目が覚めて顔を洗い、着替えをしようとシャツと上着を手に取った時、そういえばこれは必要ないのだと思い出した。隣の衣装部屋にいくつもかけられているドレスを前に、エタニカは途方に暮れる。
 ドレスの着方は、多分分かる。だが紐や留め具が多い難しいものは無理だし、アンナのために揃えられているものを身につけるのは抵抗があった。菜花色の衣装が、肩も腕もがっしりしている自分に似合うとはとても思えない。額を押さえながら、唱えて言い聞かせる。
(私はアンナ。アンナ王女は私だ)
「失礼致します。エタニカ様、シンフォード殿下の遣いという方がいらしています」
 スタンレイに伴われてきたのは、茶色のまとめ髪の女性だった。首を白い襟布で覆い、身体に沿った、何の飾りもない薄緑の服を着ている。グレドマリアの女官だ。彼女は裾をつまみ、ちょこんと礼をした。
「ルル・ウェンザと申します。シンフォード殿下より、姫様のお世話と連絡役を仰せつかりました。姫様のご指示に従うよう言いつかっております。分からないことがあれば、何でもご相談くださいませ」
「エタニカ・ルネです。ということは、あなたにも手を貸してもらえるのか……?」
「はい。幼い頃からシンフォード殿下のお側についていたからか、信頼していただけているようで、協力要請がありましたの。身の回りのことは私がさせていただきますので、姫様はどうぞ、お務めに集中してください」
 にっこり笑う顔は親しげで、ほっと心が和んだ。
 彼女が選んでくれたドレスは、深緑色の細身のものだった。襟を高くしてあり、これならば日焼けも隠れるだろう。胸元を幅広の布で蝶々に結んだ後、髪をまとめて頭巾で隠し、その上からベールを被る。古風だが、未婚だから顔を見せられないのだと言い訳にするのだ。
 今日は外に出なければならない。病に臥せっているという嘘も一週間経てば限界だった。
「大人っぽい衣装がよくお似合いですわ。外に出られることも多いでしょうに御髪が綺麗ですし飾りがいがあります。でも、顔はお見せにならないのですよね」
「外に出るときは隠さなければならないから。私は、ある程度の人間に顔を見せてしまっているし」
 むうっとルルは唇を尖らせる。
「本当に残念。ドレス姿も素敵ですが、男装の時もとっても凛々しかったですわ。エタニカ様はとても綺麗で、かっこよくて素敵。嘘じゃないですわ、私、一目見たときからエタニカ様は善い方なんだろうなって思っていたんですから」
 鏡の向こうのルルは、何の裏もない笑顔をしているように思える。なおのことエタニカは気恥ずかしくて、両手を握り合わせて俯いた。慣れない長い裾にもう浮かんでいる皺を、精一杯伸ばす。
「期待に添えるとは、思えないんだが……」
「そのままが私は好きです。今日は少しお歩きになるのでしょう? 夏薔薇がとても綺麗ですわ。今日はお天気もいいですから、お庭にお出になられてはいかがです?」
「ああ、そうしてみる」
 送り出されたエタニカは、ベールの長さに気をつけ、スタンレイを付き添いに庭へ向かった。
 アレムス城は、いくつかの塔と棟で構成されている。古くからある建物同士は通路で繋がっているが、建て増しされた建物は地上でしか出入りできない。アンナ王女の部屋は西翼の北側に、シンフォード王子の館はそこからさらに離れた場所に、ぽつんと建っている。
 ルルが教えてくれたのは、西翼と北区の間にある中庭だった。低い植え込みが迷路のような形を作っている。城を訪れている客人たちが、そこかしこで、話に花を咲かせていた。そんなところにフォルディアの王女がやってきたものだから、人々は口をつぐみ、一挙一動に注目しているらしい。
「見られていますね」
 言われなくても分かっている。だが裾を踏まないようにするので精一杯だ。
(思ったより、足が痛い)
 靴だけは大きさの合うものが揃えられておらず、アンナの足に合わせたものを履いている。服はゆとりのあるものを身につければいいが、靴はそうはいかなかった。足の甲と踵が擦れて、すでにじわじわと痛い。
 転ぶなんてもってのほかだ。エタニカの行動は、すべてアンナの評価に繋がるのだから。
 大股で歩くわけにはいかず、また、うっかりスタンレイよりも前を歩こうとしてしまう己を自制して、ゆっくりと庭を眺めた。白薔薇が咲いている。薔薇は好きだ。華やかで、誇らしげで、見ているだけで強い気持ちを貰えるような気がする。つつじの花の明るい色が楽しい。芝は青々としている。緑と花が調和して、ぼうっと思索に耽りたくなる穏やかさだ。木陰に入って昼寝をしたらさぞ気持ちよかろう。
 さらさらと緑が揺れる音に紛れて、色鮮やかなドレスの女性が二人、近付いてきた。エタニカはすっと背筋を伸ばし、ベール越しに笑顔を向ける。
「ご機嫌麗しゅうございます。わたくしのことを覚えておいでですか?」
「もちろん……です。スタン国王陛下の姪御、ジョージアナ・クレイトン様」
 いつもの口調で話しかけてしまい、慌てて丁寧さを心がける。
 グレドマリア国王の姪であるジョージアナは、父親が外交を務めるために他国で過ごすことがある。アンナとのつながりもそれがきっかけだ。彼女はエタニカのことも知っているはずだった。アレムス城にジョージアナが滞在しているとは思っておらず、うっかりしていた。
「嬉しい」とジョージアナは微笑んだ。どうやら、話しているのがエタニカだと気付いていないらしい。
「わたくしも先日戻ってきたの。アンナ様は臥せっていらしたんですって? お可哀想に、もう具合はよろしいんですか?」
「ええ。皆様にご心配をおかけしてしまいましたが、この通り」
「皆様にアンナ様をご紹介するのを楽しみにしていましたのよ。こちらはレスタ家のフリーア様。わたくしのお友達です」
 初めましてと挨拶を交わす。フリーアは背が高く、帽子のせいで更に縦に長い。見事な羽飾りがふさふさと揺れる。水鳥が大きく羽ばたきをしているみたいだ。
「これからレスタ家のお屋敷でお茶会なのですが、よろしかったらアンナ様もいかがですか?」
「よろしいのですか?」
 もちろん、と二人は声を揃える。
「エタ……姫様」とスタンレイが小声で呼ぶ。
 懸念は分かるが、アンナが非社交的だという噂を払拭したい。エタニカは「ぜひとも伺わせていただきたいです」と応えた。馬車を用意してもらっていると、ルルがやってきた。にっこり笑って、馬車に同乗する。
「付き添わせていただきますね。王女様に付添人がないというのは、不便かと思いますので」
「す、すまない。つい……」
 普段ならばエタニカが護衛兼付添人になれば足りるのだが、エタニカは今、アンナ王女なのだった。自分一人で身動きできないというのは、不便だ。
 待たせていたジョージアナとフリーアに遅くなったことを詫びて、城下にあるレスタ邸を目指すことにした。



<<  ―    ―  >>



―  INDEX  ―