誓いの環と福音の記憶   
    


 結婚を申し込む場合、男性は女性の家族の元へ挨拶に行く。家族がない場合、保護者、後見人が代役を務める。もし代役が立てられない場合は省略してもよい。
 結婚の許しが出た後、男性は自身と結婚相手のための衣装、住居等をすべて準備する。この準備は、男性の知人や伝手等を使って行われる。この間、女性は式を迎えるために身辺を片付け、男性側の家族ならびに関係者と交流を持つ。
 準備が整うと、日取りが決められ、結婚式を迎える。式を執り行うのは神職、もしくは立場のある村や街の長だ。
 誓約が無事に終了すると、宴が始まる。そうして、その夜、結婚した二人は初めて夫婦となるのだ。
 ――以上のような概略をセンに説明したキサラギは、ちらりと彼の顔を伺った。別段、照れている様子もなく「だったらまずはイサイに会おう」と淡々と言う。すべきことはする、というはっきりした態度だが、キサラギは怯んだ。そしてそれを、センはしっかり見ていた。
「……おい」
「いや、違う。ごめん。イサイ父さんは私たちのこと、分かってるとは思うんだけど、やっぱり何て言われるか怖くてさ……」
 結婚式、するか。
 なんてことを話したのが数日前。そうして、いくつか街や村を回ってセノオに戻るところだった。結婚は草原でのやり方でやろうということになり、説明を求められて、話したのが先のようなことだ。
 しかし、キサラギには養父はいても女親はいなかったし、気にかけてくれる街の女衆はいたけれど、選んだ結果とはいえ、やはり実の娘のようにまではかいがいしく世話をしてもらえなかった。だから、説明はざっくりになったし、いろいろと抜け落ちているところがあるだろう。
 だからこそ、イサイに結婚の許しを得て、その伝手を使って代理人を立てたり手伝いを頼んだりするのが一番なのだが、こと、センに関することで養父と話をするのに、キサラギは苦手意識があった。
(センも父さんも、めちゃくちゃ相手のことを意識してぴりぴりするんだよね……。それなのに積極的に関わるどころか、無視してるような雰囲気があるし……)
 縄張り意識、というやつだろうか。竜人であるセンと、人間ながらその竜の因子が強く出ているイサイは、互いに感じるものがあるのか、そんな状態なのだ。
「何と言われても、結婚しないという選択肢はない」
「それはそうなんだけど」
「お前はもうがきじゃない。許されないなら駆け落ちするだけだ。二人で生きていけるだけの力はある」
 さらりと、当然のようにセンが言うので。
 ふっ、とキサラギは肩が軽くなったのを感じた。
(そう、か。私、もう成人したんだっけ……)
 竜狩りとして、成人の証をもらった十七歳の時。
 あの時は、いつでも出ていけるなんて言いながら不安を抱えていたけれど、外に出たキサラギは、まあなんとかなるさと前を向いて歩いていけるだけの経験をしてきた。
 あの街を、狭いと思うなら、いつでも出て行ける。
 それでも戦うか。踏ん張るか。その選択をするかどうかを、自分で選ぶことができるようになった。歳をとるというのは、そういうことだった。
 キサラギは、センの左腕に自分の腕を絡めた。
「なんだ」
「……へへ。なんか、センでよかったなあって思ったから」
 センはちょっと黙って、腕に擦り寄せていたキサラギの頭をぽんぽんと叩いた。彼なりの甘やかしだと分かって、くすくすとキサラギは笑う。
 故郷の街の姿が、地平線の上に見え始めていた。

 竜狩りの仕事は以前のように簡単に命を落とすような激務ではなくなったが、街の警備や、依頼を受けて旅人の護衛を引き受けたり、用心棒をしたりと、それなりに忙しい。腕利きは指名されるので、名を上げるために鍛錬を欠かさない者も多い。
 そんな中で、隊をまとめる立場だった者は、今では派遣業務を請け負ったり道場を開いたりして、現場には出なくなった。イサイも、竜狩りの本部の詰所で、書類仕事を主にして、元竜狩りたちの相談に乗ることも多い仲裁役になっている。
 居場所を聞いたキサラギは、イサイが今日もその詰所にいると聞いてそちらへ向かった。渦を巻くような坂を登っていくと、いつの間にか鼓動が速くなって息が上がっていた。緊張のせいだ。
「おっ、キサラギ。お前帰ってたのか」
「ハガミ隊長」
 見慣れた顔に緊張が少し解ける。大柄なハガミは、もう隊長じゃねえよ、と笑ってキサラギの頭を撫でようとしたのに、不意に手を下ろした。
「どうしたんですか」
「いつまでもがき扱いできねえなあ、と思ってな。長は部屋にいるぞ」
 よく分からないけれどハガミはそのまま立ち去り、キサラギとセンはイサイのいる部屋の扉の前に立った。
 大きく息を吸い込み、腹に力を入れると、思い切って扉を叩く。
「どうぞ」という声が返る。
「……失礼します! キサラギです」
 机に広げていた書類から顔を上げて、イサイは微笑んだ。
「おかえりなさい。旅はどうでしたか。どこへ行っていたんです?」
 なんとなく世間話の流れになったのでほどほどにやり取りしていたが、キサラギの気持ちは逸っていた。隣で黙っているセンのことも気になっていたし、早く言わなければと気持ちも急く。心臓が飛び出しそうになってきた。
「……キサラギ? どうかしましたか? 落ち着かないようですが」
 今だ、とキサラギは拳を握った。
「あの、……今日は、お話があるんです」
 ぴん、と空気が張り詰めたのは、予測がついたからだと思う。イサイは微笑みの中に薄く研がれた鋭さを滲ませ、続きを促した。キサラギは覚悟を決め、口を開く。
 だがその前に、センが言った。
「草原の習いでは、結婚には親の許しが必要だと聞いた。キサラギと結婚するために、お前の許可をもらいたい」
 キサラギは大きく口を開けた。ここでセンが口を開くとは思わなかったし、きちんと事情を述べてイサイに要求できるとも思っていなかった。だから、センが口火を切ったことに目を剥いてしまった。
 対するイサイは、問いかける視線をキサラギに投げた。
「あ、っ……そ、そうなんです。私たち、結婚式を挙げようってことになって……それで、まずは父さんに許しをもらって、力を貸してもらえないかと……」
 歯切れが悪くなってしまうのに、キサラギは頭を掻き毟りたくなった。これが普段勇ましいことを言っている自分か。王国地方にいる友人たちに知られれば、間違いなく笑われるだろう。
 だがその時、センが一歩前に出た。
「大まかなことはキサラギから聞いたが、俺は草原の風習に疎い。滞りなく式を挙げるために、手助けを頼めないか」
「あなたは結婚式なんてものは嫌いだと思っていましたが?」
「キサラギと生きていくことを決めた、そのけじめだ。それに、俺はこいつから人並みの幸せを奪ったつもりはない」
 イサイは、しばらく黙った。
「……頭を下げられている気がしないのはどうしてなんでしょうね」
「額ずけばいいか」
「そんなものは見たくないのでやめてください。私が意地悪をしているみたいじゃありませんか」
 言って、イサイは疲れたような息を吐いた。
「キサラギ。彼はこう言っていますが、あなたはその意味を本当に理解していますか。これからあなたは、誰も辿ったことのない道を行くことになる」
 キサラギは背筋を正した。これから聞くのは、とても大事な話だ。
「頼れる者はセンひとり。彼が近くにいなければ、たった一人で切り抜けなければならない。時には自分を犠牲にして、誰かすら犠牲にして、彼を助けなければならないこともあるでしょう。理解者はきっと数少ないし、あなたたちが追われるようなこともあるかもしれない。あなたが添い遂げようとする相手は、そういう存在です」
 キサラギは目を閉じた。
 私たちはこれから二人きりで、永く遠い道を行く。
 きっと大勢を見送って、取り残された気持ちになるだろう。もう嫌だとへたりこみ、足を止めることだってあるかもしれない。
 それでも――いま、胸の中にあるぬくもりを手放すことはできないのだ。
「――これからずっと一緒に生きていきたい、そう思った相手はセンだけです。私が無茶しないように見守って、危ないところを助けてくれて、静かな時には寄り添って幸せな気持ちをくれるのは、センしかいないんです」
 イサイは、話しながら微笑むキサラギを、じっと見つめていた。
 キサラギは、多分、平静な顔をしつつ内心でかなり動揺して照れているであろうセンのことを思うと、笑えて仕方がなかった。でも、本当のことだから許してほしい。
 やがて、イサイも微笑んだ。目を伏せ、肩の力を抜く。
「……分かりました。娘の幸せを邪魔するような養父になったつもりはありません。結婚を認めましょう」
 いつものように柔らかい風をまとい、穏やかな微笑を浮かべ、センの前に立ったイサイは、ずいぶん大きく見えた。
「血のつながり以上に大事にしてきた、大切な娘です。私が言うことではありませんが、彼女のこれからのすべてを、セン、あなたに預けます。キサラギ、それでいいんですね?」
 キサラギはゆっくりと頷いた。
「はい」
 イサイは心から安堵したように、目を伏せた。
「自分の未来を閉ざすようにして、終わり方を決めていたあなたが、それを捨てて誰かと共に生きていくと決めることができた……そのことを嬉しく思います。彼にお礼を言うべきでしょうか?」
「別に聞きたくない。それで、さっきも言ったが、俺はこっちの事情が分からん。結婚に必要なものを教えてくれ」
「人を紹介しましょう。男側の準備は仲間でやるものですし、式に際して、街長にも話しを通さなければなりません。とりあえず……」
 と言って、イサイは足音を立てず素早くすれ違うと、閉ざされていた扉を開いた。途端「わああ!?」と数人が室内になだれ込んできた。
「あなた方、立ち聞きとはいい度胸ですね。ハガミ、あなたが止めるべきじゃありませんか?」
「いやあ、キサラギたちが久しぶりに帰ってきたし、こりゃそろそろ結婚かなあなんて呟いたら、確かめに行こうとこいつらが悪乗りしましてね」
 緊張でまったく気付いていなかったキサラギは絶句したが、センは目を閉じてため息をついた。こちらも人の気配を察知していたらしい。
「何はともあれ、おめでとう、二人とも。あのはしっこい姫騎士が、ついに結婚するたあ、感慨深いものがあるなあ」
 ハガミの笑顔に、キサラギは急に胸がいっぱいになった。ありがとうございます、と言葉を詰まらせながら頭を下げる。彼は、キサラギの指導に当たっていた、直接の上司だった。
 すると、倒れ込んでいた竜狩りたちが起き上がって、口々に祝いの言葉をかけながら、キサラギの肩や腕を叩いてきた。
「おめでとう! 美形の旦那捕まえやがって」
「あのキサラギが、竜人と結婚なんて、世も末だな」
「キサラギは凶暴だから、剣はいつも手放さないようにしておけよ、セン」
「どういう意味だよ!」
 わはは、と一同が笑う中、キサラギはセンを見た。外と比べて、竜人の存在が多少受け入れられているセノオだが、やはり生まれた時から竜と戦い、大切な人たちを失ってきた過去もあって、複雑な気持ちでいる者も多い。それでも、竜狩りたちの軽口は、センに近付こうとする努力の証でもある。
 そのセンは、どこかつまらなさそうに目を伏せつつ。
「……肝に銘じておく」
 そう答えたので、竜狩りたちは一瞬目を交わし、どっと笑った。

     


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