金色の鱗はくすんでしまっているが、動き、声どれをとっても感じられる重みは、若い竜人たちにはないものだ。敵を決して逃さず、この守護地を脅かそうとする者を許さない。静かな怒りが満ちている。
「金砂竜……」
 シャルガの声に呼ばれるようにして、砂の粒が波のように立った。細かなそれを払って現れる一頭の竜。黄金のからだ、金の目、砂漠が顕現したような姿は、雄々しく、美しい。
 その顎が、若い竜の首を捕らえた。そう思った時、キサラギの腹部が、まるでかき回されるように強烈な痛みを叫んだ。
「――っく!?」
 痛みで一瞬意識を失った。
 次の目を開いた時、状况は変化していた。
 金砂竜を貫く、白い光。
 言葉を失う人々の前で、竜が倒れていく。巨体が倒れた瞬間、統制されていた砂と大地が使い手を失い、暴れ狂うようにして嵐になった。キサラギは地に伏せ、その暴風に耐えた。
 手探りで前へ進む。
 石の礫にぶつかりながら、空気を求めて喘ぐ。斜めになった岩盤を登り、見晴らしのいいところに出ようとした。
 風の流れがそこだけ異なっていた。水の中から息を求めるようにして顔を出し、砂埃に包まれた下方を見つつ、周囲に視線を巡らせた時だった。
 人の気配を感じて振り向く。
 そして、頭の中が真っ白になった。
 明るい空を背に、砂漠の風に銀の髪がなびいている。
 この乾いた場所では、白く輝く銀色は、眩すぎる太陽の閃光と同じだった。見つめ過ぎると、目眩がして、何も考えられなくなってくる。
 相手もまた、思考を止めているようだった。銀の目が、大きく見開かれている。
(うっ……!)
 傷が疼き、声を殺してようやく、キサラギは我に返った。
 何度見つめても間違いなかった。髪は短くなっているが、着ているものは冷ややかな黒衣で、高いところから見下ろすところが、記憶にある彼そのままだった。
「……セン」
 意識があるのか、疑ったというのに。
「キサラギ」
 男は、名を呼んだ。何に侵されてもいないような静かな声だった。心臓を自ら握りしめた必死な声で絵、キサラギは叫びに似た声で呼びかけた。
「本当に、あんたなのか! 意識は。正気なのか!? 今、自分が何をしてるか、分かって……」
 そこまで言って、気付く。
 金砂竜を貫いた白い光、あれは――。
「離れろ!」
 背後からシャルガが叫び、キサラギの背は硬直した。
 振り向かずとも分かる。彼の目が警戒の色を浮かべ、キサラギの安否を気遣っていること。目の前のいる対象を敵とみなし、今にも剣を振り被ろうとしていることを。
「その男が金砂竜を攻撃した竜だ!」
 キサラギは呆然とその言葉を聞き、相手の顔にその事実があるかを確かめた。
 センは、微笑っていた。
 柔らかく、見たこともない穏やかな顔。その表情に、ああ、彼はどこか狂っているのだと、背筋を冷たいものが這い上がってくる。
 そして彼は、キサラギに向かって手を差し出したのだった。
「来い」
 動けないキサラギに、センは更に言う。
「今度は、離れない」
「……っ!」
 心と身体が引き裂かれるように反応した。ここで揺さぶられてはならないと分かっているのに、目に涙が込み上げた。
 離れたくないと、全身が叫んでいる。
 その手を差し伸べられる時を、ずっと待っていた。お願いだから、もう置いて行かないで――。
 地面が揺れた。砂が再び動き出し、一箇所に集まっていく。砂漠の竜の声が空に放たれた。地響きのようなその声は、キサラギを引き止める。
『共に墜ちてはならない……』
 キサラギは、ぎっと唇を噛んだ。
「セン!」
 自分のためだけに差し出された手を無視して怒鳴る。
「ルブリネルクを離れろ! そこはあんたの場所じゃない。あんたの力を、誰かに利用されてるってこと、分からないわけじゃないだろう!?」
 こんなに声を枯らしているのに、届いていないと感じるのは何故なのか。
 太陽の光が肌を焼き、視界を眩ませて、センの姿が見えないような気さえしてくる。
「セン……!」
「ずっと、探していた。この、忌まわしい血から逃れる方法を」
 センの声もまた、どこか遠くに投げかけられている。
「――永遠は必要か?」
 そうは思わない、とすでに彼は答えを持っていた。
「欲しければやろう。俺には必要ない。生きたければ永遠に生きればいい。勝手に生きていけ。俺を、……俺を、巻き込むな!」
 悲鳴のようにセンは叫んだ。顔を覆い、呻く。
「だがその俺が! 永遠なんてくだらないものを生きなければならない! 戻れるならば戻りたい、しかしそれは叶えられないと分かっていた。そして、同じ望みを抱く者たちがいることを知っていた。彼らを殺してやることで、この叶わない望みから楽にしてやれるのではないかと、そう、思った……」
『その行いが彼の位を上げることになった』
 金砂竜の声が聞こえる。
『やがて彼は柱の資格を持つ竜になった。しかし、呪いを断つには至らなかった。彼は、最後に約することを拒んだ……』
 かつて愛した少女――黒い竜となって憎み合った二人を、キサラギは知っている。
 手の覆いを外し、光る目が顔を歪めるキサラギを捉える。
「……そこに、お前が現れた」
(なんて顔をするんだ……)
 一瞬、目が涙で濡れているのかと思った。
 まるで、縋るような目。
「『許せ』と言った。ランカを。俺自身を。お前は『許す』と言った。……生きていろと、願った」
 キサラギは頷いた。
「うん。言った」
 何かを認める時、それを理解する時、まず最初にそれを許さなければならないというのが、死んだ姉がキサラギに残した思いだったからだ。
 今まで、竜人を憎む気持ちがキサラギを生かしてきた。人を襲い続ける姉を狩り、そして竜人を狩ることで、竜に狂わされる人を助けようと思った。
 そして、センとの出会いは、その行動の続きにある道を教えてくれた。
 許す。その行為で、途切れたはずの未来が始まる。キサラギが、センを追って草原を出たように。
「それでも俺は、許されない」
 足場になっていた岩が、ひび割れる。
 再び大地が鳴動する。今度は空も唸っていた。どこかからか呼び集められた黒雲が、凍れる風とともに襲いかかる。軋んだ声が響き渡る。
「お前の存在は俺を掻き乱す。連れて行って殺すしかない。それが俺の安息だ――だから来い、キサラギ!」
 震える。
 名を呼ばれるだけで、魂が震える。
 それを約するということなら、お互いを絡め取り縛め合うことならば、竜約とは愛と憎しみだった。
(そう、私はキサラギ。――竜狩りのキサラギ)
 竜の血によって不幸にされるものがあってはならない。
 ゆえに、剣を抜き放つ。
「――お前を狩るぞ、セン。私は、狂った竜を狩る!」
 センが浮かべた笑みは、獰猛なのに恍惚としていた。瞳は異質な光を放ち、剣を握るキサラギを愛おしいもののように見つめている。強さを増していく黒衣をはためかせる壮絶に美しい男のその姿は、世界に滅びをもたらす魔性そのものだった。
『離れろ、キサラギ!』
 声と同時に何かが迫るのを感じ、キサラギは岩場を蹴った。その目前をセンの刃が薙ぐのと、頭上から力の塊が降るのが同時だった。センの攻撃を彼ごと叩き落とそうとした力の余波は、跳んだキサラギの身体を吹き飛ばす。そのまま地面にぶつかるところを、下に集まっていたシャルガたちに助けられた。
「こっちよ!」
 再び声がして、見ればシェンナが手を振っている。その周囲には、どこから現れたのか、彼女と同じ被り物をした男女が集まっている。
「シェンナ」
「ごめんなさい、キサラギ。ひとまず彼を追い払います」
 ずっとやりとりを見ていたのだろう、悔しげに唇を結ぶ。
「まさか、また約者を拒絶するなんて……」
 仰いだ先で、四頭の竜がもつれあっている。その内、若い二頭は早々にそこから離脱し、傷だらけの姿で飛び立った。
 砂の舞い上がる中、金砂竜と白銀竜が、凄まじい声を上げながら、相手を押さえつけようと牙を剥いている。金砂竜の鳴き声は地の底から響いて、ついた膝に振動ともなって感じ取れる。
 彼が砂漠の竜。この国を竜の脅威から守ってきた守護者。地の利と守護者としての矜持のせいだったのだろうか。金砂竜が、銀竜の首を捕らえた。
「っ!」
「獲った! ……あっ!?」
 だが、その瞬間、滞空していた竜たちが、金砂竜を踏みつけた。牙から逃れた銀竜は、なおも追おうとする金砂竜の顔を殴りつけると、翼を広げて一気に飛翔した。
 銀眼がキサラギを捕らえる。
 両翼の生み出す風が、空を掻き混ぜるようにして渦を作る。小さな竜巻が生まれたが、ぱん、と弾けて消えた。途端、キサラギの隣にいたシェンナが走り出した。
 彼女を追ったキサラギは砂埃の中を突き抜け、すぐに、膝をつくシェンナを見つけた。彼女は、白い影に両手を回し、震えていた。その細い肩をなだめるようにして叩く影は、次の瞬間、ゆっくりと崩れ落ちる。
 キサラギは走って駆けつけると、シェンナが支えきれなかった人影を抱え、ゆっくりと横たえた。
「ハルヴァ様……」
「すまない、シェンナ……老いぼれが、無理をするものではないね……」
 七十代くらいに見える、笑い皺のある優しげな風貌の老爺だった。しかし今その表情は苦悶に歪んでいる。頬には斜めに爪痕が、首の付け根は血に染まっている。キサラギはシェンナに断って、彼女の被り物を貰うと、その布をいくつかに裂いて、老爺の首元に当てて押さえつけた。
(出血が多い……)
「そう必死にならずともいい。しばらくすれば治癒する。私は人ではないから」
「痛いのは一緒です。手当てしなくていい理由にはなりません」
 老爺は微笑した。そして血に染まるキサラギの手に触れる。
「キサラギ。お前の竜は、恐らく、ほとんど正気に戻っている」
 シェンナが息を飲んだ。
「ハルヴァ様、でも、彼は」
「キサラギを前にした時、狂化の大半が剥がれた。それでも竜約を拒否したのは、彼が明確に、それを交わすことはできないと強く思っているからだ。その思い込みは狂化の名残によって、キサラギを殺したいと口走らせた」
 キサラギは、思わず笑っていた。そんな表情を見て、シェンナがぎくりとしている。
「ごめん。おかしいんじゃないんです」
 センのその言葉で、必死な目を思い出すのだ。
 焦がれるようだった。助けてほしいと叫ぶみたいだった。
「許されないと言っていました。自分を最後に許すのは自分でしかないのに。許されたいのに許されたくないって駄々をこねてる。私を殺して後悔するくせに、新しい願いと望みを抱くことに怯えてる」
 哀しい。胸が痛い。唇を結び、込み上げる思いを飲み込む。
 望んでいいんだよ。もう少し生きたいって思っていいんだよ。
 だってあんたは生きてるんだから。生きているものは、新しい願いを持つものななんだから。
「その、思い込みの原因となるものが王国にあるのだろう。彼の周りに、影が見える」
 ハルヴァは、キサラギの手当てを外し、身体を起こしながら言った。本人の言うように、首の出血は止まっていた。だが、相当に顔色が悪い。キサラギを押さえた手は冷たかった。体温が下がっているのだろう。今にも意識を失いそうに、震える息を吐いている。
「呪いを囁く者がいる。紅い女だ」
 紅い、と聞いて思い浮かべたのは紅妃だった。次に浮かんだのは赤く彩られた唇。赤い髪と金の目の妖艶な微笑。覚えがあった。センの近くに、紅の影を見たことがある。
 ふと、ハルヴァがキサラギの背後に目をやった。シャルガたち、そしてこの遺跡に住む人々が、こちらを遠巻きにして膝をついているのだ。彼らに優しい目を向けて、ハルヴァはキサラギに言った。
「彼が竜約を拒む原因を取り除かねばならない。そうすれば、彼と対話することができる。お前の言葉を聞くはずだ」
「聞きやしませんよ、あいつ」
 さすがの最古の竜でも、この言葉を理解することはできなかったらしい。首を傾げる老爺に、キサラギはにっこり、笑顔を浮かべた。
「だって思い込んでるんだから。だからそれは思い込みだって言うところから始めなくちゃいけないんです。必要なら殴りあうくらいのつもりでいなきゃあね」
 シェンナは絶句し、ハルヴァは吹き出した。そして、ほどほどにしておきなさい、と優しい忠告をくれた。

    



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