第五章
虚言、それでも
 

 立ちはだかった衛兵に告げる。
「フォルディア王に、エタニカ・ルネが帰還したとご報告せよ。アンナ・シア王女について至急申し上げなければならないことがある」
 フォルディア王国王都エストールの王城は、 白石を磨き、文様を削り、金を象眼している。曲線を多用する様式が流行したため、自然、文様は蔓草や花の形になる。花は遠目では粒のようだが、近付くと無数に壁に咲き乱れている。手の届かない高さに塗った金が輝いているのは、遠目からも見ることができた。芸術的に洗練された美しい建物ではあるが、そこに夢見る娘が隠れ住んでいるのかと思うとぞっとする代物だ。
 初めから通してもよいと言われていたのか、それとも剣幕に押されたのか、連絡が回るのは早く、すぐ入城することができた。だが、エタニカはそのまま謁見の間には行かず、驚く周囲を他所に、西の棟へと足を進めた。
 城の西に連なる山並みに、霧のような雲がかかっている。軽く勾配になっている城内西には、王子王女がそれぞれに有する離宮がある。シンフォードが自分の館を有しているように、フォルディアの王族にも住まいがあるのだ。だがアンナのそこは空だ。扉も窓も閉ざされているのを横目に、奥へ進む。
 ジョージアナは道が隠されていたと言っていた。エタニカは、西側に使われていない建物群があることを知っていた。
 夏の庭は、先日の雨で蒸している。奥はさほど手入れがされておらず、下生えこそ除去されているものの、木は茂るままにしてある。緑の香でむせそうだ。地面の感触が柔らかいのは苔が生えているからで、感触が不自然なところで足を止める。
 苔が剥げている。先の茂みは、枝を絡めて囲いにしてあった。それを両手で引き、進んでいく。獣道を踏み分けた経験のあるエタニカは、その道が踏みしめられた人工道だと感じた。
 果たして、白く小さな館が見えてきた。記憶に間違いがなければ、フォルディアの三代前の王が皇太子の住まいにしていたものだ。王位継承者を隠し育て、代わりに同じ歳の庶子を影武者にしていたという。祖父王はその出来事を厭い、この館を閉鎖したそうだ。
 静かな城のかすかな声さえ届かない、手のひらに収まりそうな小さな館。二階立てで、部屋は二つ三つあるだろうか。白い柵があり、花が植えられている。森の中にぽつりと立っているのがふさわしい佇まいだ。
 フォルディアへの帰還は、グレドマリアの人々に阻まれなかった。恐らく、シンフォードが言い含めたのだろう。どうして突然あんなに甘くなるのかエタニカは疑問だったが、ルルが呟いていたのを思い出した。
「知りませんでしたわ。殿下は、心を預ける方を見出した時、その方の何もかもを受け入れてしまうのですね。その方のすべてを許してしまわれるのですわ」
 エタニカは許され、ここにいる。身勝手さ、無知と愚行を受け止められて。だからこそ果たさねばならない。フォルディアの守護者の一人としての矜持で足を踏み出す。
 何気なく表を覗いた内側の人影が、慌てて飛び出してきた。エタニカはその女官の肩を掴んで押しのける。ずかずかと入り込んで、一瞬立ち止まった隙に、女官がさっと脇をすり抜けて二階へ昇った。
(そこか)
 扉に鍵をかけられる前に腰から鞘ごと抜いた剣で閉扉を阻むと、ひっと悲鳴が上がった。
 きい、と扉が軋みながらゆっくりと開いてエタニカの姿を現す。椅子から立ち上がった娘は、取りすがった女官を支えながら、まあ、と愛らしい驚きを漏らした。
 エタニカは、失望のうちに名を呼んだ。
「アンナ」
「お姉様! いつお戻りになったの?」
 仕上げ前の刺繍を置いて、小走りにやってくる。
「ご無事なのね? どこもお怪我はないのよね? よかった。グレドマリアから戻ってこないと聞いて、わたし」
「お前はどうしてここにいる、アンナ?」
 柔らかい有無を言わせぬ問いに、自らの言葉を引いたアンナは顔を背ける。後ろ暗いものがある仕草だ。その手を掴むと、激しく抵抗され、振りほどかれる。
「帰るぞアンナ!」
「わたしが帰るところはここよ、お姉様! わたしたちの生まれた国は、グレドマリアではなくフォルディア! お姉様、お姉様はいつからグレドマリア人になったの!?」
 叫んだアンナは、一転して静かに、堪える様子で囁く。
「お姉様。わたし、シンフォード王子とは結婚できません」
「できるできないの話ではない。結婚はお前に与えられた義務だ。お前自身の意志は関係ない」
「ライハルトを愛しているの!」
 エタニカは衝撃を受けて立ち尽くした。妹が声を荒げるのを、数えるほどしか見たことがない。その輝きは峻烈だった。髪を乱し、肩を上下させて、目が爛々としている。激しい光、感情。怒りは、アンナを燃え立つような美しさで覆っている。
 アンナは、愛を告白するのに、何故か憐れみの声で姉に言い聞かせる。
「政略の道具になるのはいや。わたしは、わたしの心のままに生きたい。彼は幸せをくれたわ」
「アンナ」
「恋をしたの。そして愛を知ったの。お姉様にはきっと、分からない」
「……アンナ、それは」
 お前は、自分がどこにいるのか分かっているのか。
 怒鳴りつけられればどんなによかっただろう。父に与えられた、小さな別邸。使用人たちは行き届いた気配りであるじの世話を焼く。毎日寝台には新しい敷布が、清潔な下着と衣服が、充分な食事が用意されて。――その上で心のままに生きたいと訴える。
「ライハルトを愛しているわ。彼のためだったら何でも出来る。何でもよ。彼もそうだと言って、わたしを連れて逃げてくれた。わたしたち、もう離れられない。お父様も、それでいいと言って迎え入れてくださったもの」
 ここまで来て零すアンナの涙は、美しかった。美しすぎて、憎らしかった。
「お姉様は、義務、義務とそればかりだった! わたしや、自分自身の幸せよりも、最後は仕事や義務を優先なさったわ! だからわたしは何も言わなかったの。言えば、きっとお姉様は許さない。わたしの幸せを、絶対にゆるしてくれない!」
 顔を覆う。これほどはっきりと絶望したことはなかった。
「行かないわ。グレドマリアには」
 閉ざされる。固く。何も見えない。自分が信じていたものが崩れ落ちていく音が、がらんと響いている。
 ようやく駆けつけた衛兵が、エタニカを引っ立てる。力なく引きずられ、謁見の間に放り込まれ、王がやってくるのを待たされた。
 膝をついている、鳩を縫い取った絨毯に、ここがフォルディアであると感じる。多くの人を欺く、愚かな王国の民である自分を恥じる。激昂が収まった後にあるのは虚脱で、今は何を考えてもため息と失望しかない。
(…………くては、……)
 内側で己が囁く。耳を澄ました。
(グレドマリアに、帰らなくては)
 そのことを思った瞬間、かっと熱が生まれた。身体の隅々まで行き渡り、立ち上がるための力になる。右手に触れたところに、古びた鍵があった。
 ゆるりと立ち上がったエタニカに、兵士たちが気色ばんで駆けつけてくる。そこへばたばたと足音がして、何者かがやってきた。息を切らし、青ざめた顔をした、クエド外交官だった。
「……っ、こんなところで何をしているのです!?」
「確認すべき事項があったので、戻ってきたのです。ですが終わりました。私はもう帰ります」
「何を……待ちなさい! あなたをこのまま行かせるわけにはいきません」
 武器は取り上げられているので丸腰だ。だが衛兵から槍を奪い取るくらいは容易に出来る。
 何としても、帰らなければならない。じり、と腰を落としたところで、来臨の知らせがかかった。兵は引き、クエドは後ろに下がって膝をつく。エタニカは、不敬だと知りながらそこに立って出迎えた。
「エタニカ・ルネ。よく戻った」
「ご健勝何よりでございます、陛下。ですが、私は今からグレドマリアに戻ります」
「ならぬ」
 王の返答は端的だった。それでもなお、エタニカは戻ると言い張った。
「お前が戻る国はグレドマリアにあらず。我がフォルディアである」
「いいえ。私の心はグレドマリアにあります。不忠と思し召されるなら、どうぞ追放を」
 追従してきた重臣たちに顔色を変えた者たちがいた。エタニカの言葉は裏切りの宣言だ。動揺を見せたものは、アンナの一件に加担している者たちなのだろう。
「それもならぬ。お前はまだ有用であるから」
 王は大儀そうに言って椅子に腰を下ろす。
「なにゆえアンナ・シアを降嫁させたか。それがあの王女の能力であった。子を産むしかできぬ」
 目を見開く。これが父の言葉かと思うと殴られたに等しかった。
「だが、お前は違う。お前の剣技、武功や名声はこの先もお前の価値を高めゆくであろう。それゆえ、お前は他国にやらぬ。まだこの国でしてもらうことがある」
 つまり、有用である。そう国王は言っているのだ。
 恐れに突き落とされながら、しかし、エタニカは罪の味を噛み締めた。これほどまでに打ちのめされながら、甘美な悦びがなかったといえば嘘になるからだ。父王が自分の価値を認めている、必要としているということは、王族として隣に立つことが許されないエタニカに、暗く甘苦い幸福を味わわせた。
「いったい……いつからこのようなことを。王女に手を貸したのは陛下なのですか」
 エタニカの脳裏に、推測でしかないが有り得るかもしれない真実が閃く。逃亡していた三人は、何らかの不慮でならず者に囚われそうになった。ライハルトはアンナを守ることを選び、ナラだけが捕まった。アンナたちはフォルディアに逃げ込むことに成功し、父王にナラの救出を願っただろう。囚われた女官は一人、恐ろしい思いをして、唯一頼みの綱であるエタニカに助けを請うた。だが、それよりも早く、話を聞いたフォルディア王が刺客を放つのが早かった――。
「王女が戻ってきていることを知られぬために、女官を始めとした罪のない者の口を封じ、グレドマリアを欺き続けようとしたのは、すべて陛下のご指示なのですか。陛下、何故講和の道に逆らわれるのですか!?」
「偽りを始めたのはお前の選択。お前が王女の不在を隠すとは思わなかった。本来ならばすでに勝敗は決していたはずだった」
「勝敗」繰り返した言葉の不吉さに血の気が引いていく。
「和平を結ぶつもりはなかったと仰るのですか。また戦を」
 物憂げに王は言った。
「フォルディアはまだ敗北していない。我が策は尽きておらぬ。アンナ・シアが我が手に戻ってきたことは、偶然とはいえ幸いであった。逃げ出すなど愚かな王女ではあったが、おかげでお前が戻ってきた。エタニカ・ルネ。お前はよく敵国を見聞きしたはず。グレドマリアの情報を伝えよ。それで我が国の勝利が決まる。アンナ・シアも、お前も、よき盤上の駒となってくれた。おかげで、フォルディアは何も損なわずにいる」
 ぶるぶると震えていたエタニカから、力が抜けた。
 顔を上げる。王は眉を寄せた。階上の王を見るエタニカの目は、冷たく澄んでいる。
「なんと愚かな王か」
「不敬な! 我らの王を侮辱するか!」
 クエドの叫び声が上がる。エタニカは眼前の王に、くつりと喉を鳴らした。
「あなたは、絶対にあの方には勝てない。あの方の、足下にも及ばない」
 フォルディア王は立ち上がった。更に高いところからエタニカを睥睨する。目の下の隈が濃い。皮膚がたるんで、目元にも首にも黒く重なっている。疲労と年齢。冷酷な光をたたえた刃の輝きに似た眼差しは、避けられぬ衰えに気付けば恐るるに足らない。何と小さいことかと思う。怒りを表したのが間違いだ。
 この王は、自らの力を誇示したいがために愚を犯している。
「愚王として民の記憶に刻まれるがいい。フォルディアは近く滅びる。何のことはない、国を治るべき王家の血によって!」
 そして私も例外ではない。
 呪いを放ったエタニカは背後から殴られ、床に這いつくばらされる。朦朧とする意識の中でなおもその目で父という繋がりのある男を見上げる。光の当たり具合が変わったせいで、男の顔はどす黒い。
 呪った者は、自身も呪われる。フォルディアに戻ってきた時点で、エタニカは自分の命が潰えていることを知っていた。ならば道連れにするまで。あの国を守るために。
 袂を分かった娘に、捕らえよ、と男は言った。



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