夜も明けきらぬ時刻、愛用の剣を手に、北西の庭へ向かった。遠くの藍色の空に灰色の煙が上がっており、水音が聞こえる。竃の火を入れ、井戸で水を汲み、湯を沸かす仕事の景色だ。丘の向こうの稜線が白く描き出されていく。夜が明ける。
 庭の片隅、人目につかない木の陰で、剣を振った。しばらく鍛錬を怠っていたのですぐに息が上がってしまう。けれど、体温が上がり、全身から汗が噴き出すようになると、夜明けの風が涼しく感じられ、身体の中に滞っていた重いものが息となって吐き出されて心地よかった。
 今日も、アンナとして過ごさなければならない。腰を絞り、邪魔な裾を水鳥のように優雅にさばいて、しずしずと歩く必要がある。こんな風に、自由に腕を伸ばすこともできない。伸びをした先に、目が覚めたばかりの薄水色の空。
(もうすっかり暖かくなったな)
 引き上げようとした時だった。どさっ、と何かが落ちる音がして、エタニカは辺りを見回した。誰かいるのだろうか。茂みから出て庭を見回すと、先ほどまで開いていなかった塔の扉が揺れている。
 覗き込んで、エタニカは叫んだ。
「大丈夫ですか!?」
 塔の壁に手をついて、女性が座り込んでいたのだ。
 だが、女性は殺気立った顔つきで、助け起こそうとしたエタニカの手を叩き落とした。
「軽々しく触れるでないわ。無礼者」
 灰色に濁った瞳が忌々しいと吊り上がる。瞳はエタニカを捉えているが、恐らくあまり目が利かないのだ。そのせいでこの目つきになってしまうのだろう。
 しかしそのきつい美貌に目を奪われてしまう。余計な肉がなく、頬、鼻、顎がすっきりとしていて、はっと背筋が伸びるような麗人だ。もう大きい孫もいる歳だろうか。髪は黒々としているがあまり艶がなく、頬にも首にも皺ができている。しかし、その重ねた歳すら魅力だった。
「お前は誰だ。何故このようなところにいる」
「私は、フォルディアのエタニカと申します。この城に滞在している者です。ここにいたのは鍛錬のためです」
 女性はますます鼻の頭に皺を寄せた。
「老いぼれ狼の剣姫か。道理で無骨な物言いをすると思った」
 苦笑するしかない。この年頃の女性には、エタニカのような生き方をする娘は不快に感じられるだろう。庶子として生まれ、王族に並ぶことができず、だというのに婦女ではなく兵士として生きる道を選んだ。エタニカでさえ、時々剣を持っていない自分を想像することがあったのだから。
「足をくじかれたのですね。お手をいただけますか。お送りします」
「他人の手は借りぬ。ましてやお前のようなものの手は」
「ご不快でしょうが、お願いします。おみ足に障ってしまいます」
 女性は壁に手をついて立ち上がると、何とか表に出た。片足を引きずり、がくんと何度も倒れ込みそうになりながら、歩き続けようとする。強情な、と苦笑いしたエタニカは、素早く側に寄ると、そっと囁いた。
「御方様は、足が折れた馬の行く末をご存知でしょうか」
 女性は答えない。息も絶え絶えに痛みをこらえて前へ進む。
「彼らは、足を折ると、多くは安楽死させることになってしまいます。馬は立つことで生活する生物だからです。一本でも足がだめになると、その他の足に負担をかけ、様々な病に悩まされることになります」
「お前は」と女性が振り返った。低い声。怒っているのだ。
「私と馬を同列に並べるのか」
「滅相もない! ただ、一度壊した身体を元通りにするのは時間がかかります。一部が弱ると様々なところに影響が出ます。無理をして二度と治らなくなってしまえば、一生に関わるのです。ですからどうか、私に御方様を支えさせてください」
 ひたすら下手に出て頼み込む。立てなくなってしまったら一大事だ。でもさすがに、ご婦人相手に馬のことを持ち出したのはやりすぎだったろうか。伏せた顔に汗をかいていると、ふん、と鼻を鳴らす音がした。
「お前も私を年寄りだと侮っている」
「人はそれぞれ異なります。私は御方様より若く体力もありますが、御方様のようにお客様をもてなすことはできません。夜会で踊ることもおぼつかないでしょう。その代わり、御方様がお困りの部分を助けることができると思っています」
「達者な口だ。取り入るのがさぞかし巧いのだろうな」
 嫌悪を滲ませた口調だったが、エタニカの前には手が差し出されていた。
「卑屈に徹したことに免じて手を預けよう」
「ありがとうございます。失礼いたします」
 預かった手ごと、腕を取り、支えになる。手首の骨が浮き出して細い。爪先まで洗練されて、優雅な貴婦人のまま年を重ねた手だ。
 歩調に合わせてゆっくり進み、門が見えるだろうかというところで、人が駆けてきた。詰め襟を着ている男だった。さほど若くないが、大柄で無表情な、軍人を思わせる佇まいだ。
「ここまででよい。ではな、フォルディアのエタニカ」
 男は黙って女性を前抱きにする。門に近付くとすぐに馬車がやってきた。女性を乗せると、男は御者の隣に座り、馬車はやってきたのと同じ静けさで門を出て行った。門番に呼び止められることもなかった。いずこのご夫人だろう。こんな時間に城に出入りして、誰にも呼び止められないなら、名のある家の方に違いない。そう考えたところで、はっと背に衝撃が走った。
(人に会ったなんて知れたら、また殿下に叱られる!)
 しかも真正面から顔を見て名乗ってしまった。幸いだったのは、元の姿のままで本名を名乗ったことか。だが、アンナ王女の身代わりをしている時に顔や声を知られたなら、確実に偽物だとばれてしまう。
 一日の始まりに盛大な失敗をしでかしたことに頭を抱えながら、部屋に戻った。
 今日は黄土色のドレスだった。帯は金だ。尖った襟は飾り編みがひらめく四角襟に、胸は寄せてあげて豊満に見せ、腰は絞り、裾は重たく広がる。鏡に映るエタニカは、子どものように幼く、不安な顔をしている。近くにルルの顔が映ると、自分が中途半端に子どもの顔立ちを残していることが分かる。目も頬も、丸い。だから余計に目つきの悪さが目立つ。なのに、今日も素敵とルルは満足げだった。
「やっぱり殿方を飾るより、姫様の方が楽しいですわ。シンフォード様はありきたりでつまらないんですもの」
 ぎょっとした。あの男性とありきたりと言うのか。
 支度が終わったのでルルに呼ばれて現れたスタンレイは、一瞬虚をつかれたように立ち止まり、苦笑して頭を掻いた。
「エタニカ様のその格好には、まだ慣れません。どちらの姫君が座っておられるのかと思ってしまいます」
「私もだ」と深く頷く。摘んだ裾、その生地の軽さが心もとない。もし自分が王宮に引き取られて養育されていたら、これが当然になっていたのだろう。
 王国騎士の娘で王宮へ出入りしていた母がお手つきとなって生まれたのがエタニカだ。側室の身分を固辞した母は産後の肥立ちが悪く亡くなり、エタニカは宮廷ではなく騎士だった祖父に引き取られ育った。祖父も母も、王宮の生活でどんな目に遭うか知っていたのだろう。だが代わりに戦場はなかろうと、成長した今は苦笑している。おかげで、大抵のことがあっても生きていける術は身に付いたのだが。
「いやいや、真面目に取らないでください。お美しいですよ。うちのも何人か口説きにくるんじゃないでしょうか。騎士団長とか」
「まさか」「賭けますか」などと笑っていた時、扉が開く音がした。エタニカは背筋を伸ばしていた。丁寧に扉を閉めたルルの前に、シンフォードが立っていたのだ。
 直立したスタンレイは口を閉じて後ろに下がり、エタニカは前へ進み出て、頭を下げた。
「おはようございます。その……我が国の騎士が報告させていただいていると思いますが、何か不備がありましたか?」
「おはよう。そのことでは落ち度はない。だが一人で聞くのも二人で聞くのも同じだろうと手間を省いたまでだ」
 それとも、とシンフォードが眉間に皺を寄せる。
「朝から私の顔を見るのが不快か」
「そういうわけでは!」
 また不機嫌にさせた。焦って首を振るエタニカは、シンフォードの視線が少しも和らがないことに汗を浮かべ、とんでもないことを口走っていた。
「殿下に朝から部屋に来ていただけるなんて光栄です。秀麗で凛々しいお顔を拝見できて胸がどきどきします! いつもそうです、本当です!」
 少し、間があった。
 何を言ったか覚えていなかったので、エタニカはルルが何故笑いを堪えているのかも、スタンレイが視線を逸らし斜め上を見るのかも分からなかった。
「……報告を聞かせていただこう」
 彼の目から逃れることができてほっとした。席に着くと、スタンレイが咳払いし、口を開く。
「では……捜索隊は現在、グレドマリア国内、および国境近辺に散っています。機嫌伺いと称して国境の砦に入って聞き込みをしたようですが、不審な旅人は見かけなかったそうです。商人も行き来が分かった範囲で追いましたが、荷馬車に誰か乗せたということはなかったようです。また、旅の芸人一座など、複数で行き来するものも調べましたが、めぼしい情報は何もありませんでした」
 とりあえずは以上です、とスタンレイは言葉を置いた。
 どうしてここまで身を隠すことが可能なのか。アンナに同道しているのは、恐らく騎士ライハルト、女官ナラの二人だ。アンナとナラに逃亡を続けられる力があるとは思えない。ならば率先して動いているのはライハルトだろう。彼がこちらの動きをかわし続けているのだから、他にも協力者がいる可能性がある。
 ということをシンフォードに話していいものか、悩んだ。下手をすればこの国の人間がすべて悪いと考えていると捉えられないだろうか。
「何故ライハルトが王女に手を貸したか、心当たりはあるか?」
 逆に尋ねられて、エタニカは目を瞬かせた。
「貴方の言う通り、私はアンナ王女に目通りしていない。旅の最中どのような様子だったかの報告は受けた。だが、姉である貴方の目から見て、ライハルトと王女はどうだった。二人についてどのように考える?」
 安易な考えは口に出来ない。己に慎重を課したエタニカは、旅の行程を思い返した。
「……グレドマリアまでの道程で、アンナは表に出ていません。一度だけ事故で姿を見せたことがあったくらいです」
「受け止めたのがライハルトだったと聞いている」
「それがきっかけだったと思います。アンナは、この結婚に乗り気ではありませんでした。フォルディアを離れ、一人になるのが嫌だと考えていたように思います。そこへ自分を支えてくれる優しい騎士が現れた。多分、ライハルト殿はアンナに同情したでしょう。だからあの子の願いを叶えようと、城を抜け出し、逃げたのだと思います」
「二人の関係は同情によるものだと?」
「出会って間がありません。それ以上のものになりようがないのではありませんか?」
「私はそうは思わない」
 エタニカは目を見張った。シンフォードは、両手を組み顎に当てる。
「同情がきっかけであったと私も思う。だが男女がそれだけで留まるとは思えない。片や可憐で愛らしいと噂の王女、それも政略結婚に嘆く美しい少女だ。一方は若く使命に燃える騎士。騎士は姫に同情し、彼女に尽くすだろう。その思いが恋愛に発展しないわけがない」
 恐るべき単語が脳裏に浮かんだ。声は冷たく、白かった。
「駆け落ちしたと、仰るのですか」
「結果的にそうなるだろう」
 未婚の娘が、それも結婚の決まっている王女が、騎士と駆け落ちする。
 その醜聞はアンナの将来に決定的な傷を付け、フォルディアは愚かな王女を送り出したと嘲笑われる。汚名は、永遠に濯がれることはないだろう。悲恋ゆえの逃亡劇だと、美談にもできない。王女は王族としての義務を怠ったのだ。
 目の前が真っ暗になるほどの絶望を味わい、血の気の失せた顔を覆う。エタニカは呻いた。とぐろを巻く感情。
「連れ戻さなくては」黒い色をしたそれが、瞳に宿った。
「取り返しがつかなくなる前に」



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