レディエ山脈で起こった火災は二日間に及び、フォルディア、グレドマリア両国民に幾ばくかの犠牲を出した。このことによって緊張した二国間の関係が、戦に発展せずに食い止められたのは、シンフォード王太子、アンナ・シア王女の尽力が大きい。

     *

 鍵盤を叩き付けなかったのは、それが公共のものであるのと、これを大事に扱っている人々のことが頭の隅にあったからだ。ままならぬ、未熟な己の怒りを悪戯に物にぶつけてはならない。行き場を失った拳は、強く、椅子に置かれるだけになった。
 くすくすくす……と離れたところから忍び笑いが聞こえてくる。
「演技じゃないのね、あれ」
「噂は見栄を張っていたのよ。あれじゃ、素顔もひどいものかもしれないわね」
 ぐっと唇を噛んで彼女たちの元へ行く。あれから、様々な人間が入れ替わり立ち替わり、エタニカが音楽室にいる頃を見計らってやってくる。今日も見覚えのない婦人たちだった。
 精一杯の笑顔と声で請うた。
「お聞き苦しくて申し訳ありません。集中したいので、一人にしていただけませんか?」
「あら、そんなことはないわ。風変わりで面白くて」
「ええ、その腕前を王太后様にご披露してください。お言葉をいただけるわ」
「きっとね。だって、まるで素養がない演奏なんて初めて聞かれるでしょうから」
 黙って、台から譜面を取った。すれ違い様「また弾いてくださいな。あなたの演奏が楽しみなんですから」と尖った声を投げつけられる。
 早足で部屋へ戻る。机の上に五線紙を広げて、机を叩く。見えない鍵盤に向かって手を動かしていると、ルルがそっと、別の机にお茶の用意を始める。
「姫様、あまり根を詰められても、手を痛めるだけですよ」
「速度は全然だが、やっと最後まで曲を追えるようになったんだ。ここで止めては、また振り出しに戻ってしまう」
「そんなことを言って、寝る直前まで机を叩いていらっしゃるでしょう。スタンレイ殿が言っていましたよ。夜中にごつごつ音がすると」
「また音楽室に行く。何かあったら呼んでくれ」
 お茶を流し込み、焼き菓子を放り込んで、部屋を出る。もう三日ほどこんなことをしていた。自分が知らない指示記号や楽譜の読み方はその都度調べた。三段譜は、左手で伴奏を二段分弾かなければならないのだと知って、物を知らない自分を恥じた。
 結局、取り上げられた楽譜と同じ物が見つからなかったので、別の楽譜を探した。前よりは、少し難度を高くしている。一定に難しいものでなければ、自分の腕では貴族の子女よりも拙いものになってしまうと思ったからだ。
 だが、それが余計にエタニカを足踏みさせていた。訓練が長く辛いものだと知っている。一日で格段に巧くはならない。だが、今回の場合、成長の欠片も見えないことが苦しかった。
 誰も直接、下手だ、と言わない。
 身に付いていなくておかしい、と育ちを嘲笑う。
 鍵盤を覆う蓋を開けながら息を零した口を、ぎゅっと結ぶ。
(王女じゃないから仕方がない、なんて、言えない。……でも)
 こんなことをする必要は。
 分かっている。そんなこと、分かりきったことだ。エタニカは王女ではない。何が出来るようになっても、誰に好意を向けられても、それは泡のように消えてこの手から失われる。音の粒よりも不確かなそれら。いずれ譲り渡さなくてはならない細い絆だ。
 今のエタニカは、偽りと嘘と身代わりの、影だ。
 鍵盤の白が、乾いた骨の色に見える。
 あの紅の、乾いた風と空の、厳しい戦場の光景が、ひどく懐かしい。嘔吐するほど泣き叫んだ自分がいたあの頃、こんな切なくもどかしい辛さはなかった。確かに血を流して生きていた。
 今の自分は何者でもない。
 ぎりぎりと歯を噛み締めていた。いけないと叱咤する声はその表面をなぞっていく。
(弱くなっている。こんなこと)
 まるで、ただの娘ではないか……。
 かたり、と扉が動く音に素早く顔を向ける。その勢いに小さな悲鳴が上がった。離れたところで、どこか見覚えのある少女が固まっている。エタニカも身体を強ばらせ、広げようとしていた譜面を片付けた。昼中に練習していると、笑いものにしかならない。
「部屋を使われるのでしたら、どうぞ。もう出て行きますので」
 つっけんどんな物言いに頬が歪むのが分かる。もうどうしようもない。相手がおどおどとしているから、弱者と決めつけて、八つ当たりしている。これ以上ひどいことを言う前に退散した方がいい。会釈したところで、「あの!」と叫ばれる。
「ちょっとお待ちください!」
 言うなり彼女は小走りに棚に向かい、楽譜が綴じられている冊子を取り出す。違う、これじゃないと小さく呟く。何かを探しているようだ。
「あった、これ!」
 振り返った、上気した頬に目を奪われた。その隙に、彼女は譜面を両手で差し出した。
「先ほど弾かれていた曲は、原曲を更に難しく編曲したものなんです。意味もなく小難しいのですけれど、でも、こちらは簡単にしたもので。よかったら弾いてみられませんか?」
 面食らったあまり、沈黙が長くなった。
 かあっと、令嬢は頬を染めた。その顔に、思い出す。
「も、申し訳ありません! 私などが出過ぎた、真似を……」
 身体を小さくして下を向いている彼女の両手を、楽譜ごと、そっと取る。
「いいえ。……ありがとうございます、ユディナ様」
「私の名前を」と、いつかのお茶会の令嬢は、恥じらった、けれど明るい笑顔をくれた。
 人との交流が泡沫になろうとも、人々は生きてそこにいて、傷ついたり、笑ったりする。それらを決して蔑ろにしてはいけない。エタニカはアンナの身代わりだが、彼女たちに優しくしたいと願う気持ちは、偽りではないのだから。
 しばらく音楽室で過ごして、戻ってくると、ルルがシンフォードからの言づてを預かっていた。自室に来るようにという指示だった。
「何か分かったのだろうか」
 ルルは、何故か両手にドレスを捧げ持っている。銀を輝かせるのに似た水色に、刺繍や飾り編みが金の糸で施してある。いつものようにふわりとした、砂糖菓子を思わせるものではない。水の流れや風の動きを表現した滑らかでしっとりした形をしている。
「別に着替える必要はないと思うんだが……」
「シンフォード様に恩を売るためですわ」
 何がそんなに楽しいのか、ルルはエタニカに背中を向けさせて、服を解いていく。
 胴着を着る時にエタニカが息を吸うと同時にルルが紐を引いて絞る、双方の呼吸も完璧に揃う。頭を隠し、前方をほぼ不透明に覆うベールの視界に違和感がなくなっている。
「……ルル?」
「これは外してしまいましょうか」と髪を隠す頭巾を外して、ルルは巻いた髪の一房を丁寧に摘んで整えた後、ベールを被せる。しっとりと笑って言った。
「もう暗いですから、ベールを外さないかぎり分かりませんわ。せっかく綺麗にしたんですもの。シンフォード様には見ていただかなくては」
 そして、突然両手を広げ、えいっと可愛い声でエタニカに飛びついた。
「あら、本当。とてもいい柔らかさ」
「うん?」
「シンフォード様が言ってらしたんです。姫様はとても抱き心地がいいって」
 膝が崩れかけたエタニカだった。
「な、何の話だ!?」
「ふふふ。よっぽどお気に入りになったんですわね。お気をつけて。隙を見せると、抱きしめられてしまいますわよ」
 悪戯っぽく片目をつぶって言われてしまう。冗談なのか本気なのか、そんなことをしているとすっかり遅くなった。



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