第二章
偽称、身代わりの姫
 

 グレドマリア国王シンフォードに妃は一人。
 後継者を望む重臣たちの意見をすべて撥ね除け、シンフォードは頑ななまでに正妃以外の女性を妻にしようとしなかった。




       *



 アレムス城の西翼にある館が、シンフォードの住居だった。夜の闇の中に、梢が鳴る音が聞こえる。庭は緑で溢れているようだが、エタニカはまったく気に留める余裕がない。侍従を通して足を踏み入れる許可を得ても、その扉を叩くのをこの期に及んでためらっていた。
 深夜近くでなければ時間が取れないと言われ、このような時刻になってしまった。おかげで昼間は胃が痛かった。今も、壁に頭を打ち付けたい衝動に駆られる。
 アンナが臥せっているという言い訳はもう続かない。何故旅慣れないはずのアンナが、エタニカたちの目をかいくぐれるのか。一週間で分かったことは、どうやら他にも協力者がいるらしいということ。
(その話をすれば、シンフォード王子も否やは言えないはずだ)
 どれほど頑なであろうと、この扉を開いて行かねばならない。意を決した。
「入りなさい」
 分かっていたのにびくりとしてしまう。だがそこで立ち往生していられない。把手に手をかけ、静かに押し開く。
 灯りは最低限に絞られていたが、シンフォードが燭台を傾けて別の蝋燭に火を灯すところだった。室内が明るくなり、多少なりともほっとする。後ろ手に扉を閉める。
「エタニカ・ルネです。お時間をいただき、ありがとうございます」
 シンフォードは頷いただけだった。
 用があるエタニカが切り出さなければならない。喉が乾いて、手足が震えた。
「……我が国の王女アンナ・シアについてご相談があります」
「思ったよりも早かったな」
 は、とエタニカは顎を引いた。机に下半身を預け、シンフォードは腕を組む。黒い目は、炎に当たると瞳の色が分からないほど漆黒に染まる。
「アンナ王女の行方が知れないことは聞き及んでいる。そちらの報告を待っていた。それで?」
「ならばご存知なのですね? 貴国の騎士ライハルト・グルーもまた姿を消していると」
 逃亡の旅に女二人では困難すぎる。いくら世情が落ち着き始めているとはいえ、騎士を連れた花嫁行列が無頼者に襲撃されてしまうくらいなのだ。だが、国内に明るい者、それも剣を使え護衛の役目を果たせる者がついているのならば、隣国の人間であるエタニカたちを出し抜くことは難しくないかもしれない。
「最初にこちらに報告すべきだった。そうすれば私も捜索することができただろう。すでに一週間、国外に逃亡した可能性も否めない。それとも、貴方がたは自分たちだけで解決できると思われたのか?」
「……返す言葉もありません。そのことについて、お願いがあるのです」
 注がれ続ける視線と、冷たいが正当な言葉に、エタニカは震えを押し隠した。
 臆しては、成すことができない。これは戦いなのだ。
 あの戦場では勝つことができなかった。見上げて、圧されるだけだった。
 これは敵ではない。彼もまた、思いを同じくしているはず。その希望だけがエタニカにそれを口にさせる。
「アンナは必ず連れ戻します。だからそれまで――私が王女の身代わりになります」
 シンフォードは目を細める。不機嫌な獣のような仕草だ。エタニカは唾を飲み下す。
「王女が戻ってくるまで、殿下にはその秘密を守る協力をお願いしたいのです」
「秘密にできると思っているのか。結婚式まで一ヶ月もない。式までに、アンナ王女は様々な人間に会い、義務を果たす。それを貴方が行うと?」
 怯まない。言うべきことを言わねば、この王子は頷かないだろう。
「私は、両国の関係を悪化させたくありません。双方が同意の上、秘密を共有するのならば、戦時のようになることはわずかに食い止められるのではありませんか」
 それに、とエタニカは畳み掛けた。
「これは我が国だけの問題ではなく、貴国の問題でもあります。私たちは、王女は貴国の騎士にかどわかされたのだと訴えることが可能です」
「では尋ねるが」とシンフォードは机から離れ、エタニカに一歩近付く。
「貴方は、身代わりにおいてどの程度の労力を割かねばならないと考える? 事実を知っている者、知らなければならないのは何名だ。アンナ王女として動く時と動かない時の線引きはどうする。見つからなかった場合、貴国はどうやって我が国に賠償する」
 シンフォードは一度言葉を切った。答えを待っているのだ。
 唇を噛む。王族ではなく護衛として同行した自分に、彼の質問に答える権限は存在しない。こうして共犯になってほしいと言うことさえエタニカの独断で、本国に知られれば問題になる。
 しかしクエドはいない。表向きはフォルディアで問題が起こったために呼び戻されたという理由で、エタニカには情報を集めると言ってさっさと荷物をまとめて帰国していった。何か分かれば戻ってくると言っていたが、責任を押し付けていったのは明白だ。
 行動しなければならない。アンナは不幸だろう。しかし彼女は王族。義務を放棄しようとしている。取り返しがつかなくなる前に食い止め、説得すれば、あの子はきっと分かってくれる。
「出来うるかぎり対応致します。私に出来ることなら、何でも」
「私に婚約者として接することも?」
 まともに目を見てしまい、顔を背けてしまったものの、返事は一つしかない。
「……はい」
 黒い瞳で見下ろされるだけで足が竦んだ。
 この足掻きは子どもが腕を振り回す幼稚なものに過ぎない。まともな答えを返せずに、何がお願いだ。自国の誰も頼りにならないと、彼に教えているだけではないか。
(許されるわけがない、親しくもない人間の、こんな馬鹿な頼みなんて……)
 だめだ、恐い――。
 今すぐに剣を取らなければ。容赦なく叩き斬られてしまう、その前に。
「分かった」
 右手がびくっと跳ねた。見えない手で押さえつけられたかのように。
 それがシンフォードの答えと分からず、エタニカは呆然と彼を見上げる。
「必要なものがあれば用意させる。そちらも報告の義務は怠らぬよう。捜索状況は毎日聞かせていただく」
 シンフォードは、そうして宣言するのだった。
「では、今日から貴方をアンナ王女として扱うことにする」



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