水の音がする。
 けれど、香りが違う。これは甘くて辛い、みずみずしい緑の――。
「っ!」
 はっと目を覚ましたキサラギは、自分が横たわっていたのが草の海だと気付き、言葉を失った。
 戯れて飛ぶ小鳥が、太陽の光に影になって見える。晴れ渡る空は明るく、息を吸い込むだけで震えるほど暖かい色をしていた。白い雲の流れる音、満ちていく緑の香り。
 草原だ。
 立ち上がる。足の裏の感触で、斜面がゆっくりと降っているのが分かった。周囲を見回していると、どこか見覚えのある景色だと感じる。
 ざわり、と心臓が打った。
(ここ、は……)
 振り返ったところに見えるもの。壁で囲った街。ひらめく旗は銀朱の色。そこに染め上げられた印は、失われた街の。
 焦ったキサラギはもう一度周辺を見渡し、そして、見つけた。
 草波の中に立っている人影。
 繰り返し追いかけて、たしなめられることを嬉しく思い、見上げた剣の柄と輝く指輪に憧れた。キサラギは走り、足をもつれさせながら、息を切らしながら叫んだ。
 そして、彼女は振り返る。
 呆れた顔をして、けれど柔らかい眼差しで、剣士の手でキサラギを抱く。耳をくすぐる、少し低くて甘い声。
「いけない子ね。こんなところまで来て」
「――姉さん、姉さん……!」
 腰にしがみつき、顔を埋めながら、止まらない涙に嗚咽する。歯の根が合わず、がたがたと震えながら、必死に訴えた。
「い、いやな夢を見たの……怖くて、怖くて……」
「どんな夢?」
「姉さんが、竜になって、キサラギノミヤを焼き尽くすんだ……私は一人ぼっちになって、姉さんを狩ろうと、竜狩りになって、それで……」
 ああ、なんて悪い夢だったのだろう。今抱きしめているこの人がいなくなってしまうなんて。草原の中に浮かぶ、あの街が消えてしまうなんて。夢の中だというのに恐怖は刻み付けられていて、会いたかったという気持ちが溢れて止まらない。
 ぐすぐすと鼻を鳴らしてしがみつく妹に、肩を抱いていた姉は、そっと呼びかけた。
「キサラギ。それは、本当に、夢なの?」
 何を言われたのか分からず、そっと見上げる。
 深い眼差し。自分と同じ漆黒の瞳が、幼い自分を見つめている。
「キサラギ」
 呼びかけられた瞬間、さっと血の気が引いた。
(姉さんは、私を、キサラギとは呼ばない)
 呼んだことはない。何故ならそれは、この人が灰色竜に変わり、故郷が滅び、養父に拾われた時に名乗るようになった名前だからだ。
 その時、いつの間にか低くなっていたキサラギの身長が伸び、髪も伸びて肩にかかった。まばたきをする一瞬に姉と同じ目線の高さになる。
 姉よりも、年を取った姿になる。
「……大きくなったわね。あの小さかった子が、こんなに」
「姉さん……これは、何。どうして私、姉さんと会えてるの? 何が起こったの……」
 ここにいるこの人はこんなにも暖かくて、魔性のものや悪の囁きには見えない。キサラギに、何かを教えるために現れたとしか思えなかった。
 頬を撫でていた姉は、目を伏せてゆっくりと頷いた。
「扉を開けたの。世界と世界をつなぐもの、時間と時間を重ねる場所に、あなたは扉を開けた。――灰色竜となった私がキサラギノミヤを襲った時と、あなたは同じことをしたの」
 街が炎と煙に包まれた、あの日。
 キサラギはたった一人で生き残った。誰一人として生き残りは見つからず、消え失せていた、と聞いた。
「あなたはあの時、扉を開けて、キサラギノミヤの住人たちを、あの街とは異なる場所に送った。ある者たちは過去へ飛び、竜狩りの術を古い世界に伝える役目を負った。またある者たちは別の世界へ行き、別の文明において新たな人生を生きることになった。他にも、同じ世界の遠い場所や、未来へ飛んだ者もいるでしょう。力が発動したのは、あなたが古い血筋の者だったからでしょうね。あの場所とあなたの血が、古い力を呼び覚まし、異界への扉を開けるに至った」
「そんな……」
 本当に自分が? と信じられない気持ちがある反面、そうかもしれないと思うところもあった。何かの因縁が自分につながっている感覚が、草原を離れてからずっと付いて離れなかった。目を回しそうになっているキサラギに、姉は言う。
「自覚があれば、危険な力にはならない。それはあなたを守るためのものだから」
 ならば、ミサトと戦い、塔から投げ出されたあの時。どこからか溢れ出した濁流が自分を飲み込んだ瞬間に、この世界への扉を開けたということなのか。
「じゃあ……やっぱり、姉さんはもう生きてはいないんだね……」
 優しい手のひらで何度もキサラギの髪をなでつけて、姉は笑っている。
「生きる、という概念が違うだけ。あなたの生きる世界にはいないけれど、私はこうしてここにいる。ここはあなたの心の中かもしれないし、死者の国と呼ばれるところかもしれない。それでも今こうしてあなたに会えているのは真実よ。キサラギ、あなたにもう一度会えて、本当に嬉しい。大きくなったあなたが、立派な竜狩りになっていることを、誇らしく思う」
 よく頑張ったわね、と。頬を包み込むようにしてくれる。
 キサラギの目に、熱い涙が溢れた。
 ずっとそう言ってもらいたかった。養父よりも上司よりも、いなくなってしまったこの人に、よくやったね、と褒めてもらいたかったのだ。
「……生きることは苦しい。それが、どんな長さでも。あなたがこれからもその道を行くのなら、どうか一人にならないで。傷つけ合うことがあっても、それを許せる人であり続けて」
 いたわりの言葉に涙を飲み込み、キサラギは言った。
「許すこと。認めること。……それが、姉さんの願いだね。私に、分かってほしかったことだね」
「ずっとそうであれ、というわけじゃないわ。許せないこともきっとある。でも、あなたならいつか、と思うから」
 うん、と頷く。分かってるよ。だって私は、ちっぽけな存在にすぎないから。
 だからこそ、理解できるものがたくさんある。
「――お話は、終わったかしら?」
 草を踏みしめ、新たに呼びかけてきたのは、少女だった。
 黒い髪をお下げにして、綺麗に結わえている。草原の田舎の方で着られる、代々受け継がれる丹念に刺繍を施した衣服を身にまとっていた。けれど、細すぎる。なんだか荒んだ育ちを感じさせる華奢さだ。
 それでも、瞳の強さが印象的な子だ。まだ幼いところが可愛らしいけれど、大人になればきっと綺麗になるだろうという片鱗があった。
「あまり長くここにいない方がいいわ。あなたの存在は、まだあちら側にあるでしょう」
「あなたは……」
「さあ、扉を開けて、早く戻って。そして私を連れて行って。彼とあのまま別れるなんて絶対嫌なの。世界を滅ぼしてほしいなんて一度も願っていないわ。私は、一緒に永遠を生きてほしいと言ったのよ」
 キサラギは、手を求める少女を目を丸くして見つめる。
「なあに、その顔は。見くびらないでもらいたいわね。私は死んでまで彼を縛るつもりはないのよ。縛られてくれるあの人は優しすぎるわ。もう別の願いを抱いているっていうのに、素直になれなくて、口にできないところも変わらないまま」
 キサラギの知らない彼のことを、そう言って笑う。
「それ、返してくれる?」
 指差された先は胸だった。そこにあるものをはっと押さえる。
 古い護符。センからの預かり物だ。元は、彼女のものだった。
 恐る恐る手渡すと、彼女はそれを首から下げて、にっこりと笑った。
「さあ、行きましょう」
 どこかで、扉の軋む音がする。そちらに身体が勝手に引き寄せられる。
 戻れ、と何かが命じていた。別れを惜しみ、手を伸ばしてすがろうとするキサラギに、姉は緩やかに手を振っていた。
「あなたが私を助けてくれた。あなたの力が、私に故郷の人々を殺させなかったの。おかげで、私は故郷の何もかもを壊したと思わないで済んだ。ありがとう。――エリコ」
「姉さん! 姉さん……」
「彼にも感謝を伝えて。約束を守ってくれてありがとうと。彼になら、あなたを託すことができる」
 身体が引かれていく。強い力が、キサラギを引き戻そうとしている。声が遠くなり、愛おしい人の姿が霞んでいってしまう。キサラギは枯れるほどの大声で呼びかけた。
「ありがとう! 私を守ってくれて、ありがとう、エリカ姉さん――」
 ああ。
 ああ、こんなにも。
 生きることは、こんなにも苦しい。自分自身の心の重さだ。
 目や頬を甲で拭う。乱暴にしたためにひりひりと痛んだ。けれどそんな痛みよりも、もっと叫びたいことがあった。
(走れ)
 風が吹いている。道を教えてくれる。
 走り出す。扉へ向けて。
(走れ)
 息が切れても涙が流れても。
(走れ、キサラギ!)

 そして、今度は、何もかもが真っ白になった。

    



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