた。キサラギを見守って、竜人という自分に負けなかった。血を求めることもなかった。もうごめんだと言って背を向けたのは、本当は少しだけ弱かったところもあったのだった。
 もう誰も決して愛さないだろうけれど、抱きしめられた時の温もりは本物だと思う。
 まるで人と変わらない。目的のために強さを抱え、そこに弱さを隠して。よく似ていた。だから平行線、自分を見ているようで、聞こうともしなかったし、聞きたくもないと思った、旅の始まり。でも、今は。
「セン! 私は答えを手に入れた!」
 身体を起こして叫ぶ。頬が濡れる感触があり、擦り傷を作ったのが分かった。素手の腕はもう傷や汚れがないところなどどこにもない。今は足の傷に痛みを感じないが、うまく使えないことで役に立たなくなっているのが分かっていた。
「答えを聞きにきたんだろ!? このままじゃ、私はあんたを狩ることになる!」
 出来ればそうではないと言って。
 狩られる覚悟で現れたのではないと言って。
「でも」
 だから、願っていたことを、言わせてほしい。
 竜が吠えたけれど、瞳は揺れていた。銀の、雨と晴れの狭間の瞳。長く迷った末に突き出された顎は、決着をつけようと、理性の針を振り切って牙を剥き出していた。そしてキサラギは手に力を込め。
 剣を、捨てた。
「私は、そんなこと、したく、ないんだ――!」

 風が、吹く。雲の音は天から響き、音や光や影と共にすべてを舞い上がらせるように。いつの間にか世界には静寂があり、苦痛も恐怖も、消え失せたかのように、息を呑んでいた。
 雲のような砂埃が突風に少しだけ薄まって、少しずつ視界をあらわにする。
 竜がキサラギと向き合うような形で、牙にかける寸前に動きを止めていた。顎は閉じられ、瞳は狂気の雲を払っていく。キサラギは、笑った。相手がものすごく驚いているからだ。
 輪郭が光の粒となって空気に溶け始める。小さくなっていく竜は、人間の形を取った。
「……竜狩りが、竜を狩らないのか」
 最初の言葉はそれだ。嫌味でもなんでもない、真実の疑問からの問いかけだったから、泣き笑いそうになってキサラギは手を伸ばす。
 間にあったのは深い深い水たまりのような境界線。そこに完璧な距離を彼が作るのなら、自分から踏み越えて触れにいけばいい。
「あんただけだよ、セン。センだけだ」
 竜人に変えるのでもなく、血を求めるのでもなかった。竜になってしまった姉と哀れな竜人のような関係はない。キサラギは彼女たちとは違う。それでも手に入れていた。この男が好きなんだという真実を。
 伸ばした手をセンは振り払わない。むしろ自ら手を伸ばして指を絡める。
「狩られるのなら……お前がいいと、思っていたんだが」
「かわいくないな、狩らないって言ってるだろ」
 ぽつんと空が肩を叩く。雨が降り始めた。絡めた手の間を温もった雫が伝っていく。血を与える代わりに、そうして透明な温もりを分け合った。
「離れろ!」
 恐慌の声。セノオの竜狩りたちが、恐ろしいものを見る目でキサラギとセンを見ている。竜から人間に変じたのまでを目撃していた彼らから、もう、言い逃れはできない。
「そいつは……竜人だ。人を襲った」
「人を襲った竜は、狩らなければならない」
 声には恐怖があるが、雨のせいか静かだった。突然襲いかかってくるのでもなく、キサラギを無理矢理引きはがすこともなく、信じられないといった様子で。彼らの目が、戻ってこいとキサラギを呼ぶ。
 繋がった手が離れた。
「セン」
「俺は十分生きた。だが、最後にしなければならないことが残っている」
 雷鳴、ではなかった。吠える声。雨の中旋回して影を作る黒い巨体に、竜狩りたちも、キサラギも、呟いていた。
「――黒竜」

    



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