第一章
謀略、王族たる者
 

 グレドマリア王国第五代国王シンフォードは、己が王太子誕生の日、その一言で、全国民を混乱の渦に叩き込んだ。

「これは、我が血を分けた息子にあらず」




       *



 妹の細指を握った時、エタニカは嫌だなと思った。傷がつけばもろもろとこぼれてしまいそうなアンナの指を、壊してしまうのではないかと思ったからだ。
 エタニカの手は、剣だこや抜刀の古傷があり、手入れする暇がなく荒れていて、常に強く物を握るために節くれ立っている。これが十八の娘の手だと言えば、エタニカをどこかの村娘だと思うかもしれない。
 だが、胸元に輝くのは、馬蹄と鳩の翼、赤い石。フォルディア王国白馬騎士団第二分隊隊長。それがエタニカ・ルネの身分だった。
「お姉様。わたし、本当にグレドマリアにお嫁に行かなくてはいけないの?」
 エタニカは、糸のようにか細い泣き声に痛みを覚えながら、二つ年下の腹違いの妹へ事実を告げなければならなかった。
「アンナも、我がフォルディアと隣国グレドマリアが、争いをようやく集結させたことは知っているだろう? 和平の証として、アンナは二つの国の架け橋になるのだよ。お前ならばうまくやれると、父王様がお決めになったのだから。大丈夫」
 青い宝石の瞳から涙が溢れ、羽根のような睫毛に触れて零れていく。
「でも、シンフォード王子はとても恐ろしい方なんでしょう。我が国の兵士をたくさん殺したんだから」
「誰がそんなことを言うんだ?」
「みんな。お可哀想ですわね、あんな恐ろしい王子に嫁ぐなんて、と言うのよ」
 アンナは見たこともないシンフォード王子を想像し、白い陶器のような顔色をして、また目を潤ませている。しかしそのおかげで、エタニカはわずかに表情を失って強ばっている姿を見られずに済んでいた。
 何故なら、あながち王子の評判は間違ってはいないからだ。
 終戦は一年前。その半年前には大規模な衝突があった。戦線はフォルディア国内の三分の一にまで踏み込んでおり、エタニカは他の騎士団とともに決死の防衛を行っていた。ここを死守できなければ、エタニカは城へ舞い戻り、父王や腹違いの皇太子や姉王女たちに亡命を進言する手はずになっていた。しかし、それよりも先に王の決断が下されたのである。フォルディアは、グレドマリアに敗北したのだ。
 軍を指揮していた敵国の王太子シンフォードの顔を、エタニカは知っていた。光を飲み込む闇色の目をした、戦鬼の気迫と死神の冷徹さを併せ持った、恐ろしい剣の使い手だった。
(美しく、そして強かった……もし退却の砲が鳴らず、王子が望んだならば、私は彼に殺されていただろう……)
 そんな男の元にこの子は行く。今もはらはらと涙を零して悲しむだけの純粋さを、シンフォードに傷つけられるかもしれない。
 だが、アンナは王女だった。王女は、政略の道具なのだ。
「アンナは平和のために行くのだよ。武器を持たぬ者を傷つけるほど、シンフォード殿下は愚かではない。問題がある人物に、父王様がお前を嫁がせるものか」
 破竹の勢いだったグレドマリアに敗北を喫したフォルディアだが、我らが王は知恵者と名高い。戦が不得手であるのと、慎重すぎて後手に回ってしまうことが傷だが、周到な根回しと無口の中に秘められた施策は、国外に『眠れる狼』と異名を取っている。――その眠りが老いたかのように長過ぎて『老いぼれ狼』とも揶揄されるのだが。
 父王が、このアンナを政略婚させるのは、彼女が姉妹で飛び抜けて可憐で愛らしいことと、貴婦人の素養を十分に身につけているからだった。エタニカが握っているアンナの指は、姉よりも何十倍も達者に鍵盤を滑り、極上の調べを奏でることができる。いささか気弱で、稚い部分が残っているが、成長とともに薄れるだろうと父王は目算したのだ。心と身体が十分に成長し、グレドマリアで王子妃、ゆくゆくは王妃となれば、アンナは間違いなく容姿に伴った実力を発揮し、両国の架け橋としての役目を果たすだろう。
 唇を結んでいたアンナだったが、父のことを繰り返し出され、こくり、とかすかに頷いた。
「本当に大丈夫か? もう少し休もうか」
「いいえ……いいえ、お姉様。わたし、行かなくちゃ。国境で、グレドマリアの方々がお迎えにいらしているのだから」
 強い決意を聞いて微笑む。手の甲で頬を撫でてやる。
「アンナは偉いな。相手など待たせてやればいいのに」
「だめよ。そういうことはちゃんとしなくちゃ」
 少し目をきつくして言われ、エタニカは肩を竦めた。アンナをもう一度軽く励まして、馬車から降りる。すぐ近くに立っていた付き添いのナラという女官に、何かあったら呼ぶように言って、辺りで時間を潰している騎士たちに声をかけた。
「すぐに用意を。出発する」
 花嫁の隊列は、西へ向かう。
 大陸北部に位置する二国。東のフォルディア王国と西のグレドマリア王国は、ともに縦に長い国である。北側はレディエ山脈に遮られているため、両国の行き来には中央部ならびに南部の街道を利用するのが一般的だった。フォルディアの都は西寄りの中央部に、グレドマリアの都は東寄りの北部に位置する。アンナの体調を気遣って、時間はかかるものの山を迂回する経路を利用する予定だ。
 戦争の影響で山に寄った地域には盗賊や山賊の類いが増加していることもあって、相手国から迎えが来ることになっており、国境で落ち合う予定だ。戦争賠償のために、国境は、二年前フォルディアだった位置に進出している。隊の行程が短いことは、今に限って言うならば幸いなのだろう。
 花嫁の旅路には、本来ならば兵士としての任務以外で諸外国に足を踏み入れるはずのないエタニカが同行することになっていた。昔からこの妹は妾腹の姉に親しみがあるらしく、エタニカがしばらくグレドマリアに滞在することを告げると、涙を浮かべていたくらいだった。
(ずっと、一緒にいられるわけではないのに……)
 それでも甘やかしてしまうのは、アンナが姉と慕ってくれるからだった。例えエタニカが光を受けることのない影の存在であっても、親愛を持って笑いかけてくれることは、胸にあたたかいものを宿してくれる。
 あの子が光を受けて幸せでいられるのならば、自分はいつまでも影の中にいよう。
 だから、アンナがグレドマリアで泣くことがなくなるまで、出来るかぎり力になるつもりだった。
 馬車の様子が窺えるよう、車の近くに馬を寄せようとすると、側近のスタンレイが隣についた。目頭に深く線が入った細い目はまるで羊のようで、いつも眠いのかと首を傾げてしまうが、視線が悟られづらいことを利用して、この男は周囲をよく見ているのだった。
 エタニカは、目で何事かを尋ねた。彼は周りに聞こえぬよう囁く。
「この調子では、どこかで宿を取らなければなりません」
「未練を振り切るために、一気に国境まで走った方がいいかもしれないな」
 なるべく小休止は取らないでおくことを決め、出発の号令をかけた。
 青空に映える、緑の風景。青々とした田畑が目に入る。
 草が波打ち、甘い穀物の香りが大気に満ちて、どこか懐かしい気持ちになる。
 フォルディアとグレドマリアが踏み荒らした大地は、この初夏、活き活きと糧を育んでいた。特に人の行き来がある中央部から南部は、平原が多く、北国の重要な穀倉地帯だ。賠償に支払わねばならなかったのは仕方がないことだったが、かつて彼らの実りを踏みにじったエタニカは、重責を感じて深く息を吐いた。
 しかし、そこにいる人々は、以前よりも穏やかな顔つきで、花嫁行列を見送っていた。
 白い建物群が見えてくる。
 平原の中に橋を造ったような建物で、かつてフォルディアの領土であり、今はグレドマリアのものになったハルム要塞だ。入り口に複数の人々が固まっていたが、向こうもこちらを視認し、隊形を組んだ。待ち構える彼らの前に進み出たフォルディア国の一行は、向き合う形で足を止めた。



<<  ―    ―  >>



―  INDEX  ―