紅、あるいは赤と影の黒の世界。勇ましく立ち向かうはずの男たちの統制は失われ、逃げ惑う声は炎と倒壊に掻き消された。探し人を呼ばわる声は炎の見せた幻のように、遠くなって消える。
 この時ひとつの街が消える。それを知っているのは、自分が街から離れた場所で見ていたから。その後、すべきことが分からなくて、今度は灰と黒で沈黙する、思い出の名残すらない街に戻ってくるからだ。
 だから今は信じられない気持ちで、夜の空に浮かぶ、翼を広げた破壊者の姿を見ている。

 ――焼き尽くすような灰色の咆哮を。

 身体が冷たいことで目が覚めた。耳がまだびりびりする感覚があり、キサラギは手探りで剣を探し、見つけて握りしめる。寝転がったままでは心もとなく、身体を起こして辺りを探る。かたかたと何かが鳴っている。側には熾火となったたき火の跡が、外から吹く風に静かに息をして赤く、日差しが強いのか、洞窟はほんのり明るかった。
(竜の声がした)
 身体が冷たいのは汗のせいだ。まるで子どもみたいに怯えていると思った時、再程から聞こえている細かい音が、握りしめている剣が揺れている音だと気付いた。自分自身が震えているのだ。
 このまま身体を小さくしてしまいたいのと、出て行かなければという意識がせめぎあう。竜が現れたのなら、狩らなければ、いや、逃げるべきなのか。
 あの人の名を呼びかけて、息を吐く。歯を食いしばり、心の中にも洩れないよう蓋をする。そうした後は顔を上げ、剣を掴むと立ち上がった。だが支えがないとうまく進めない。普段なら、急を要さないかぎり不用意に動いて竜の姿を確認したりしないのだが、行かなければならないと義務を感じた。
 だって、そこにいるのが灰色竜だったら。
 表まであともう少しだというのと、見計らったように男が現れるのが同じだった。這いつくばったキサラギを眉間いっぱいの皺で迎えた男は、キサラギの剣を奪い取ると、またキサラギを寝台に投げ飛ばした。しかし今度は優しい、前回と比べて、だったが。
 持ち帰ってきた様々な薬品を広げている男を見ながら、こいつは誰だろうと考えた。
 美貌の男というのは除外だ、見た目で人間が分かるはずない。そして、目撃した身体能力と身のこなしを思い浮かべた。かなり戦闘に慣れているのが分かる。黒竜に襲われたキサラギを助けたのだから。そしてこの世界でそういう人間は大抵竜狩りだった。二十代前半かなと思うくらいだから、所属を自由に変えられる無所属の竜狩りだろう、と見当をつける。
 男が手を伸ばし、キサラギの額に乱れかかった髪を掻き上げて、触れた。冷たい手だったのでぎゅっと目をつぶる。
「下がったか。……死ななかったわけだ」
 冷酷で皮肉げに笑った。そうすると綺麗な顔が歪んで、そこだけ神様が描くのを失敗したかのようになった。しかしすぐに消えた表情らしい表情を、キサラギは不思議な気持ちで記憶に留めた。
 男は淡々とキサラギの傷の具合を見ている。薬くらいもう自分で塗れと渡された軟膏を塗ったが、包帯を巻くのは男がした。見知らぬ人間に対する扱いにしては丁寧だったが、慈悲心に溢れているようには見えないその眉間に皺が奇妙で、キサラギは男を観察し続ける。
 傷に障りがない体勢に身体を動かして、男の顔がしっかり見えるようにしてから、尋ねた。
「質問、していいかな。何故、あなたはあそこに?」
「竜を狩るためだ。それ以外に何がある」
 つまらんことを、と言いたげだったがめげない。
「どこの街の竜狩りなの? あの黒竜を退かせたのは、あなただろう?」
「俺一人の役目だ。他など知らん」
「一人? 所属とかは?」
 答えはなかった。まさかと驚きを顔に出してしまう。竜狩りは一人で成せるものではない。竜は群れる。群れないのはあまりに強すぎる巨大竜の一部だけだ。そのどちらも人間一人で狩ることなど出来るはずがないのだ。
「完全に一人の竜狩りなんて聞いたことがない」
「実際にいる」
 口調に滲む、うるさいという態度に気付かないふりをする。信じられないのだから仕方がないだろう。
「そうなって、何年くらいなの?」
「力が有り余っているようだな、お前」
「聞きたいことがあるんだ。灰色竜の話を聞いたこと、ないか」
 銀色の目が細くなって思考の光を灯す。聞いたことがあるのだと気付いたキサラギは、焦燥のあまり男の袖を強く引き寄せた。
「聞いたことあるんだな!? 教えてほしい、灰色竜を追ってるんだ、私は」
「離せ」
 冷たい声に振り払われて、キサラギは手を離した。だが、それで諦めたわけではない。
「あなたは黒竜を追ってるとみた。私のいる街は竜狩りの街だ。竜の情報集まる。街を自由に出入りできるようにするから、灰色竜の情報を教えてほしい」
 頼む、と声はか細く消える。
 そうして、答えが返らないことで、自分がひどく弱っているのを自覚した。泣きそうになるなどもってのほかだし、手当の礼も言っていないのに求めるだけ求めるなんて自分勝手だ。腕で目を覆い、冷静さを探す。
 ごめんなさいと言いかけた時に、その言葉はあった。
「灰色竜は」
 男が起こした、少しずつ燃え始める火の音に混じって聞こえた。
「一年ほど前に南方へ向かったのを見た。俺が最後に見たのはキズ山脈に飛来していく姿だった。俺一人だったから信憑性を求められても知らん」
 南、と呟く。キズ山脈。草原地帯と王国地方を分ける山脈。険しく、竜の住処と化している場所だ。男が満足したかと問うようにこちらを見て、キサラギは慌てて口を開く。
「あ、ありが――」
「等価をもらおう」
 しかし男が求めたために、礼の言葉は尻切れになる。口をつぐみながら、キサラギは右腕の腕輪を外した。左と対称になっている、竜狩りには貴重な装飾品だ。
「これを。二本あるうちに一本だってみんな知ってる。これを見せて入るといい。私のいる街はセノオっていう」
 例え街を訪れることがなくとも、金に換えることができる。そういう意味を込めて腕輪にした。
「私はキサラギ。竜狩りだ」
 言った後、注がれた視線に心が跳ねる。疑惑を感じられていると、肌で感じる。キサラギは喉で震えている音の固まりを意識して。
「セン」
 彼が言った瞬間に緊張が解けた。気付かれないようにどっと息を吐く。
 何故あんな目を向けられたのか分からなかった。これまで誰にも、名乗りでそんな目を向けられたことがないのに。
 音の固まりが底へ沈んでいく。それはたった五年名乗った、両親につけられた名前。
 だがその名を名乗ることはもうしない。それは、何も出来なかった五歳の幼児の名前だ。竜狩りの名ではない。あんな夢を見たから、銀の目に錯覚を覚えたのだ。捨てた名前を口にしようとしたことに少しだけ驚きつつも、呼吸を整えた。
「あの……」
 センが目だけを向ける。
「……ありがとう」
 礼はきちんと言うと決めている。だがおかしな顔をされたので、内心でむっとしつつも仕方ないと笑って毛布にくるまった。

   *

 身体をなまらせたくないと思い、センがいない隙を狙って洞窟から外に出て、岩場を上り下りしたり、平らな岩の上で剣を振ったり、といったことが出来るようになった。後もう少しと思ったところでセンが戻ってきて、引きずられて寝台に放り投げられるのだが、その嫌そうな顔を見るのが楽しみになってきて、何度も繰り返すようになった。
 センはふらっと現れて、薬と食事を持ってくる。食は、その辺りで獲ったらしい野うさぎや鶏や羊だったりした。意外だったのは道具があまり揃っていないのに彼の食事がなかなか美味なことだった。しかし美味しいと言われても何の感慨もないらしく、黙って食えと一瞥されるのだ。だがそれでも食事には非常に満足していたので、作ってもらう度に美味しいを連発していた。
 しかし会話らしい会話はなかった。喋っても問答無用でなかったことにするのがセンだったのだ。
 セノオの竜狩りたちは、黒竜がノグを離れたことを知ると追っていったらしく、キサラギを見つけることはなかった。恐らくあちらでは生死不明という名の死亡と認識されているに違いない。戻らなければと思うものの、世から離れ見知らぬ男が通ってくるだけの隠遁生活のような日々を送っていると、自分の澱みが消えていくような気がして離れがたいのだった。
 だって空が広い。ノグ山の高いところは、空に近いのだ。空気は水のにおいを含んで冷たいが、その冷気は空の青を強調しているようで、遠いところへ行ける、空に手が届くと、見果てぬ場所まで広がっていける気がした。
 ただ、天気が変わりやすく、降る雨は、空が忘れさせようとする記憶を呼び覚ました。灰色の空、白い雨、黒い残骸、亡き故郷の姿を夢にまで。追わなければならない竜の声を幻と聞く。いやな汗をかいて目覚めるのもしばしばだった。
 しかし雨の夜、目を覚ませばいつも火の側にセンがいた。炎をじっと見つめる銀灰色の瞳は、その時ずっと穏やかなものに見えて、しかし深く自身の中に沈んでいるのが分かって声をかけづらいのだった。一人ではないことにキサラギは安堵しながら少しだけ、思った。もっと、話が出来ればいいのだけれど。
 今日は、晴れの心地よい空気を吸って、だいぶと慣れた岩場を越えていく。汗をかいた額に風を受け、ごろりと石舞台に転がる幸せな時を過ごした。
 その一部を共有しているセンは一体何者なのかを考えてみる。まったく分からないというのが正直な気持ちだ。彼より輝きの少ない雲の白。でも雲はあんなに明るいのに、センが身にまとうのは陰鬱な気配の光だ。
 彼は口を開くことが少なく、ただこちらの快癒を待っているように思えた。近隣の村人にキサラギのことを知らせることはなく、自分がしなければならないことと義務を感じているように、キサラギを看にやって来る。それは奇妙な執着だった。だが何を求められているのか。
(恋愛の可能性は……ないな)
 かなり面倒そうな目を向けられていると自覚はあるので否定しておく。いやそうな顔になると非常に記憶に残る顔になるので、すぐにその顔を思い浮かべることができた。
(他には……食べる、とか?)
 それこそ笑ってしまう。人間を食す人間など聞いたことがない。
 考えるのにも飽きた。そろそろセンが見つけにくいようなところで素振りでもしよう。
 重たい振動を足に感じたのはその時だった。
 足下が陰る。まさか、という思いと、馬鹿だ、という罵倒を心が叫ぶ。背筋に汗が伝い、やがて頭の中が罵倒だらけになった。
 馬鹿だ。馬鹿すぎる。いくらなまっているからといって、何故これほど巨大なものの気配に気付かない。
 戦慄して振り返った先に、黒い鱗で囲まれた金の眼が爛々と獲物を狙っていた。
 次の瞬間、落ちることを恐れずに前へ跳んだのは上出来だった。黒竜が空を噛み唸り声を上げる。岩場に頭を打たないよう身を小さくして転がったものの、いつものように受け身が取れず横向きに止まる。手をついた瞬間、腹部が引き攣ったようになり、一瞬歯を食いしばって走り出す。
 岩だらけで隠れるところはいくつも見つかる。だがこの竜が相手では岩とともに押しつぶされる可能性があった。横穴や縦穴を探し、迫り来る巨体からひたすら逃げた。
 体力が落ちている。言い訳にはならない。ぎりぎりと自身の愚かさに歯を噛んだ。いくら病み上がりでも、地形の確認だけは怠ってはいけなかったのだ。それをただふらふらと歩いていただけだなんて。
 すべきことが脳裏をよぎっていく。だがどれも今は遅い。握った剣だけがかろうじて竜狩りの誇りを繋ぎ止めているだけで、キサラギに出来ることは何もなかった。
 ――だが本当にそうか?
 破壊された礫を浴びて、体勢を崩して叩き付けられながら、キサラギは剣の鞘を払う。
 鞘を捨てる。刀身は特殊鉱石の白。磨かずに久しいはずなのに光っているのは。
 白い影が浮かぶ。彼が磨いたのだ。
(何のために?)
 疑問は一瞬で掻き消えた。黒竜が、獲物が動きを止めたことに不審を抱いて足を止める。その一挙一動を見逃さぬよう、頭を空にして身体を低くして剣を構えた。せめて一太刀。そうすれば誇りは守られる。
 キサラギは竜狩りの名。だから竜に立ち向かう。
(私は竜狩りだ)
 黒竜が獲物に恐怖を望んで咆哮した。キサラギは生臭い息に目も閉じず、更に足元と手に力を込める。
 踏み込んだ、その一歩に。
 光が落ちた。
「――!?」
 再び地響き。黒竜が苦悶の声を上げて飛び離れる。
 光は黒竜がいた場所に落ち、爆発するようにして竜の形を現した。
 キサラギは言葉を無くす。竜が二頭、黒竜と、もう一頭は、銀のたてがみと鱗を持つ白い竜だった。
 恨みの声を上げた黒竜は、空気を震わせるほどの強い憎悪を白竜に向け、しかし後ずさりすると翼を広げた。黒い影が広がり、風が起こって吹き飛ばされそうになる。
 白竜は無言で消えていく同族を見送った。
 憐憫と、哀切。銀色の瞳は胸の痛みを覚えるほどの、竜には見たことがない切ない目をしていた。
 やがて、白竜は光を散らし始めた。ぎょっとしていると竜の姿は次第に透き通り、光の固まりが生まれて縮小していく。そうしてキサラギから少し離れたところで縦に長い固まりになると、一人の男の姿を作った。
「気配を残しすぎた。移動するぞ」
 伸ばされたて、触れようとしたその手に、キサラギは反射的に飛び退いた。
 何故。
「あんた――竜人……!?」
 人間と竜の姿を取れる竜。人間とは言えない、狩らなければならない竜。
 男、センはいつものようにそれがどうしたとキサラギを見下ろしてくる。その変わらない態度は恐ろしく、咄嗟に構えた刃がきらりと陽を弾く。
「触らないで。私は竜狩りだ」
 剣先を逸らさずに言えば、センは不可解なものを見る目をする。何故、そんな目をされるのか分からない。
 頭に血が上りすぎたのか目眩がして膝を突いてしまう。
「来るな!」
 近付く気配を感じ取って叫ぶ。
「これ以上近付けば斬る」
 相手が足を止めるとキサラギはじりじり後ろへ下がり、そして一気に岩場を駆け下りる。洞窟に飛び込んですべての装備を身につけた後は、すぐに山を下りた。人間のいる場所へ、もう追ってこられない場所へと。
 走りながら傷の痛みを感じた。そのせいか涙が滲む。もう向こうからは見えないはずの森の中で少しだけ息を整えていると、いつの間にか唇を噛んでいた。
 悔しくて、痛くて、苦しくて、辛くて。何故やどうして、分からないといった言葉が心の中を飛び交っている。
 あれは竜人だ。キサラギが狩らなければならない竜。
 キサラギは、どんな異形と心を通わせても、竜人だけは許してはならないのだ。
 それなのに少しでも安らぎを感じるようになっていた自分が、とても許せたものではなかった。優しくないのに優しくされたことが浮かんで、ひどく呼吸が苦しい。逃げている自分が分からない、だって、狩らなければならないのなら、あの場で剣を振りかぶればよかったのに。
 竜人は許せない。
 でも思い浮かぶのは、雨音の夜の横顔。その時思った、近付きたいという思い。
 どうすればいいのか分からない。逃げるしかなかった。キサラギは再び剣を握りしめ、走り出す。そうすれば、もう考えなくていい。もう二度と会うことはないのだから。

    



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