第2章 竜   
    


 草原地帯南西部。ノグ山のあるこの地域には、大陸中央部の王国地方と交流のある南部から少し外れているというだけあって、どこか垢抜けない雰囲気漂う、異国と草原の二つが入り交じった地域である。当然ノグという街があってまずこことの交渉から竜狩りが始まるのだが、結果的にセノオは竜狩りの承諾を友好的に得ていた。どこの街も巨大竜の飛来を喜ばないものだからだ。

 草原に竜狩りが列を成し、ノグ山へ部隊の展開を始めた。
 黒竜のねぐらは頂上近く、険しい岩場にあるらしい。まずそこから人間が戦える場所におびき出さねばならない。大抵は、餌を撒く。家畜の肉と血を振りまくのだが、その任務は後方支援にあたる部隊や若輩者に命じられることになる。
 くさいと顔をしかめるのは当然のことだ。生きていたのだから。キサラギは第三部隊の副隊長にあるが、年齢序列になると下の方にいるので、監督役としてその仕事を任された。上も面倒見を押し付けることが出来るのでキサラギの位置は使いどころがいいらしい。
 しかし、場違いな笑い声が聞こえてきて振り返る。柄杓ですくった血を撒く作業、それを、友人に悪ふざけに引っ掛けようという遊びらしかった。
「ふざけてないでしっかりやってくれ。エンヤ、お前一応小隊長になったんだろ。統率しろよ」
 呆れ越えで言うと、エンヤは顔を歪めてふんと鼻を鳴らす。だがその隙が、他の者の狙い目になった。
 ぱしゃりという音がして、エンヤの白い装備に血が滲む。
「うわ! お前! やりやがったな! ……っ!?」
 子分どもに噛み付きかけた馬鹿の腕を引く。だが勢いよく振りほどかれた。疑惑と嫌悪の目だ。
「なんだよ!」
「着替えろ。そのままじゃ血のにおいがするところから持っていかれるぞ。あいつらにも言っとけ。においをさせてたら食われるぞってな」
 命令されたことにエンヤは不快そうな顔を隠そうともしない。だが自分よりも身長の高い男に基本的な指示をしなければならないこちらも苦労も理解してほしいところだった。だがおぼっちゃま育ちで入隊理由は箔を付けるため、という男には期待できない。そう思ったので、深く言い聞かせることなく、キサラギは自分の仕事に戻った。

   *

「エンヤ、ごめん! だ、だ、大丈夫!?」
「お前……、せっかくの服を!」
 手を振り上げて一発見舞う。力が強かったために打たれた少年は倒れ込み、周囲はあまりのことだったらしく不動の体勢を取る。
「水持ってこい!」
「み、水? 何するんだ?」
「洗い流すんだよ! 他のださい服に着替えるなんて出来るか!」
「でも、においが……」
「洗い流せばいいんだよ! それで落ちるに決まってるだろうが!」
 どこまでも気の利かない奴らだと、慌てて飛んでいくのを見ながら歯軋りする。その走る速度さえなんてのろま。どうしてこうも自分は恵まれないのだろう。あの女、キサラギの奴は、優秀な竜狩りたちに囲まれてちやほやされているというのに。そう考えて、鼻を鳴らす。あんな奴をもてはやしているようなら、セノオの竜狩りもたかが知れていると。

   *

 餌を撒いた場所から、風向きの加減を見計らい、集まってくる小竜どもを駆除しつつ待機する長い時間が続いた。退路の確保を終えていた竜狩りたちは周辺の森に潜みながら、息を殺し、竜の登場を待っている。
「上へ向かう風があまり吹いていません。においがあまり届いていないかも。それに、相手は巨大竜です。知能の高い竜ですから、警戒しているのでしょうね。人間の気配を感じているでしょうし」
「竜の好物って肉なのかな」
 思わず呟くと、一斉に顔をしかめられる。男ばかり、非常に見目に悪い。
「あ、いや。肉にも種類があるでしょ。竜は家畜を襲うけど、人間も襲ってる。人間の肉ってそんなに美味しいのかな」
「お前極限過ぎるぞ。んなえぐいこと考えんなよ」
 そうだそうだと後ろから抗議の声が上がる。気持ち悪いこと考えさせるな! と押し殺した声。
「でも竜の肉はどんな味がするのかねえ」
「隊長! 隊長までそんなこと考えないでください!」
「いやでもな、王国地方では食うらしいぞ、竜。食用だけど」
「それ、竜狩りの長から聞いたんだろ。私も聞いた。育てながら毒を抜くんだって」
 だがぞっとする話だ。草原地帯では考えられないことだった。竜は呪いそのものであり、狩るべきものであって食すものではない。食料を狩ることと竜を狩ることは別のものだ。生きるためという共通点はあっても、王国地方の所行は、なんとなく、不快なものを感じさせる。
「私もなんかで聞いたな。王国地方で竜の肉を食べる理由は……ええと」
 風が吹く。まるで見知らぬ場所から吹いたかのように、妙な強さを持つ、湿った風だった。
「――永遠を手に入れるため」
 だっけと呟いたのと竜の咆哮が天を裂くように響き渡るのが同時だった。ぱたりと裏返るように竜狩りたちの目の色が変わる。
 握りしめる剣の柄には力がみなぎり、足はいつでも強く地を蹴れるようになる。攻撃と防御の展開を思考し、そして何より、自身を怯えさせないよう精神の防御を強く行う。
 二度目の咆哮。違う、雷鳴。黒竜が誘ったように急な雷雲がやって来ている。
 手が異様に痺れている。鼓動の打ち方も、いつもの始まりを待っているものではない。怯えているのだ。相手が、黒竜だからだろうか。
 飛竜。人間よりも遥かな時間を生きる物。人間にすれば永遠であるという時間だ。それでも黒竜は若いと見られていた。噂されるようになったのはここ三年ほどのことで、突如として現れ、黒光りする鱗を持つことから黒竜の異名を取った。
 いつもは考えないことを考えている。もし、これが竜人だったら。
(狩る)
 慢心が吠えた。
 雷光と雷鳴が同時だった。閃光と響き渡る音に誰もが気を取られた瞬間に、黒い影が空を覆い地に広がる。皮膜の翼、光る鱗。呪いのような、金色の眼。
 巨体はしかし素早かった。獲物を見つけた敵は貫くように――餌から離れた後方部隊に降り立った。
「なっ――!?」
 声にならない悲鳴が竜狩りたちから洩れた。羽ばたきが土を舞い上げ、木々を薙ぎ倒して降り立った黒竜は、腐臭を開いた口から唾液とともに滴らせた。赤黒い口内、鈍く光る獰猛な牙が剥き出される。そこからの動きは断片的にしか捉えられなかった。あまりにも、追い付かさなすぎて。
 竜はまず頭を振り目の前に居並ぶ人間を一斉に口に攫った。後方部隊の中衛が乱れて飛んでいく。
 後衛が退却を命じる。前衛が退却とその援護を命じる。攻撃の主力であった前方部隊が展開を急ぐも、竜はすでに何人かを貪っている。
 血が流れる。それは竜の血ではない。どうして。
「どうして、ここが襲われる!?」
 自分のものではない他人の絶叫を聞いた瞬間、閃いた。そして襲われた中衛に震える青年の姿を捉える。怒りに震えた歯が強く唇を噛んだ間から、呻きを漏らした。
「あんの、馬っ鹿野郎……!!」
 走り出す。
「キサラギ!!」
「退却を優先! 私のことは構わなくていい!!」
 あの馬鹿は着替えなかったのだ。血のにおいをさせる者が人間の中にいたとすれば、生きているのだと分かったのなら。図らずもキサラギの戯れの問いの答えがこういう形で返ってきたらしかった。竜は、生きた人間を好物とするのだ。
 愚かにも剣一本で対抗しようとしたエンヤを体当たりで押し倒す。黒竜が自身の倒した巨木を噛んだ。それを背後でぎしぎし噛み切られる音を聞きながら、怒鳴った。
「鎧を脱げ!」
「ぬ、脱いだら装備が」
「死にたいのかさっさとしろ!」
 竜はすでに再び目標を捉えている。キサラギは側にあった荷台の影にエンヤを引きずり込んだ。竜は再び目測を失って荷台に顔からの体当たりになる。
 エンヤが鎧を脱いだと同時に、キサラギはそれを持って走り出した。飛び出した獲物が血のにおいをさせていることに気付いて、黒竜は眼を細め、翼を使わず四つの足で動き出す。森の木が折れ倒れていく凄まじい音が響き始めた。
 キサラギが走ったのは、攻撃部隊も防御部隊も向かっていないまったく別の方向だった。まだ体勢が立て直せていないと判断してのことだったが、さすがに無茶だとは気付いている。人間が一人、巨大竜に勝つことは出来ない。
 すでに足は暗闇に落ちていくように心もとない。自身の呼吸がいやに響く。竜が殺気をみなぎらせたのを察知した時、キサラギは鎧を上空に投げていた。
 餌のにおいが舞い上がる。
 キサラギは足を止めず、しかし、不意の力で横から突き飛ばされて転がった。
「っ!」
 それでも素早く、竜の気は逸らせたかと身体を起こそうとした。
 だが、動けなかった。代わりに足の感覚が遠くなり、ぐらりと視界が横に倒れた。
(え?)
 ぱたりと紙人形と倒すように呆気なく倒れる。
(うん?)
 手は動く。だが感覚が遠い。そして遅れて気付く唯一は――背中と腹部、体内が強烈に熱いということ。
 倒れた地面に、撒いたかのように赤が散っている。吠える竜の爪まであるそれに、理解が来た。
 爪で攻撃された。走っている最中だったから、横から薙ぎ払うようになった爪が、腹部を貫いたのだ。
「――!!!!」
 絶叫する。しかし声は出なかった。痛みが全身に響き渡り始め、思わず傷口を握りしめる。だが、ぎっと歯を食いしばり、地面を這った。先は鋭いが根元になるほど太くなる巨大竜の爪がどのくらい食い込んだのかは知れない。少しだけ動かした目が地面の血糊を見ても判断がつかない。立ち上がろうとしても力が入らなかった。
 血が流れれば竜は興奮する。このままではもっと荒れ狂う。
 行かなければ。遠くへ。皆が冷静に作戦を遂行できるほどの距離を稼がなければならない。
 しかし流れる血は気力を奪った。いくら進んでも進まないということが辛い。諦めの気持ちが身体を支配する。そして、とうとう力が抜けた。
(無理だな……)
 逃げる力が残っていない。剣にも手が届かない。
 どうやら意外と呆気ない最後らしかった。理由がエンヤというのが非常に癪に障るが、今回のことで懲りてくれれば恨まないと思う。ユキが泣きそうでそれだけは少し、後悔する。もう少し大切にしてあげたかったと。ハガミは上司としての責任を感じて養父に謝罪し、養父は首を振ってそれを責めない、というところまではっきりと見えた。あんなに未来なんて分からなかったのに、こういう未来が思い浮かぶのは奇妙な感じがした。
 灰色竜を追えなかった。苦しみと痛みと後悔の水の中に浸かったような心持ちだ。でも、奥深いところで解放される気がして力が抜けていく。
 黒竜が暴れる地響きが心地よい振動のように思えるのは、恐慌を来す吠えが聞こえないからだろう。もう音が聞こえないのだ。
 それは懐かしいあの暗闇が口を開けているからだった。キサラギが過去に見た姿のまま、いつでもそれはそこにあった。死に向かう時、皆同じところに行くのだという言葉を思い出す。最後の時は、皆一人だ。
(竜の血に触れるな)
 自身の血で手のひらを濡らしながら、思う。
(なら、人間の血はどうだろう)
 次の瞬間には苦く笑っている。
(あんまり綺麗なものじゃないか……)
 答えが出たことに心地よく目を閉じた。
 瞼に、ぽつんと雫が当たる。うるさいなと思って目をこじ開けると、ぽつぽつと揺り起こすように細い雫が身体を打ち始めた。雨が降り始めたらしかった。
 その雨は、何故か光っていた。
 なに、と消えかけた意識が問いを投げかける。
 薄闇の視界で黒竜が暴れている。何かに襲われているようで助けが来たのかと思ったが、音が聞こえないので詳しいことが分からない。竜は翼を広げて舞い上り、視界から消える。
 代わりに、雨の中に白く光る人影が現れた。
 泥と水を跳ね上げる黒い靴が見えた。それは数歩離れたところで立ち止まると、じっと行方を見るように動かなくなった。
 覗き込んでいるのが分かる。雨雲が光を閉ざして、更にこうすれば影になるはずなのに、燐光が見えるのは何故なのだろう。雨のように細く、たくさん、キサラギに降ってくる、光。その光は綺麗だから寂しかった。触れても、キサラギには温められない。温めなくてはならないと、そればかりを考えた。
 寒い。
「……い…………さむ、い……」
 声に出して訴えると暗闇に落ちかけた意識が少しだけ引き戻される。自分はどうやら生きようとしているらしかった。何がそうさせたのか、うわごとのようにさむいと繰り返す。
 この人も寒いのなら、きっと、あの人も寒い。この人も待っているのなら、あの人も、待っているはず。目の前にいる人が待ち人のように思えて、キサラギは必死に手に力を込める。
 だから、行かなければ、灰色竜を追わなければならない。
 そして誰かはその言葉を待っていた。目を閉じる寸前、キサラギは誰かに抱き上げられるのを感じた。正面に身体が当たる。足の下に腕があり、幼い子が眠ったところを抱き上げられるのと同じように、抱きかかえられている。懐かしい声がした。
(姉さん……?)
 久しぶりに囁いたその名を最後に、キサラギは意識を失った。

    



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