明朝にこそこそと鍛錬するのは苦しい身代わり生活の息抜きだ、そう思っていた。しかし近衛騎士エタニカ・ルネと、フォルディア王女アンナ・シアの立場を行き来することは日常となり、そのどちらもが己の側面ではないだろうかと、エタニカは感じ始めていた。
 剣を握ると意識が澄む。切っ先の、見えない光点にまで力を行き渡らせる集束が、ばらばらな己の思考を寄り集める。するとそれまでぼやけていた霧が晴れて見えるものがある。すべては私の一部なのだと気付いたときもそうだった。
(だからどうというわけでもないが)
 口の端に明るい笑みを浮かべ、剣を収めた。
 自分が自分であっても、どうということもない。夜が明けて朝日が差す、至極当然のことが嬉しいだけだ。
「ようやく、鈍らではなくなったか」
 茂みを分ける音がした。白木の杖を手にした老女が、銀色に濁った目をすがめていた。
「おはようございます。お久しぶりです、御方様。足の具合はいかがですか?」
「お前に案じられる謂れはない」
 お元気そうで何よりですとエタニカは微笑んだ。
「私が散策する朝にもお前が剣を振っているから、鬱陶しくて仕方がなかったわ。花を愛でる余裕もないとは哀れなこと。それも鈍った剣と見えて、不愉快で仕方がなかった」
「お見苦しい物を……ですが少し迷いが晴れました。ご心配をありがとうございました」
「己に甘い受け取り方をするか。傲慢な」
 言う声にはしかし嫌悪がない。この人はとても優しく愛らしい人だ。ただ、どの人に対しても最初は否定から始めてしまうのだろう。似ていないのにまるでアンナのようだと思った。
 かつかつと神経質に杖が鳴っている。エタニカが何を言われても微笑んでいるせいだ。
「愚か者。自身の状況も知らぬくせに、他人を案じて笑うな。お前は皇太子が何を企んでいるのか分かっていない」
「どういうことでしょうか?」
「……その顔が気に食わぬ」
 低めた声で夫人が言う。エタニカは眉尻を下げた。
「皇太子を信頼しているのか。異国人であるお前が?」
「あの方のすべてを知っているわけではありませんが、不実をなさる方ではありません」
 最初を思うと嘘のような台詞だが、真実思っていたことだ。
 彼は高潔な人だ。厳しくも暖かく、時々とても不思議な安堵をくれる。
「シンフォード様は、信頼には信頼を返してくださる、義理堅く、正義感に溢れた王族でいらっしゃいます。それは出身を問わず理解できることだと思います」
 だから何か動いているのだとしたら理由があるのでしょう。呟いたエタニカに渋面を向けていた夫人は、杖を鳴らして背を向け、もういいと言った。
「他国の者に我が国の皇太子を評されるとは。それも盲目的な見方で。もういい、お前には皇太子はそのように映るのだろう。後で泣くことになっても私には関係のないことだ」
「お送りします」
「いらぬ。お前は早く真実を確かめて大泣きするがいい」
 それでも後ろを付いていくと、いつかの詰め襟の従者がどこからともなく現れ、夫人をさっと馬車に乗せて行ってしまう。
 門の近くまで行って見送っていると、別のところから視線を感じた。警備の兵士ではない、注意深い眼差しだと感じ、辺りを見回す。門の塔の張り出した見張り台に当たる部分に、背の高く肩の張り出した厳つい男性の影があった。
 階段を上っていく。高い場所では風の流れがまったく違う。エタニカでいる時には一つに結んでいるだけの髪が、夜が彼方へ戻っていく冷たい風にくるくると踊る。こんな時刻なのに見張り台に立ち、街に向かっていく馬車を見ながら同じ風を、太陽の熱を横顔に受けている。
「バルト将軍」
「おお、おはようございます。エタニカ様。こんな早朝にいかがなされました」
「この時刻に鍛錬しているのです。将軍こそ、ここにいらっしゃるということは……」
「夜半すぎに到着し、シンフォード殿下にご報告申し上げたところです」
 では、進展があったのだ。竦む胸を押さえた。夫人の指摘したシンフォードの行動の原因はそこにある。後ほど尋ねてみなければならない。
 そう思って、ふと気付く。どうして将軍は馬車を見ていたのだろう。警戒するのではなく、少し口の端を持ち上げた顔だったけれど。
「将軍は、あのご夫人をご存知なのですか?」
「……ん? エタニカ様、いつの間にあの方とお話になられたのです。滅多に表に出られない方なのだが」
 ある朝に出会って言葉を交わしたことがあり、今日はまだ二度目だと伝える。
「高貴な方だと思うのですが、人目を避けているような気がして、お名前を聞くのが憚られて」
「なるほど。確かに難しい方ですが、二度目のお目通りを許されたということは、脈があるということです。気に入らない者は徹底的に排除される、果敢な戦士のような方ゆえに。エタニカ様と気が合いましょう。あの方も、若い頃は苦労なされた。次にお目通りされた時にお名前を聞けるかと存じます」
 朗らかに将軍はそう励まし、エタニカは「楽しみにしております」と笑顔になった。
 不意に、バルト将軍は咳払いをした。
「ところで……エタニカ様。近頃、シンフォード殿下とご交遊を深めておると窺っているのですが」
「ええ、近頃はよく笑ってくださるようになりました」
「抱擁を許すくらいに、ですかな?」
「っ!?」
 見張り台の手すりに縋り付く。胸元にある鍵を本人のごとく握りしめ。
(あの人、いったい何を言いふらしてるんだ!?)
 ルルのように抱き心地が、などと話していたら。顔色を失うほど、口を開け閉めするエタニカに、歴戦の将軍は噴き出した。
「失礼申し上げた。冗談が過ぎましたな。いやあ、この爺も、あの殿下がそれほどまでお気に召したお方というのは初めて拝見しまして。その反応ならば脈あり、ですな? よろしければ、エタニカ様に慈悲をいただいて、殿下に隙を見せていただくというのは……」
「私も殿下も剣士です! 隙を見せれば獲られます!」
 シンフォードの腕なら確実に獲るだろう。
 頭の天辺から湯気が噴き出しそうだった。バルト将軍はお腹を抱えて大笑いを始める。
 その中で、朝の鐘が鳴った。城内で鳴らされる兵士の点呼の鐘だ。そろそろ城がすっかり目を覚ますだろう。今日も一日が始まる。北の方に少しだけ重たげな雲がかかっていた。少し、雨が降るかもしれない。
 戻って着替えを終えたエタニカは、シンフォードを訪ねることにした。毎日の報告は欠かしていなかったが、いつも彼が部屋に来てくれるのが気になっていたからだ。たまには自分から足を向けるべきだ。
(他意はない! 隙は見せないぞ)
 シンフォードは鍵をくれたが、彼の館はどの扉も開け放たれている。表には警備兵がいて、見回りも一日に数度不定期にやってくるようだ。訪問や用向きは彼の近従を通すため、留守の場合は用向きを伝えて出直すことになっている。だが、エタニカが訪問を伝える前ににこにこと笑顔で中へ通された。
「先ほど、ジョージアナ・クレイトン様がお見えになられました。よろしければ別のお部屋でお待ちになりますか? ご朝食をご用意させていただきます」
 ならば、自分の部屋で待つ方がいいかもしれない。常と違う予定にしたのは自分なので、挨拶だけして帰ることにする。
 部屋の前まで来て、足を止めた。扉がわずかに開いている。話し込んでいるようならそっと帰ろうと中をうかがって、目を疑った。
 女性がかがみ込んでいる。ジョージアナだ。その椅子にもたれているのはシンフォード。ジョージアナはうっとりと目を閉じている。その顔は、椅子にいる人と合わさる位置にあった。
 二人は、じっと動かない。エタニカの思考も痺れた。時が止まったように感じた。正面の窓から差し込む朝日が、二人を神々しく照らしている。常闇に似た密度の濃い影。
 金色に染められた男女の逢瀬。
 頭が殴られたくらいの衝撃的な美しさだった。
 ど。と、遅れて悲鳴を上げた心臓を押さえた。苦しい。痛い。そう叫んで暴れ狂う心臓を何とか鎮めようとしたが、代わりに声が漏れそうで両手で口を覆う。更に唇を噛んだが、全身に走る動悸のせいで身体がぶるぶると震えてうめき声を上げる寸前だった。
 足音を立てないように急いでその場を後にした。早足で玄関広間を走り抜けると、戸惑った様子で近従が声をかけたが、脇目も振らず逃げ帰る。
 どうしよう。部屋に戻る前に立ち尽くした時、そんな呟きがこぼれ落ちる。あまりの羞恥に顔を隠したが、自分の表情は自分が一番よく知っていた。今にも泣き出しそうで、頼りない幼子の、傷ついた娘の顔。
 私は。――私は。
 さあっ、と水の流れる音がした。雨は息をつかせぬ間に激しく、世界を嬲るように降り始めている。



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