第四章
理解、叶わない望みと
 

 一週間ぶりの王都アレムスの空気は、盛夏の最も濃いものに変わっていた。熱せられた石、乾いた土埃。路地の日陰に犬猫が微睡んでいる。たった数日で服の生地は誰しも薄いものに変わり、忙しく働く者は男女問わず袖をまくっていた。
 久しぶりの城で、ルルたちが後片付けに追われている中、エタニカが最初にそれを見つけた。
 机の上に、重石で留めてある封筒がある。何気なく取り上げて裏返すと、封蝋がしてある。小麦に竪琴の紋章。見覚えがあるが思い出せない。封を切って中を読んだ。
「……る、ルル! ルル! シンフォード様を呼んでくれ! これ……!」
 飛んできたルルは手紙を受け取り、ざっと目を通すなり血相を変えて飛び出していった。シンフォードはすぐにやってきて、青ざめる二人の前で文面を眺めるなり顔をしかめた。
「……動きがないからおかしいと思っていたが、来たか」
 ――王太后クリスタ主催の音楽会の招待状。
 夜会を兼ねた宴で、是非とも腕前を披露してほしい、と記されてある。
 この国にもアンナのピアノの技術は響いていたらしい。グレドマリアを動かすことのできる女傑の誘いだ。断れるわけがない。
「王太后陛下のことだ、こちらの騒ぎの理由に推測をつけているだろう。目的は糾弾か嫌味か。やはり静観してくださらないか」
「それ以前に大きな問題があります、殿下」
 蒼白になりながら、エタニカは恥を告白した。
「私は、ピアノが弾けません。その他の楽器もです」
 身代わりの限界だ。これをシンフォードは最初に忠告したに違いない。エタニカの考えが足りないのは最初からだが、改めて自分が危ない線をよたよたと辿っていることに気付く。
 だが彼は何も言わなかった。頭の中で日めくりを繰り、呟いている。
「会は十日後か。下手な理由では欠席できない。怪我をしてでも来いと言う方だ。協力を願っても、利がなければ動かない」
 エタニカはぐっと奥歯を噛んだ。シンフォードは次の行動を考えている。そう、すでに始めたことを悔いても仕方がない。すべきことをした上で、出来ることを探さなければならない。
「せめてもう少し早くお知らせをくだされば練習を重ねられたのですが、仕方がありません。当日までピアノを練習して、少しでも腕を上げておきます。ご叱責をいただいたら、その時です。甘んじて受けなければなりません」
 弱々しく笑って、言った。こんなことで彼の手を煩わしたくない。
「合わせて情報収集を進めておきます。フォルディアへ戻った外交官もいますし」
 そろそろ、と言いかけて、口をつぐんだ。ざわりと起き上がってきたそれを飲み込む。
 幸いにも、シンフォードは気付かなかった。エタニカが「今から部下に指示してきます」と部屋を出たからだった。
 スタンレイと、グレドマリア国内を走り回らせていた者たちを数名残し、他はフォルディアへ出立させる旨を指示する。皆、疲弊しているのに、スタンレイは何故かエタニカを心配した。
「エタニカ様。ずいぶんひどい顔です」
「似合わない化粧のせいだ。手入れを怠ってきたからすぐにぼろが出るのだよ」
 各地へ散っている者たちへの指示書を書きながら笑う。
「皆には無理をさせている」
「無理しているのはエタニカ様ですよ。本当なら、こんなことは無茶だったんです。クエド外交官の言うことを聞いて、エタニカ様が全責任を負わなくてもよかったのではありませんか」
 書き終えた書類を手渡す。スタンレイはそれらに目を通し、封をした後、油紙にくるんで部下に託した。知らせが行き渡るのに一日から二日。待つしかないことが歯がゆい。
 ベールを被り、整える。
「音楽室へ行く。ピアノの練習をしなくてはならない」
「エタニカ様。話を聞いてください」
「やけに絡むな。働き通しだからか。体調が悪いなら護衛は他の者に」
「ごまかすのは止めてください。そろそろ、いいのではありませんか。エタニカ様だって、もう限界だと分かっているんでしょう? エタニカ様がこんなことをする必要は」
 そこまで言って、スタンレイはまるで痛い顔をした。ひどい顔だ。それを見ていられなくて、エタニカは音楽室に送り届けたら自分の仕事をするように、と離れることを命じた。
 白と黒の鍵盤は整然としていて冷たい。指を置くと思ったより重く、慣れるのに時間を費やした。楽譜は備え付けられている棚から抜き取ったもので、昔からアンナがよく弾いて聞き覚えがあったものを選んだ。聞き覚えのある音階を、正しい拍子で追っていけば形になる。
 そう思っていたのに、現実はうまくいかなかった。
 まず、指が動かない。基礎練習として五本の指で順番に鍵を叩くだけのことが、同じ拍と間を取ることができない。一音階奏でただけで、乱れているのが聞いて取れる。急いで基礎の譜面を探し出して練習を繰り返した。
 慣れてきた頃に次の段階に移ると、完成度がほぼ振り出しに戻る。何度もそれが続くと、どんどん気が滅入ってきた。
 音が、重い。ただの練習曲が、鈍重な鎧の軋みのようだ。
(ピアノって、こんなに大変だったか……?)
 頭を抱える。嫌な焦りで背中が冷たい。
 アンナならもっと軽やかにこの楽器を奏でる。練習を欠かさなかった妹の技術と比べてはならないが、エタニカに求められているのは彼女と同じ熟練度だ。出来ないではすまない。
 単調な音の並びを聞いているだけのはずが、己の下手さ加減に次第に苛立ってきた。
 楽しくない。
「……っ!」
 かぎ爪にした手を鍵盤に強く置く。不協和音が響いた。
 肩を落として、席を立つ。少し気分転換した方がいい。すると、人の気配がした。扉の方を見遣ると、笑っていた女性たちと目が合ってしまう。一瞬やましい顔をした彼女たちだったが、にっこり笑うと衣擦れの音をさせてこちらにやってきた。
「ごきげんよう、アンナ様」
「わたくしたちのことを、覚えていらっしゃいますか?」
 三人組の女性。顔も覚えていたが、組み合わせでぴんと来た。
「フリーア様のお茶会でお会いしましたね」
「覚えていただけていたのですわね」
「よかったですわ。わたくしたちのような者は、アンナ様のご友人に加われないと思っていましたから」
「…………」
 表情と言動が一致していない。
 この、見下す目は何だろう。三人が三人とも、無垢な目をしながら道化師が笑うような、ちぐはぐな顔をしていた。直接機嫌を損ねるようなことはしていないはずだが、敵意を感じる。
(敵意というより、嘲りか?)
「ピアノの練習ですか?」
「王太后様の音楽会にご招待されているのでしょう?」
「何の曲を弾かれますの?」
 さわさわと寄ってきて楽譜を引ったくる。同時に前後と右に分かれて進路を塞がれた。見事な布陣だ。戦意があるなら抵抗も辞さないのだが、相手は武器を持たない女性だけなので、逃げ道を確認しながら三方の反応を窺う。
 少女は、曲を一瞥するなり鼻から息を吐いた。
「これはまた、ずいぶん可愛らしい曲ですこと!」
「あらあら、本当。アンナ様ほどの腕前ならば、もっと難度の高い曲を弾きこなすことができるでしょうに。これでは、王太后様を侮っていると言われても仕方がありませんわよ?」
「嫌だわ、二人とも。そういうお育ちなのかもしれなくてよ。聞いたでしょう、あの演奏」
 言葉が険悪さを帯びて、三人が失笑する。
 歯噛みしたのは、傷つく必要がないそれらに、胸を突き刺された自分がいたからだ。
 確かに、エタニカは貴婦人としての教養がない。嗜みである楽器演奏も、社交的な会話もうまくない。
 生まれ、育ったのが、王女としてではないから。
 急に足下の暗さが増した。深い穴蔵を覗き込み、ふっと意識が遠くなるように。見えていた景色が、反転する気がした。輝いていた部屋は凝った闇で暗く、柔らかだったドレスは鈍重に、己こそが滑稽な道化者だと知る。
 アンナならば、笑われることはあるまい。美しく曲を弾きこなし、このような当てこすりを困った笑顔で回避して、後できっと何か悲しいことがあったのねなどと彼女たちを気遣うことを言うのだ。あの子の見る景色は優しく、穏やかな気配に満ちていた。
 本当はそんなことはない、と心を固くしていた自分が正しいのに、今、エタニカは、ひどく傷ついている。
「こちらの曲は、わたくし程度が弾くものですわ。アンナ様はこちらの曲を弾かれるとよいのではないかしら」
 代わりに押し付けられた、何故か右左にの二段に加えて三段目の五線譜がある曲は、符の多さも拍の早さも、とてもエタニカに奏でられるものではない。それらを正しく知っていて、娘たちは笑い声をさざめかせて去っていった。
 廊下を歩む足は今までで最も貴婦人らしかったが、本当は、今にも座り込みそうだった。
(……私は、いったい、何をしているのだろう……)



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