終章 晴   
    


「そうして彼女は追いかけました。光がやって来る方向へ、いつまでも焼き付いた光の源へ――おしまい」
 ほうっとため息をついた子どもたちは、しかし身を乗り出して膝に触れる。
「キサラギとセンはどうなっちゃったの?」
「どこかで旅をしてるわ、きっとね」
 思わず笑ってしまうユキだった。相変わらず剣を下げている彼女の姿が浮かんだのだ。
 いつも自分だけの語り部だったキサラギの、彼女の物語を、ユキは語っている。キサラギが、話してくれたからだ。
 最後の姿は、旅装を整えた竜狩りのキサラギの微笑み。

   *

「私は行くよ」
 長い長い、秘められていた昔語りの末に、キサラギは告げた。すべてを聞き終えたユキは分かっていながらも、問いかけた。
「センさんを捜すのね」
「うん。イサイ父さんは、王国地方に草原地帯のことが知られれば、争いが起こるかもしれないって言ってた。私たちみたいな純粋な人間が暮らしているから、血の存在を知ったら戦いを仕掛けてくるかもしれない。向こうにも、人間の血が竜人の望みを叶えるって伝承はあるらしいからね」
 そしていつかからでは考えられない優しい声が言った。
「その時、センの助けが欲しいと思うときが来ると思う。例えセンが見つからなくても、捜しに行きたいんだ。見てみたいと思う。彼も知らなかった、世界の果てまでも」
 鎖の音が聞こえた。
「それに、これ、私が持ってていいのか聞かなくちゃ」
 彼のかつての思い人の護符だ。一度は捨てたそれを、キサラギは律儀に身につけていた。持っているだけだとなくしそうだから! と慌てて声を上げるのを、ユキは声を立てて笑った。
 本当に、キサラギらしい。いつもの彼女の方法だった。目的のために、力を蓄える。出来ないことを、出来るようにするために。
「じっとしてないのね」
「できるもんか! 捜しに行かなきゃ。今度こそ、私たち自身の誓いと望みで出会うんだ。そう決めた」
 うん、そうだよ、とキサラギは言葉を重ねる。
「センが話してくれた、竜人の始まりの話だけどさ。あれ、王国地方の話らしいんだ。それも中央の、龍王国ってところの。もしかしたらセンはそこの出身かもしれない。手がかりは今のところないし、そういうところから当たってみようかなって」
 白竜と黒竜の情報は、あの草原での二頭の飛翔が最後のままだった。果てのない旅だ。本当に見つけられるかも分からない。だがキサラギは希望を抱いている。やっと、本当の旅が始まる。
「分かってた。あなたがここに来た時から、あなたはいつかここを出て行くって」
 それがうやむやながら手を伸ばしてくるマミヤの追求から逃れるためという理由が、少しばかり混じっていても。セノオを守るために、ここにいられないという理由でも。それは些細だ。キサラギはセンのために行く。
 過去、灰色竜を追ったその先が見えないキサラギのために、自分が彼女を繋ぎ止められる一因でありたいと願い、誰かを憎み許さないという態度を取った。しかしそれはとても不毛なことだったのかもしれない。時は流れる。凝った憎しみは溶け出すことがある。時は流れる。変わらないものなどどこにもない。
 キサラギの目は透き通り、求めるものを愛おしむ光が宿っているのだと、分かる。目に見えるようだった。だからきっと大丈夫、キサラギはずっとさきの未来まで生きていく。ここには、留まらなくても。
「あのね、ユキ。最初の私とは違うんだよ」
 だがキサラギは手を握った。 
「私はいつか帰ってくるよ。ここに来た頃の私とは違う。だから、約束しよう」
 もう一度会えるように。そうして、小指が絡まる。将来の約束ではなく、遠い未来への、何かを見失ったときに見出される光として。

   *

「私たちは誰かを求めて、自分にないものを求めて……それは時に愚かで醜いけれど、時々、はっとするくらい綺麗なものが現れるときがある。それは、人から竜人になった誰かかもしれないし、竜狩りを名乗りながら竜人を狩らなかった誰かなのかもしれないわね」
 首を傾げる気配がして独り言よと笑った。ごめんなさいと謝りながら手を伸ばすと、右のよじって逃げた少年、左の大人しいけれどくすぐったそうに身を竦ませている少女に触れた。この子たちもまた、竜狩りの街の一部として生きていく。将来何になるのか、まだ見通せていないようだけれど。きっと、今感じられる温かな日差しが、満ちあふれているはずだった。
 その時わあっと声が駆けてくる。扉が勢いよく開かれた。
「ユキ! ユキさん、帰ってきたよ!」
「え、なあに?」
 光と風を連れてきた子どもたちが地団駄を踏む。
「もうっ、帰ってきたんだってば!」
 ユキははっと息を呑んだ。立ち上がる。逸る足で扉を探れば、子どもたちが外に連れ出してくれた。その手に杖を持たせて、こっち、早く、と導いてくれる。しかしもどかしい、うまく走れない。何故今目が見えないのだろう。
 街の入口に辿り着けば、世界にそれだけしかないような溢れんばかりの喜びの気配を肌に感じ取る。そして。
「ユキ! ただいま!」
 懐かしい声を聞く。きっと、左の指には約束の指環。右の手は、彼と絡められている。隣の人の腰には赤い石の象眼された剣。誓いは果たされて、また新しい約束が交わされているはず。
 昨日の誓いは明日の光に塗られ、また新たな約束を生む。
「ほら、約束!」
 明日のための空は輝いている。風にも空にも、光にも、雨の気配は、なかった。

   ・

   *

   ・

 空へ昇る。雨の覆い、雨雲はいつまで続くのだろうかと分厚く長い。雨のせいでもう温もりは消え失せて、彼は微かに苛立ちと悲しみを覚える。雨のせいだ、いつも。
 最初は、馬鹿だと思ったのだ。何故なら自身の目的を危うくするほど別のことに命を懸けて、実際に死にかけていたのだ。愚かすぎて嫌悪感しか覚えなかったが、助けたのは義務的なものだった。約束は嫌いだ、だが反古にするのも嫌いだった。それが一方的なものでも。
 どんなものにも全ての力を持って望むのがあれの本質だと気付いた時、生まれたのは何故か見ていなければならないという使命感だった。見ていなければ、きっと、傷付いて、新しい傷を作り続けて、ずたぼろになって――死んでしまいそうだと思った。
 だから、側に。最初の望み。相容れないと分かっていても、側に。距離を置けば許される。混じり合わなければ、見逃してくれるだろう、世界や神というものが。ならば距離を作り続けよう。
 それがこんなことになったのは、雨のせいだ。冷たく打つ雨。「さむい」とあれは言った。
『……さむい……?』
 凍えていたのは自分だというのに。
 雨が途切れ、細い光となって側を通り過ぎていく。雨を突き抜け雲を突き抜け、そのさきの、光を目指す。輝く光の環が、今飛び向かうセンの道行きを祝福しているようだった。



 晴れる空に。
 竜が、誓う。

    



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