――きりきりと硝子を掻くような音が混じっている。
 ランジュ公爵夫人の声が、扉の向こうからしている。夫に向けて、何かを詰っている。その声を聞いたとき、エルザリートは瞬時に、自分のことを言っているのだと理解した。例えその内容が分からなくても。
 公爵夫人の声に嗚咽が混じり始める。やがて大声で泣き始め、すすり泣きに変わり、途絶えた。
 それが、父母についての最初の記憶。
 次の記憶は、母の「生まれなければよかったのに」という憎悪の表情だ。
 美貌で鳴らした顔を、魔物の面のように醜悪に歪め、唾を吐き捨てるがごとくその台詞を用いた。「王子様がお嬢様をお召しです」と公爵夫妻に向けて誇らしげに告げたはずの王宮の使者は、公爵夫人の変貌に顔を白くして立ち尽くしていた。
 そして、最後の記憶は、倒れ伏した母の姿。
 絨毯に溢れた、葡萄酒と吐瀉物と血が、夜闇を照らす蝋燭の火に、ぎらぎらと輝いていた。毒を盛られたのだと誰かが言って、誰がやったのだと騒ぎになり、公爵は、いつか見た王宮の使者と同じ顔色をして、エルザリートを凝視していた。
(違う。わたくしがやったんじゃない)
 年々公爵夫人の酒量が増えていたのは周知の事実だった。彼女の妹は王妃として龍王に召し上げられていたが、時が経つにつれて対立が深まり、お互いを悪しざまに罵っていたという。王妃と公爵夫人という立場、産んだ子が男と女、そんな違いから、公爵夫人は追い詰められており、その頃、就寝前には、必ず酒を飲んでいた。
 実行犯は屋敷の者だったが、命じることは誰にでもできる。酒量に従って、公爵夫人は気難しくなり、明らかに精神を病みつつあったのだ。仰がなければならない王家、特に王妃について、悪し様に言うのを屋敷の誰もが聞いたことがあるはずだった。だから奥様は怒りに触れたのだと、密やかに囁かれていた。
 しかし、その言い争い相手だった王妃もまた、同じ日に亡くなっていた。死因もまた、公爵夫人と同じ毒殺だったという。これは、龍王が王妃を疎んじたせいだと言われていたが、立場上、公然の秘密としてほとんどの者が口をつぐんだ。
 ――静まり返った暗闇の中で、ずっと立ち尽くしているような気がしていた。
 細く開いた闇の向こうには、死んでいる母がいる。
 彼女が死んだあの日から、この世界をずっと遠くから見ている。
(違う。わたくしがやったんじゃない)
 けれどそれがもう通用しない偽証であることを、エルザリートは知っている。
 最初から、知っていた。


「……ん……」
 驚いたことに、無事だった。目を開いて最初に感じたのは、冷え切った両手足の冷たさだったのだ。身じろぎすると、身体の下で小さなものが崩れる音がした。
 冷たい手のひらにはごみや訳のわからない何かの屑が埋まって跡になっていたが、寒さのあまり痛みが弱い。けれど吐いた息が暖かいので笑ってしまうと、少し離れたところで何かが飛び上がった。
「……だれ」
 険しく響いた呟きは、そこに座り込んでいた子どもを竦み上がらせた。
 十歳にも満たないだろう。日に焼けた浅黒い肌、骨に皮が付いているだけの手足をしている。薄着だが首には粗末な布で襟巻きをしており、裸足の足は白くなった分厚い皮が覆っていた。少年よりも短くした髪と、瞳は黒々と輝いている。今はエルザリートに怯えた目を向けているが、それでもそこから逃げ出さないのは、こちらに何か用があるということだろう。
「……何。お前にやるものなんて何一つなくってよ」
 子どもは、ますます目を大きくした。
「………………だ」
「……なんですって?」
「お姫さまだ」
 何を言い出すのだろう、と眉をひそめた瞬間だった。
「お姫さまだ! みんな! お姫さまだよ!」
 その声に、無数のものが急速に立ち上がった。
(なにっ!?)
 ぎょっと硬直したエルザリートの周りに、立ち上がったものたちがわらわらと近付いてくる。それは、みな、子どもたちだった。着ているものも、姿形も似たようなものだ。個性といえば身につけているものや傷痕の有無、そして年齢だった。手を引かなければ座り込んでしまうような幼子も混じっている。
 そして、誰もかれもが、丸い大きな瞳で、エルザリートを凝視している。
「お姫さまだ」
「金の髪。きらきら。綺麗」
「なっ……お前たち、いったい何なの? わたくしはお姫様なんかじゃ……」
「『わたくし』」
「『わたくし』だって」
 波のようにその言葉が伝わって繰り返される。エルザリートは、ぐっと顎を引いた。
「お姫さま。どうしてこんなところにいるの?」
「…………」
 答えたとしても、理解はされまい。何も持たない自身の弱さを実感して、唇を噛む。握った自分の拳は冷たく、肩が寒くて震えた。
 自分で選んだことなのに、後悔し始めているなんて、愚かだ。
 じっとそうしているエルザリートに、最初の子どもが言った。
「行くところないの? うちにくる?」
 ほら、とかさついた手がエルザリートの手を引く。こんなに幼いのに、柔らかい肌とはほと遠い感触で、こみ上げた憐れみと恐怖に似た悲しみに、彼女の手を振り払う。
 滑る足元、裸足の足に突き刺さる痛みに耐えて、そこから立ち去ろうとする。
 この手にすがってはいけない。自分などよりずっと細くて哀れな者たちに、それを踏みつけていた自分が助けられるわけには。
「っ!?」
 しかし、素早く伸びた手に縫いとめられる。
「な……お離しなさい! お前たちは、わたくしが何をしてきたのか知らないから、」
「死にたいの?」
 少女の、そのたった一声に、エルザリートは言葉を飲んだ。
 無垢な瞳。黒い水晶のような透明さと、そこからさらに見通せないほどの深みが宿っている。
「死にたいなら、そうすればいいよ。そうじゃないなら、うちにおいでよ。生きたいなら、なんでも利用すればいいんだよ」
 ――いつか、そう言った騎士がいた。
 異国の風を連れた、柔らかくて強い心を持っていた少女だった。正しいことばかりを声高に叫んで、周囲に疎まれていた。けれど、だからこそ、いつも木漏れ日のような光を持っていた。
「うちにきてくれたほうが、あたしたちは助かるんだ。だって、いっぱいくっついて寝たほうがあったかいんだもん」
 エルザリートは顔を覆った。
 惨めだった。有り難かった。まだ差し出される手があるのだということが、罪深く、悔しかった。こんな、小さな子どもの方が、生きるということをよく知っている。
 ――必ず会おうと言ったのは、半分は嘘。
 生きられるとは思っていなかった。ただ、そう言わなければ進んでいくことができなかった。どんなに仮面を分厚くしようとも、自分の本質は、孤独な一人の人間だったから。
「行こう、お姫さま。布で靴、つくろう。でなきゃ、ここでくず拾いはできないよ」
「お姫さまはやめて。わたくしは……」
 言って、首を振る。
「わたしは、エルザよ。あなたの名前は?」
「ミリュアだよ。よろしくね、エルザ」
 差し出された手を握る。胸の中で、エルザリートは呼びかけた。
(キサラギ――わたしは、もしかしたら本当に、もう少しだけ生きられるかもしれないわ)

    



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