その後どうなったかよく覚えていない。
 ルルがあっという間にエタニカを寝室に押し込め、寝かしつけたせいもある。よろよろと戻ってきたエタニカの様子がおかしいと気付き、言葉をかけ、今日は休んでくださいと言って装いを解かせたのだ。ぼんやりと目を閉じていると、シンフォードが訪れる音が聞こえてきた。起きなければ、と思ったが、自分がいなくても物事は滞りなく進むだろう。やはり呼ばれることはなく、代わりに、ルルが高い声で早口に何かを言うのを聞きながら、眠った。
 目が覚めたのは昼頃だった。閉ざされた帳を開く。窓に雫が当たり、集まって流れていくのが見えた。水で濁った硝子で、外は見通せない。雨脚は少し弱まったようだが、まだまだ降り続きそうだった。
 物音を聞きつけたルルが顔を出した。エタニカが微笑むと、彼女もほっとした顔をする。
「ご気分はいかがですか? お腹は空いていらっしゃいません?」
「うん、大丈夫だ。お茶だけ貰っていいだろうか。午後からユディナ様とピアノの稽古をするから、その時のためにお腹を空けておくことにする」
 笑ったルルは、それ以上何も聞かなかった。原因がシンフォードにあるのだと思い込んでいるようだった。間違っていると言えばそうと言えたし、正しいと言うには違っていた。けれど自身の心の問題を明かすには、エタニカは臆病に過ぎたし、物を知らなかった。何が正しいのかも、分からなかった。
 けれど、多分。思い違いではない、かもしれない。
 わずかに蒸した雨の日に、つんと香りの効いた香草茶を飲む。口の中で爽やかな風味が広がり、全身が涼しくなった気がする。もう一杯貰ってから出ようと思ったところで、スタンレイが現れた。困惑した、緊張の面持ちで告げる。
「ジョージアナ・クレイトン様が、アンナ殿下にお目通りしたいといらしてます」
 エタニカの心臓が跳ね上がる。ルルたちの視線とは意味が違うが、危機感は同じだったため、違和感を覚えられなかったらしい。アンナ王女個人を訪ねてきた人間は初めてのことだ。「どうします」とスタンレイが低く言うのに、拳を握った。
「用向きは聞いたか?」
「他国へ行って戻ってきたというので、土産を持ってきたと言っていました」
 多少会話する時間が長くなる可能性がある。一人かと聞くと、そうだと頷かれた。どうやら付添人もいないらしい。貴族の子女にしては珍しいことだと思い、そうかと思い直した。
 シンフォードの館に出入りできるのならば、この城を一人で自由に歩くなど雑作もない。誰も彼女に手を出すことはないのだろう。
「エタニカは留守をしていることにして、アンナ王女が応対する。ルル、頃合いを見計らって、私の具合を訊いてくれるか。彼女なら、気を遣って早めに切り上げてくれるはずだ」
 親切心につけ込むようで気が咎めるが、疑問を抱かれることなく客人にお帰り願うことが最重要だ。スタンレイは別の部屋にジョージアナを待機させるために行き、ルルは仕度を整えるべく動き回った。
 異国を飛び回ることの多い風変わりな令嬢は、金色のドレスで現れた。金の首飾りを華奢な首にかけている姿は優美で、エタニカは彼女の輝きに軽く胸を押さえた
「急にお邪魔をして申し訳ありません。また他国にいて、昨日戻ってきたのですわ。アンナ様に似合いそうな髪飾りを見つけたので、是非にと思って」
 差し出された金の飾りは、林檎の花を形作り、花弁の部分に月長石がはめられている。
「わざわざありがとうございます。とても綺麗ですね」
「喜んでいただけてよかったわ。今日は、エタニカ様は?」
「少し出ています。最近は、あまり一緒にいないのです」
 自分で自分について嘘をつくという居心地の悪さで苦笑しながら、椅子を勧めた。茶器の用意を始めるルルは、じっと様子をうかがっている。
「こちらの生活には慣れまして? フォルディアとグレドマリアはさほど生活様式に違いはないように思うのですけれども、慣れない国というのはやっぱり大変でしょう。ましてやアンナ様はフォルディアを一度も出たことがないのですから」
 そんな風にして、ジョージアナとの会話は終始世間話で、彼女が行ってきた土地や人の話ばかりになった。エタニカは注意深く彼女の話に耳を傾け、アンナとして逸脱しないよう平易な相槌に務めた。
「そういえば、フォルディアのコーティア・ヴェロー様にお会いしました。お借りしたままの本をどうしようかとお悩みだったようです」
「コーティア様? ……すみません、本を貸したのかすら覚えていないのですけれども」
 あらあらとジョージアナは目を見開き「もしかしたら聞き間違いだったのかもしれないわ」と申し訳なさそうに言った。こちらこそすみませんとエタニカは謝罪する。真偽が定かでない偽物のアンナ王女には、どんなことも「分からない」「覚えていない」で済ませる方が都合よかったからだ。
 ジョージアナは話し手として達者な人だった。エタニカも、こんな状況ならばいくらでも話を聞いていたかった。懐かしいフォルディアの、豪華で壮麗な建物や、国境の稲穂の景色や、南地方の蜃気楼の立ち上る夏の盛りを聞かされると、見てみたいという気持ちが強まる。けれどエタニカは心から笑うことができなかった。
 わだかまる澱のせいで、息が詰まる。
「姫様。具合はいかがですか? 気分が悪いと先ほどまで寝ていらしたでしょう。今日はピアノのお稽古もなさるのではありませんでしたか?」
 打ち合わせ通りに言ったルルに「ごめんなさい、大丈夫」と応えると、ジョージアナは目を見張り、すぐに立ち上がった。
「言ってくださればよかったのに! わたくしったらアンナ様に無理をさせてばかりだわ。そろそろお暇いたします。またお茶会に来てくださいますわよね?」
「ええ、もちろん。フリーア様にもよろしくお伝えください」
 慌ただしく支度をするジョージアナと別れの言葉を交わす。ジョージアナは「馬車を用意してもらえる?」とルルに頼み、彼女が快く了承してスタンレイたちに告げるべく出て行くと、不意にその扉を閉めた。
「……え?」
 閉めた扉に背中をつけ、外から開かぬようにしているジョージアナを、エタニカは呆然と見つめる。がちゃりと把手が回る。だが、彼女は手際よくそこに首飾りをかけると、開閉部分をまたぐようにして鎖を何重にも巻き付けてしまった。「姫様!?」と少しだけ開いた扉からルルの切羽詰まった声がする。
「何か切るもの、剣を貸して! それから隣の部屋から入って!」
「鍵がかかってます! 取ってきます!」
 扉を叩く音、把手の回る音、二人の名を呼ぶ声。焦燥と困惑と混乱の渦の中、エタニカは何も分かっていなかった。軍人の感覚は、きっとこの短い日々の中で知ったものに鈍らされたのだ。咄嗟に逃げるべきだったのに、ジョージアナの手が迫った瞬間にしか動けなかった。
 腕を拘束し地面に叩き付けるべきだったのを、相手は丸腰の貴族令嬢だと制する内側の声に従ったために、反撃が遅れた。一度掴んだ手を離してしまう。
「鍵!」
「早くして! 姫様が!」
 しかし、それよりも早くジョージアナの手がベールを掴む。エタニカの稚拙な思惑、大掛かりな嘘とシンフォードとの秘密が。
「あ……っ!」
 ふわりと落ちたそれに、飛び込んできたルルとスタンレイが言葉を失う。
 興奮で紅潮させていた顔を、今はすっかり青ざめさせて、ジョージアナは震える唇を開く。
「まさか……あなただったなんて。――エタニカ様……!」
 なんてこと、と声音は怖気を震っている。
 衝撃を受ける彼女たちから目を逸らし、エタニカは告げる。
「シンフォード様をお呼びしてほしい。この騒ぎは、他の人々には出来るだけごまかして」
 嘘は、続けなければならない。けれど、エタニカは自覚した。はっきりと。敵が迫る直前の静けさと同じ空気を嗅ぐ。
 もう、終わりが近い。
 暴き立てたジョージアナの方が悄然としている。不思議なくらいに静かなエタニカはシンフォードを迎え入れ、今度こそ厳密に閉ざされた扉と警護の元に、事の次第を説明した。冷たく簡潔なそれらは、会ったばかりの頃のシンフォードなら口を挟むことがないであろう完璧な報告だ。騎士らしい物の言い方をする己に、エタニカはそれと知られないよう眉をひそめる。
 シンフォードは座り込んだジョージアナを見遣った。
「会ったときに妙に近付いてくるので、様子がおかしいと思っていたが」
「……あなたも共犯だったのですね、シンフォード。ご存じないのかと、秋波を送って聞き出してみようと思いましたのに。あなたはやっぱりあなたでしたわ」
 疲れたように言って、笑う。
「一体、どうして。こんな茶番を演じる必要があったのですか。これは、フォルディアの咎ではないの」
 反論しかけたエタニカに先んじて「問題はない」とシンフォードが言った。
「問題がない? どこがです!」
「結婚相手は彼女になるからだ」
 ジョージアナは眉をひそめた。結論を先んじて口にする彼は、それが策なのか真実か分からない物言いになる。この時はまた意味不明だと思った。
「書面の上で婚約を結んだのは確かにアンナ王女だった。だがここにいる彼女も王の血を引いている。事態を説明し、彼女が欲しいとフォルディアに親書を出す。もう書類は作ってある」
 あんぐりと口を開けたジョージアナはやがて呻くように言った。
「……それでいいのですか、エタニカ様」
 流れるように見たエタニカの眼差しは、澄んでいた。はいともいいえとも言わず、シンフォードに目を移して、真実なのだと悟る。
 わき上がった熱を、押し込める。喜色を浮かべてはならない。そんなことはできない。結果、問いかけを無視して、目の前にある疑問を口にした。
「ジョージアナ様。どうして、私がアンナではないと知ったのですか」
「確信を得たのは先ほどです。わたくしがお渡しした髪飾りは、元々アンナ様のものでした。けれど見たことがあるとも、自分が持っていたものだとも仰らなかったでしょう」
 まんまと引っかかったのだ。後の物の貸し借りの話は念を入れたのだろう。
「何故確信を得ようと行動されたのです」
 ジョージアナは、深く、長く息を吐いて、肩を落とした。
「先日までフォルディアにおりました。そこで、お会いしたのです。――アンナ王女殿下に」



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