父についてフォルディア王都を訪れ、その日も毎度のように王城のあちこちを見てまわっていた。いつもそこにいない訪れ人だったせいだろうか、初めての小道を見つけたが、それが隠されていたのだと気付かず、意気揚々と進んで行った。そこで、会ったのだという。
「フォルディアの、城を戴く都の、王の住まうそこに。アンナ様がいらっしゃいました。そうして『まあ、ジョージアナ様』と弾んだ声で呼びかけられ、そこでわたくしは、それまでアンナ様だと思っていた声が、違う方のものだと気付いたのです」
 どうしてこんなところに。呆然と呼びかける知人に気付かない様子で、無邪気に王女は言ったのだという。
 わたし、今、ここで夫と暮らしているのですわ。
 ジョージアナでなくとも確かめに来るだろう。言うべき言葉も見つからないほど、アンナの振る舞いは常軌を逸している。シンフォードは、訥々と語った彼女に静かな口調で口止めを頼んだ。しかし、ジョージアナは厳しく言った。
「あなたなら収められるかもしれません。けれどそれとこれとは」
「言い分は理解する。だが、これ以上長引かせるつもりはない。このことを知っているのは君だけだな」
 ジョージアナは、詳しいことが聞きたいと食い下がったが、シンフォードが追い返した。話がまとまったら報告する、必ず、と念を押してようやく引き、エタニカにまっすぐな目を向けていった。誤りを正し、真実を明らかにしてほしいという意志だった。
 シンフォードはさらにルルとスタンレイを外に出し、室内は完全に二人きりになった。
 雨が続いている。日が高いところにあるのに、雲が厚くて外が暗い。雲の道だった北の山々は大嵐だろうか。それとも、もう降り止んだのだろうか。アンナのいる、フォルディアは。
「このような形で告げることになるとは思わなかった」
 エタニカは微笑んだ。
「見え透いた嘘を。私に何も告げず、すべてを終えてから言うつもりだったのでしょう?」
 二人の視線が交わる。だが決して甘いものではなく、エタニカの目は追及に光っていた。
「私をフォルディアの王女とし、この国の妃に迎え入れる。――ご冗談も大概になさってください。私は王族ではありません。その資格を有してもいません。真実アンナの身代わりになることは不可能です。可能ならば、最初からそうなることは厭わなかったでしょう。それが私の義務ならば」
 他人との交流を後押ししたのは、それが後日エタニカのものになるから。アンナだという嘘がなくなれば、この国で培ったものはエタニカの繋がりになる。あの時すでに、彼はエタニカを据える気でいたのだろう。気付かなかった自分が愚かだった。
 もし王族としてのエタニカが存在していたのなら、アンナの代わりに嫁ぐことに異論はなかった。それが果たすべき義務であり、王女の仕事だ。だが現実はそうではない。エタニカはそうはなれない。絶対にだ。
「いい機会だと、思っていました。私の愚かさを、どうか弾劾なさってください」
「その必要はない」
「あなたの婚約者はアンナ・シア王女です、殿下」
「何故、貴方ではいけない」
 シンフォードの言葉と行動は、エタニカの呼吸を止めるのに十分な威力を持っていた。右手首を捕らえ、あっという間に近付いた距離、伸ばされた腕に抱きしめられる前に反射的に抵抗し目を上げていた。シンフォードに燃えているのは、怒りと同じ、激しい感情だった。
「貴方はフォルディア王の娘だ。アンナ王女は逃げた。なら、貴方が」
「言わないでください!」
 絶叫だった。絹を裂いた悲鳴ではなく、命令と同じ声だった。何故なら、それがエタニカだった。剣を握り、戦場を駆けた、剣の姫と呼ばれる女戦士だったからだ。
「私は、あなたに嫁ぐことはできない」
「何故」
 喉の奥から乾いたものが込み上げた。自分に対する嘲笑であり、彼の愚かさを笑うものだった。顔は歪んでいた。けれど、真正面からシンフォードを捉えた瞬間、世界のすべてが曖昧になって半透明に沈んだ。熱いものがせり上がる。声は震えた。
「両の手を血に濡らした王妃があっていいはずがない」
 シンフォードが二つの手を捕らえる。
「エタニカ」
 初めて名を呼ばれる、その悦びに身震いする。
 あなたに名前を呼んでもらえた。それだけでこの名は尊い。ここにいる価値があるのだと感じられる。日陰の、名もなき影として消えていくものではないと錯覚しそうだ。
 その熱に流されてはいけない。
「和平のための婚姻に、対国の民の命を奪った王妃がいていいとお思いですか。私はこの国の兵士を斬りました。何度も。まるで藁の束を相手にするように何も考えず!」
 恨みと憎しみをなかったことにはできない。血は流れ、戦った者だけでなく、多くの者が苦しんだ。怯え、傷ついた。大地が汚れた。憎しみは徹底的に刻まれた。人に。傷に。大地に。心に。皆、少し痛みに慣れただけだ。見えるところに傷が、自身の自由を奪い続ける痛みがあるのなら、誰も憎悪を忘我することはできない。その瞬間の恐怖と辛苦に苛まれ続けた心が、いつかきっとこの国を腐らせる。
 それらの原因を、エタニカは一部負っている。国が決めた、抗えなかったとは言えない。
「この手は貴方が守ろうとした命を刈り取ったもの。ぬぐい去れない、そのつもりもない、私が負っていく罪。剣を握ったのは私。生き残ると決めたのは私です。後悔はない。けれど、許されない」
 シンフォードの力が強く、手首が悲鳴を上げている。だが、胸はもっと痛かった。
 ここで、泣き叫んで縋ることができたなら。
「アンナでなく私が立つかぎり、グレドマリアの国民は憎しみを忘れることができなくなる。だから、貴方と私の結婚は、最初から、有り得ないのです」
「そんなものはどうとでもしてみせる」
 頭を振る。
「私と国ならば、あなたは国を選ぶ方です」
 強く美しく気高く、残酷で間違いのない王族のあなたは、いくつかの結末を導こうとも、そこに付随する犠牲を決して零にできない。零に近付けることはできるが、人とは生き物で、世界は一人で回るものではないからだ。
「フォルディアに戻るつもりか」
「アンナを連れ戻しに行きます。あの子は義務を疎かにした。城にいるのなら、フォルディア王が噛んでいる。何か企みがあるのでしょう。出発の前にグレドマリアに優位な証拠を残していきます。私がナラのように口封じをされたら、それを公開なさってください」
 いつかお尋ねになりましたね、とエタニカはうっすらと笑った。
「愛する妹の幸せと義務を秤にかけた時、義務を選べるのか。――選べますとも。私は、今、とても怒っている」
 シンフォードは手を離さないでいる。どこにも行かないようにするためだと思った。もしくは、縋っているのかもしれない。
「後悔する。必ず」
 例えそうだとしても、選択肢はない。
 この人の差配ならば、きっとエタニカを閉じ込めたまま、己の望む通りに事を運ぶことができただろう。だのにそれをしないのは、エタニカの言葉が彼の心の内を突いているから。彼はやはりエタニカが描く理想の王族で、揺るぎなく清廉な人だ。卑怯な手を厭う真直ぐなその心を、少しだけ不器用な言葉の並びを――好きになったのだ。
「私は貴方を」
「敬愛しています。誰よりも。きっとあなた以上の方には出会えない。ですが、それ以上にはなりません」
 決定打を聞く前に笑みを浮かべて告げる。
 愚かなエタニカ。最初からそうだったけれど、今はなんて罪深い。嘘が巧くなった。
 シンフォードが手を離す。
 きっと最後だ。エタニカは願い、祈った。両手こそ組まなかったものの、敬虔に頭を垂れて。
「どうか、よき王におなりください。国と民を愛し、家族を守る、歴史に刻まれる賢君に……」
 小さな娘が膝を抱えていた。胸の奥で――抱きしめてほしい、と言っていた。
 けれど、答えは、返らなかった。



<<  ―    ―  >>



―  INDEX  ―