「ルル。駆け落ち婚といえば、どの教会だ?」
 不吉すぎる問いを投げられたルルは、口元に手を当てて考え込んだ。
「流行り廃りがありますが……今ならテュトス村か、ラメル村にある古教会でしょうか。身分違いの男女は特にラメルに行くようですね。そちらの教会を管理なさっているのが、司祭より上位の司教様だということで、説得の仲介をしていただくとか」
「テュトスは国境近辺で現在探索していますが、今のところ手がかりはないようですね。ラメル村にも人をやっておきましょうか」
 スタンレイが言い添える。探索の意味ありと手応えを感じているようだ。エタニカは己の力不足を痛感した。このような判断さえ手に余っていたのだ。
「どうします、エタニカ様」
「ああ……そうしてくれ」
 一人では、何もできない。何の意図もない側近の問いかけに答えるのは、苦痛だった。
「本当にいいのか?」
 エタニカは動きを止めた。シンフォードが見透かそうとしている。
「何がでしょうか?」
「アンナ王女とライハルトが恋仲なら、我々はそれを裂かねばならない。貴方は後悔しないか。妹の幸福を願うのならば、このまま見逃してやろうとは思わないのか」
 呆然とした。この人がそれを言うのか。エタニカとアンナの身勝手やフォルディアの責任を追及する権利のある人が、こんなところで気遣う。だが、それを考えるとこれは意志を試しているのだ。
 エタニカが、フォルディアの人間として、王女の姉として、グレドマリアとシンフォードに迷いなく尽くせるかどうか。
「……アンナは、私の妹である前にフォルディアの王女です。王族の義務を放棄することはこれまで自分を生かしてくれていたすべてのものを踏みにじる行為です。自分を王女と戴いてくれた国民に報いねば。それが、何不自由なく衣食住を保証された場所に生まれたもののさだめだと思います」
「すべての者があなたのように考えることができれば、このようなことは起こるまい」
 シンフォードは、やはり呆れたのかもしれない。愚直な物言いを嘲笑されることはなかったが、理想論でしかないと考えられているようだった。自分はこの人を満足させられないのだと、エタニカはベールの下でそっと唇を噛んだ。
「はあー……」
 突然、ルルのため息が大げさに響いてびっくりした。
「そのような言い方は馬鹿にしているように聞こえます。殿下。もう少し柔らかな物言いをなさってください。褒めるなら褒める、叱るなら叱る。殿下のお言葉はおしなべて平坦です。いつも責めているよう。姫様が泣きそうではありませんか」
「ルル! 私は別に」
 部下であるスタンレイや、何も間違っていないシンフォードの手前、落ち込んでいることを悟られたくない。当然の自責を負っているというのに、主導を握る者がこうも打たれ弱いと不安になるだろう。エタニカは目に集まりそうだった胸苦しさを押し込めると、シンフォードを真正面から見上げてきっぱり言った。
「殿下は何も間違っていません。自分の力不足が悔しいだけです。けれど私は私に出来るあらゆることをしたいのです。その……殿下には大変なご迷惑をおかけして、不快にさせてしまっていると、思うのですが……」
 威勢のいい言葉は、自信を失って途切れがちになった。シンフォードが目を細めているのが、上目で窺うと分かった。そう、多大なる迷惑を被らせている。すべて委ねてしまえば楽になるが、それではエタニカは責任を放棄したことになる。
(それが最後なんだ。それを捨ててしまえば、私はこの人に見放されるだろう)
「貴方は」
 何かを言いかけ、シンフォードは少し苛立ったように眉間に皺を集め、間を置いた。どうやら言葉を選びあぐねているらしい。今度は何を言われるだろうとエタニカは首を竦め、心の防御を張り巡らせる。
「貴方は――有り得ないほど、純粋だな」
 目を瞬かせた。盾を手に攻撃に備えたというのに、突然相手が剣を捨てて背を向けた、というような不意の突き方だった。固く構えていたのが馬鹿らしい、そんな苦笑にぶつかる。
 それは笑顔だった。苦くはあったけれど、エタニカにかすかな笑みを見せている。
 扉を叩く音にルルが応対に向かい、スタンレイが後ろに続く。だがひたすらに彼の顔を見ていたエタニカは、きっと馬鹿な顔をしていただろう。しかし、それがまたおかしいというように口の端に笑みを浮かべたシンフォードは、それまでの無愛想さが嘘のようだ。
 それに反して、エタニカの心は固く強ばっていった。
「からかっておられるのですか」
 さぞかし、滑稽なことだろう。力ない者が足掻いている様は。
 何をすべきか何が正しいのか分からないまま、右往左往して走り回っているエタニカは、無力だ。
 けれどこの人は、王太子であり、次期国王を約束され、貴族たちを制する力を持ち、またルルのような女官の信頼も厚く、戦場に出ても勇猛に戦うことができる、非の打ち所のない完璧な王族だ。見目麗しく、頭の回転も速く、彼の言葉は間違いを否定し、偽りを嫌う崇高な精神を宿している。
 それは、エタニカが抱く理想の王族そのものの姿だ。
「……正直に言っただけだ。不快にさせたのなら申し訳ない」
 頑なな態度を察したシンフォードは、声の調子を落とした。表情は元通り、薄い布をかけたような平坦なものになっている。呵責を覚えたが、エタニカは努めて気付かないふりをした。自分は歓迎していないと、距離を置くことで示すだけだった。
「殿下、姫様!」とルルの焦りが沈黙を割った。
「いらしてください、騎士が戻ってまいりました」
 エタニカもまた続こうとしたが、裾に足を取られて出遅れる。続き部屋に待っていたのはフォルディアの騎士で、戻ってきたばかりらしく、外套を脱いだだけの姿で膝をついた。
「見つかったのか」
「いえ。しかし大事があって戻ってまいりました」
 これを、と彼は油脂の包みを差し出した。紐で縛っただけの軽い包み、手紙が入っているわけではないようだが、誰からのものか。
「ラメル村の者が、地頭にこれを持ってきたそうです。あの村では今、余所者が無法を働いていまして、領主も地頭もその仲裁に追われているのですが、突然、問題の者たちが『いい金づるが手に入った』と言い始めたらしく」
 エタニカは目を見開いた。
 中身は髪の束だった。金色をした、艶やかで美しい、女性の髪。目を奪われていたエタニカは、髪の内側に書かれた走り書きに、言葉を失った。
『助けて』
「その者たちは、これをアレムスに滞在しているエタニカ様に渡すよう言っていたそうです」
 迷う暇はなかった。
「ラメル村に行く。スタンレイ、準備を」
「行くって……エタニカ様、それじゃあ身代わりはどうするんです!?」
「適当な理由をつけて王女も同行しているとでっちあげる。帰ってくる時に本人がいれば問題ないだろう」
「それでもしこれがアンナ殿下じゃなかったら」
 すでにエタニカはベールと頭巾を外していた。泡を食った顔でスタンレイが、助けを求め、この場で最大の力を持っているシンフォードを見る。見ても愉快になれない彼を無視したまま、エタニカは着替えがある自室へ足を向ける。
「アンナであろうとなかろうと、助けを求められたのだから行くべきだ」
「フォルディアでなら通りますが、ここは他国です! せめてシンフォード殿下にご相談して、許可をいただいてください」
 情けない声は全員に聞こえている。振り返らざるを得なかったエタニカは、何か言われる前に言い切った。
「行きます。アンナに危険が迫っているなら、じっとしているわけにはいかない」
「矛盾していないか。貴方は今まさに、自分の立場を放棄しようとしている」
 いいえ、とエタニカは言い放った。
「私の行動はすべて、フォルディアのためにあるのだから」
 これ以上何を言われても聞く気がなかった。扉を閉め、鍵をかけ、身代わりの擬装を解く。それだけで心もまた、沸き立った。剣を取るにふさわしい己が戻ってくる。
 身勝手でも、愚かでもいい。詰られてしかるべきだとしても、エタニカはここでアンナを救わねばならないのだ。

 二歳年下の妹は、生まれた時に授かったものを何一つ失わぬまま、存分に愛されて育った。成長すれば普通は褪せてしまう金色の髪は、蜜を塗ったように輝き、環境によって狡猾で打算的な険悪さに歪んでしまう眼差しは、いつまでも変わらぬ少女のまま、人形めいた丸い青い瞳でよく笑った。醜悪に太ることも、誰かを見下して喜ぶこともない。人の言動を常に真に受けては、一喜一憂し、特に悲しみの表現は大きく、大切な物を壊してしまっただけで一日中泣いているような娘だった。
 けれど不思議と頑固なところがあった。彼女の価値観においてだ。人々が自分に優しく、丁寧に話し、礼儀を失わなかったものだから、すべての人がすべての人にそうであると思い込んでいた。いくら腹に一物を抱える者が、陰口を叩いて誰かを批難しようとも、それが誰かを貶め、陥れるものだと気付いていなかった。そんなことはない、と言い張るのだった。
 だから、アンナはエタニカを慕っていた。血のつながり、姉、剣を握って国を守る者、そういったものだけで、エタニカを受け入れた。それを憎らしく、愚かだと思ったことがある。
(けれどあの子が、どれだけ私の救いになったか)

 髪だけはそのままにした。機能的にまとめられていたからだ。着替えを終え、真珠の髪留めや飾り編みを外して戻ってくると、すでにシンフォードの姿はない。ルルが飛んできて頬を膨らませる。
「私まで閉め出すなんてひどいです、姫様」
「すまない。……殿下は?」
「準備に行くと出て行かれました。エタニカ様には、自分も同行するからそのつもりで、と」
 何を言っているのだろうと、微妙な顔で苦笑する部下を見返すエタニカは、やがてその意味を悟ってゆるゆると口を開けた。
「私には姫様の女装と男装、両方の準備をするよう仰せでした。よかったですね、姫様」
(どうして。絶対にだめだと言うと、思っていたのに)
 エタニカの困惑を他所に、他の者たちは忙しく動き始めている。動かねばならないと分かっているが、目眩がした。何が起こっているのだろう。行けと言われたはずなのに、とんでもない間違いを犯している気がする。今朝会った貴婦人のことも、シンフォードが同行を申し出たことも、何もかも吹っ飛んで、しばらく立ち尽くしていた。



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