「以前も君はいつもそうだった。そうしなければならないと思いながら、騎士であるというのに、相手を殺すことなく勝利しようとしていた。そして偶然に助けられてばかりいた。君は何を成した? 正義を振りかざして叫んでいただけではなかったか」
 耳を貸すな、とアリスが警告している。
 だが、真実はいつも、光となって厳しく現実を照らすのだ。
「取り戻したいと思うのなら、犠牲を払いたまえ。君が必要だと思う数の犠牲を」
 そして、彼は優しく囁きかける。目を細め、かつての自分を思い返しながら。
「私は、払ってきた。それだけの価値がエルザにはあった。その果てがこれだ。後悔などしない」
 君のあの男は、いったいどれだけの価値があるというのか……?
「――――」
 もう一度会うために。
 その約束を果たすためにここまで来た。もしセンが、何かに囚われ、道を見失い、苦しんでいるのなら、それを助けたいと思っただけ。
 だから本当は、王国の未来も、世界の行く末もキサラギにとっては別の問題で、二の次なのだ。
(王国よりも、人よりも、世界よりも、私は、センのためにここに来た)
 そして今、もしセンが囚われているというのなら。
 キサラギは剣を構え、その切っ先を彼らに向けた。それでいいというように、オーギュストは目を細めた優しい表情をした。
「センを返せ。彼を取り戻す」
「取り戻せると思うの? あの子はあなたではない、別の女を見ているのよ」
 眉をひそめる。知らないはずがないのに、それを弄ぶミサトに怒りが増した。キサラギの燃える感情を、紅い女は軽やかな笑い声で嘲る。
「あの子はずっと後悔していた。取り戻したいと思っていたわ。だから、その願いを叶えてあげたの……」
 全身が総毛立つ。
 彼の存在を近くに感じること。
 何かの気配がすぐそばで感じられること。
 センは――。
「センに……センに、何をした!?」
「殺した女の側に繋いであげただけよ。せっかくだから、その思いが強くなるよう、この呪われた土地と一緒にね!」
 哄笑が響き渡る。
「最後の仕上げよ。私の小さな竜の目の前に、あなたの死体をぶらさげてあげるわ。そうしたらきっと、あの子の悲しみがこの世界を塗りつぶしてくれるから……!」
 ごっ、と音を立てて風が起こる。ミサトが操る風が、彼女の紅のドレスの裾を荒々しく巻き上げた。紅い嵐の女。唇で弧を描き、その瞳を宝石のごとく輝かせて、暗い空をその色で彩る。
 踏みしめた細い足が竜の足に、そこから皮を脱ぐように姿が変わる。
 赤い鱗、蝙蝠のごとき翼は黒く、細身で小柄ではあったが、竜と人が共に生きる世であれば、その全身を古く高貴な赤だと賞賛されたかもしれない。
 けれど今は、狩るべき竜だ。
「キサラギを援護! 他の者は、オーギュスト王を捕らえろ!」
 闘技場とは比べものにならない狭い場所で、十数名が展開する。退路は一つしかない。だが、ミサトには翼がある。オーギュストを連れて空へ逃げられてはたまらないと、キサラギは誰よりも早く紅の竜に向かって踏み込んだ。
 剣が、爪で弾かれる。その刃が鳴り響かせるものに、常にはないものを感じ取った。
(何かが力を貸してくれている?)
 なんの変哲もない剣が硬度を増し、竜の爪に劣らぬものとなっている。刃の周囲に風のようなものを一枚まとったような。
(胸のあたりが熱い……?)
 だが考えている暇はない。竜の視界に入らないよう、周囲を回る。
 この狭い場所では、彼女は身体を反転させることが難しい。死角に入れば、攻撃はたやすい。そして、今は、専門家ではないが剣を使う仲間がいる。
 ミサトは、そんなわずらわしい攻撃を一掃しようと、身体を大きく振り、全員を薙ぎ倒す動きに出た。反応できなかった何人かが振り飛ばされ、鐘楼の淵へと転がされる。短い悲鳴が上がり、落下しかけた者もいた。地の利が悪いのは、こちらも同じだった。
 ぐるる、と竜が短く笑うように鳴く。
 そしてキサラギの腹目掛けて首を突き出した。剥かれた牙、あざ笑うかのような鳴き声に、キサラギはとっさに横に剣を構え、相手の口にそれを突っ込んだ。
 腹部に突き立てられるはずの牙は刃を噛み、軽く上顎に刺さったらしい。竜は悲鳴を上げ、呪わしい目つきをして、じりじりと下がった。包囲網を狭める騎士たちに向ける目が、ふと、嘲笑するものになった。
『お前たちは本当に、この世界が生きるに値すると思っているの? 勝利を手にしたとしても、お前たちの大事なものを犠牲に回る世界よ。すぐに墜落する空中の楼閣。そんな場所、さっさと捨てて、すべて平らにしてしまいなさいな』
 光が発生し、竜の姿が縮む。
 からん、と音を立てて剣が落ちた。口元から下を真っ赤に染めたミサトが、誰よりも鮮烈な色で身を染め、目を見開き笑っていた。
「この世界の仕組みは変わらない。生き物同士の繋がりすら、何かを犠牲にしなければならないこの世界。私たちは、どうあがいても、一人で生きることができない……世界の守護者すら、つがいでなければならないという」
 ごうごうと、世界が唸っている。あちこちで竜の吠え声が響いているかのようだ。
 荒れ狂う景色の中、戦いの気配と、血の匂いが充満しているというのに、静かだった。キサラギの心も、冷静になった。
「あなたはこの世界に何を願ったんだ。……何を、期待したんだ?」
 キサラギは知っている。
 思い知らされている。
「一人で生きていけるものなんていない。生まれた瞬間から決められていることだ。この世界で、心臓を抱えて、思いを持って生きているものたちは、みんな、誰かと繋がって、生きていく運命なんだ」
 一人で生きていけると、幼い頃はそう思っていた。そのための力をつけるのだと、腕を磨き、若くしていい腕をしていると言われることに驕ったこともある。自分らしく奔放に振る舞うことで、誰とも密接にならないよう、適度な距離を置いた。
 あなたはいつか出ていくわ、と言った少女が親友だった。
 彼女は、去っていくキサラギを認め、それでも友人だと思っていてくれた。
(ここまで生きるのに、どれだけの人が助けてくれただろう……)
 どれだけの数のものが、生きろ、と言ってくれたのか。
 それはきっと呪い。
 そして祝福。
 私たちは犠牲を払い、それでも、と足掻いて進んでいく。願いを抱き、怒り、憎悪し、なおも生き続ける。
「あなたはその仕組みを呪ってる……でも、それに生かされてきた私がいるんだ。ぶつかり合うこのことすら仕組みのひとつで、だから私は、この世界に生きていてもいいかなって思うんだよ」
 何故ならそれは、世界の与えた誓約。

「この世界にいるかぎり一人ぼっちにはならないっていう、決まりごとがあるから」

 その約束が、多くを生かす世界なのだ。
「生きることを許されて、私たちは生死をかける。自分の心のために。それが許される、この世界だから」
「投降しろ、紅妃」とアリスが呼びかける。
 すでにオーギュストは捕らえられ、縄打たれて膝をつかされていた。穏やかな表情で、競り合うキサラギとミサトを見ている。
「竜の仲間たちにも戦いをやめさせろ。たとえお前がこの国を壊しても、世界までは壊れない。そんなやわな世界だと思っているのなら、お前の認識違いだ。改めろ」
 キサラギは目を丸くし、アリスを振り返った。注目されていることに気付いた彼女はますます発奮して、顔を赤くしつつ「だからな!」と怒鳴る。
「世界がどうの、呪いがどうのと言っても、この世界は簡単には滅びんし、私たちもやすやすと死ねんようになってるんだ。教会の言う抑止力というやつだ。壊す勢力があれば、壊されないようにする勢力が必ず生み出される。仕組みがどうのと言い始めたら終わらんぞ。さっさと諦めて、折り合いをつけろ。長く生きるんならそれくらいできるだろうが」
「アリス……」
「余所見するな。警戒を怠るな!」
「……私、アリスのこと、かなり好きだ」
 はあ!? と声を荒げてアリスを笑い「ということみたいだから」とキサラギは、腰に帯びていたもう一本の剣を構えた。
「私は決めた。あなたも、そうだろう?」
 ミサトは微笑み、そして、表情を削ぎ落とした。
「ええ、そうよ。私は壊す。まず最初に――あなたを殺す」
 閃いた白刃、振りかぶられた竜の手。遅れて動いた戦士たち。
 その中で、押し殺した笑い声が起こったことに気付く者はいなかった。
 ミサトの攻撃は執拗にキサラギを狙い、その度に剣で押し返すことが続いた。早い動きの周囲が反応できず、後ろに下がってしまう。射手が矢を射かけるが、竜の腕に庇われて終わりだ。それどころか腕に動きに押し返されて、鐘楼の外へ追いやられそうになる。
「ああ、いいことを思いついたわ……」
 不意に、そう呟いたかと思うと、ミサトは素早い動きで戦士の一人を捕らえた。竜の膂力は並外れている。爪が食い込み、捕らえられた戦士はうめき声すらあげられないほど締めあげられる。
「この男を殺されたくなければ、キサラギ、ここから飛び降りなさい」
 一同は息を飲んだ。
「優しいあなたのことだもの。さして関わりの深くない相手でも、殺されるとなれば見過ごせないでしょう? 私の手で殺せないことが残念だけれど、どうも、私には今のあなたを殺せないようだし……」
 言って、ミサトの目が鋭さを帯びる。
 キサラギのまとう、何か。その誰かの力を忌々しく思っているようだ。
「ほら、早くしないと、次々に殺してしまうわよ?」
「竜に捕まるな! オーギュスト王を連れて、退避しろ!」
 退却を命じられた戦士たちが、ミサトの手が届かない場所へと下がる。オーギュストを連れて行こうとするが、彼は動かなかったので引きずろうとしている。
 キサラギはゆっくりと、鐘楼の縁へと足を向けた。「キサラギ!」とアリスが引き止めようと叫ぶ。
「……本当に、そういうところ、性格悪いよね、あなたは」
 ミサトは楽しげに笑う。
「年を重ねた女なんてこんなものよ。みんなこういう風にずるくなるの」
 それは、人外の手で今にも人をくびり殺そうとしている者とは思えないほど、艶やかで優しい言葉に響いた。
 キサラギは縁に足をかけ、暗い地上を見下ろした。
(セン。聞こえる? 私はここまで来たよ。あんたは、どこにいるの?)
 竜騎士となっていた時のように、何かに目を曇らされて、動けずにいるのだろうか。だったら、早くすくいあげてやらないと。
「……私が死んだら、あなたはどうするの、ミサト。この世界に呪いを放って、そのあとは」
 ミサトは、力が抜けたように微笑した。
「それは、あなたが考えることじゃないわ」
 それもそうか、と思いながら、想像せずにはいられなかった。
 竜に狂わされた者、その行く先は。
(きっと誰かに狩られるのだろう)
 彼女がユートピア・アレイアールであるなら、彼女もまた、竜に狂わされた者だった。その身を変えられ、もう、生きることに疲れている。何かを道連れにしたいという気持ちは、自身の憎しみと怒りが昇華されないことに由来する。それが終わったら、あとは消えるだけだろう。
「はっ、あぁぁっ!」
 その時、切り込んできたアリスは、しかしミサトのもう一方の手によって振り払われる。
「まだ諦めるな! まだ皆、生きている!」
 キサラギを押しとどめようとする彼女を、ミサトは憐れみの眼差しで見た。そして、人質を掴む手に力を込めていく。
 街の向こうで、雷光がひらめいた。
 風が吹くと、髪が伸びたことを思い出す。大事なものができて、剣とは違う別の強さがあることを知って、迷いながら進んできた、その道のりを思う。私はここまで来て、そして、どんどん、弱くなった。
「――覚悟がないと、あなたは言うかもしれない」
 キサラギの声を受けて、オーギュストが首をもたげる。
 ここは、生き残るための戦う国だ。命を奪い、自らも奪われる覚悟を強いられる場所だった。
 それでもどうか。
 離れた空の下で、手を祈りの形に組んでいる彼女に。
 風を感じる度に、不義理をした友人のことを考えてくれる彼女に、仲間たちに。
 誇れる自分であらねばならない。
「私は、竜狩り。人を守るために命を使う、竜狩り」
 獲物は竜。狩るべきは、命を脅かすもの。だから、人狩りはしない。
 そうなったら、人を手にかける覚悟よりも、自らの命を捨て去ることを選ぶ。
 それが、キサラギの持つ竜狩りとしての在り方だ。
「――竜でも人でも、竜人でもないものを狩る剣は、私にはない!」
 それは、彼女の弱い部分を突いたのか。
 ミサトが目を見開き、小娘、と叫んで人質を手放すと、素早く姿を変えてキサラギを狙った。
 キサラギは剣を構えたが、そこはすでに建物の縁だった。一撃目はかわした。だが二撃目に足元をすくわれ、その力に押し負ける。そして、ついに中空に押し出された、その時。
 凄まじい轟音が大地を包み込み、溢れ出した水が地表を飲み込む。古い建物は沈み、地盤が崩れて傾き、倒れる。
 言葉を失う者たちが飲み込まれゆく中、翼を持つミサトだけが飛び立とうとしたが、その足を掴む者があった。

「私が一人で死ぬとでも思ったのか」
「っ!」
「――驕るな、竜ども。この国は、私たち王国の民(にんげん)のものだ」
 瞳を輝かせた最後の王の、勝利宣言すらも飲み込んで、城は水の流れに押し負けて瓦解を始める。冷たく暗い水が首都を飲み込んでいく中、黒雲の間から雨が降り始めた。
 そして、長くも短い、静寂の後――それは、現れる。

    



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