港は、昨日より静かだった。主立った者たちが闘技場に行ってしまったためで、残されているのは、闘技場に行くための身分も金も持たない、抱えた不満をお互いに吐き出すしかない労働者だった。日差しを受けて、むき出した腕に汗が浮く。何度も絞った布を額に巻いて汗を止めながら、今頃盛り上がっているであろう闘技場の方角を眺めやった。
「俺も見に行きたかったなあ。久しぶりの剣闘なのに」
「大公の騎士の試合は、毎回同じような展開でつまらんもんな。足か腕を切って、嬲るだけだしな」
 あの龍王国の姫の、新しい騎士が戦うという。まだ細っこい子どもだそうだ。相手は姫の命を狙った男だというが、すぐに決着がつくだろうとの前評判だった。
 男たちは、荷を積みながら、息を吐くように世間話をする。
「草原の人間だとか、奴隷だとか、いろんな噂が回ってたな。それで思い出したけど、表街の住人どもがひそひそしてたぜ。なんか、変なにおいがするとか」
「におい?」
「あちこち探し回ってみたら、道や壁なんかが汚されてたらしい。動物の血だろうっつってたけどな。それで、その騎士が、変なまじないをかけたんじゃねえか、とかって。その血の痕は、港から、闘技場の方へ向かってったらしいぜ?」
「や、やめろよ。そういうの俺、嫌いなんだよ」
 がらがら声で男は笑った。
「ははっ、だったら首都には近づかねえことだな。呪いだのまじないだのってのは、あそこじゃあありふれたもんだっていうからな」
 そこで言葉を切った男たちは、ふと、遠くで誰かが何かを騒いでいるのを聞いた。現在、港にはいくつかの船が停泊しているが、彼らの間では、その船が停泊しているときは絶対に近づくな、と厳命されるものが一隻あり、どうやら、騒ぎはその方から聞こえてくる。
 いわゆる『やばいブツ』が積まれているらしい、というのは有名だ。そのために、物々しい警備が張り付いている。彼らは水夫や港の者を同じ人間と見てはいないようだったので、誰も近づこうとしなかった。そしてどうやら、それは助けに関してもそうらしい。周囲の者も騒動に気づいているが、そちらを見るだけで誰かに知らせたり、駆けつけようという気配はない。
 どん、と大音が響いた。波が揺れる。
 火が見えた。
「……ちょっと、やばそうだな」
 ――キシャアアアアアッ!
 奇妙な叫び声に、耳にした者が異変を感じて青ざめる。
「……何かくる」
 一人が呟いた、その視線の先から、ものすごい勢いで水のようなものが迫る。一直線に、染み渡るように。誰かが息を飲み、叫んだ。
「なんだ、ありゃあ!?」
 ――赤子ほどの、蜥蜴の群れ。牙をむき出し、ぶつかりあって鳴きながら、何かを目指して走ってくる。
 彼らは急いで船に上がり、橋桁を外して海の上に逃げ込んだ。間に合わなかった者は悲鳴をあげて海に落ちる。
 だが、その生き物たちは港の者には目もくれず、街の方へと走り去っていく。
 どうなってる、という呆然とした呟きがあちこちで漏れ、やがて数人が、武器を手に街へと走っていった。


   *


 竜狩りになるとき、最初に教えられること。
 それは、逃げることだ。
 竜の種類は様々あれど、手に負えないと判断する能力を身につけるよう、最初に訓練される。巨大竜と呼ばれる、人を丸呑みにできるような巨体は準備をして数人がかりで狩るし、蜥蜴が少し大きくなった程度の小竜を狩るのはそれよりも簡単だが、草原において竜はいつ何時現れるか分かったものではなかった。準備も武器もない状態で遭遇した場合、最も有効な手段は逃げることだった。
 名を上げようとか、見返してやろうといった欲を、竜どもは簡単に喰らう。腕一本で済めばまだいい。自分だけなら。それが他の誰かに及ぶようなことは、断じて避けるべきだ。
 自身の力を知り、相手の能力を測る訓練。特にキサラギを鍛えた養父イサイの徹底ぶりは、他の者たちが制止することもあったほど激しいものだった、らしい。キサラギ自身は、それが自分の人生のすべてだと思っていたので、食らいついていくのに必死だった。そのおかげで、キサラギは同年代の中で真っ先に竜狩りとして認められ、性別も関係なく戦士として扱われた。
 そしてイサイという師が器用だったのは、谷に突き落とすようにして痛めつけ鍛え上げたキサラギに、竜狩りとしての誇りをも植え付け、育てたことに現れている。
 だから、時々、思う。
 誇りと死は、密接なものかもしれない、と。

「……!」
 なりふり構わない攻撃は、一つずつが重いが、洗練されているとは言い難い。エジェの目はどんどんときらめくが、同時に息が上がり、獣めいた動きになってきている。
 竜狩りの訓練で最も多いのは人と当たることだ。訓練中の子どもを竜の前にいきなり放り出すわけにはいかない。同年代の者や同じような技量の者と試合をすることで技術や勘を養っていくのだ。
 エジェの戦いぶりは、剣を持つ者の動きではあったが、ここ数日の監禁状態が身体に影響しているらしく、うまく体勢を取ることができないようだ。足払いをかけたらあっさり倒れこんだから、ますますキサラギは苦味を感じた。追い打ちをかけるように、絶叫めいた興奮の声が上がる。
(悪趣味な……)
 キサラギが相手を倒す気配を見せると、観客の声が増すのだ。もっとやれ、やってしまえ、と野次が飛ぶ。
 胸糞悪い。人が傷つく様が、そんなに楽しいか。
 がん、と剣がぶつかる。
 さすがは男の腕力というところだろうか。キサラギも、普通以上の剛力の持ち主だが、体当たりの勢いで剣を振られると、さすがに受けるのも疲れてくる。体調を万全にし、エジェの精神状態も落ち着いていたなら、もっと駆け引きの難しい戦いになっていたはずだ。多分、彼にはそれだけの素地がある。
 エジェは距離を取り、荒い息をしたまま、低く言った。
「……どうして本気を出さない」
 ほら、やっぱり分かってる。
「無礼は承知の上だ。ごめん。けど、待っていることがあって」
 キサラギは、背後の観客席でじっと座っている少女のことを思い浮かべた。
 避けた切っ先がキサラギの耳を掠める。それは、背後にいる少女にめがけられてもいる。
 ――あなたは自分の力を知っている。その力の使い方を知っている。あなたは自分のすべきことを理解している。その恐ろしさも。
(エルザ。あなたにその覚悟ができるのなら……)
 キサラギは、半歩、前へ踏み出した。受けて流していた攻撃を、反撃へと変じさせる。音楽でいうなら拍が変化し、その曲はキサラギが主導するものになった。
 ずれた拍に驚いたエジェは攻撃を受けることしかできない。
 鞭をしならせるようにして、キサラギは剣を振るう。慣れ親しみ、ともにやってきた剣だからこそ、こうして自由に動かすことができる。
 もしエジェが、彼自身の武器で戦うことがあったなら、こんな胸の悪い思いをすることもなかっただろうに。
 そう、キサラギは彼を殺せる。細心の注意を払って時間を作っているが、竜を狩るつもりで戦えば、一撃で落とせる。時間なんてかけない。考え事もしないし、ただ相手の命を奪うことを目的とした塊になる。
 けれどそれは望むところではない。
(動け、エルザ!)
 今、白い両手を握りしめている少女に、心の声で叫ぶ。
 彼女は騎士の在り方に疑問を抱いている。その戦いを嫌悪している。
 すべてを変えることはできない。けれど今、この瞬間、エルザリートはここにあるものを変化させることができるのだ。
 だからこそキサラギは剣を振るう。本気を出さない無礼を働き、とどめを刺さない臆病者のそしりを受けても、エルザリートに、動いてほしいから。
(エルザ。お願いだ。あなたのたった一言で、救われる命がある――!)

    



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