薄暗い地下に光が射す時、それは妹の訪れだ。煌煌とした手灯りを持って、湿気た石牢を覗き込んだ王女は光に包まれている。お姉様、と小さく呼びかけられる。エタニカは隅の闇に身を潜めたまま、愛した妹の声を聞いている。
「お可哀想なお姉様。でもお姉様も悪いのよ。お父様に逆らうなんてだめ。ちゃんとお父様に謝りましょう? わたしも一緒に謝ってさしあげるから」
「……ライハルトはどうしたんだ?」
 声がしょんぼりとする。
「お父様の命を受けて、国境に行っているの。手紙が来たけれど、まだ帰って来れないのですって。ああ、そうだったわ……」
 ちゃんと渡しておいたから、と囁く。番兵は遠くにおり、アンナからなるべく離れるよう、彼女の女官が目を光らせている。過保護もたまには役に立つとエタニカは密かに笑う。
 どんどん嘘が巧くなっていく。
 アンナを唆して、エタニカはシンフォードへ状況を知らせる手紙を送らせていた。潜伏していたスタンレイが無事に受け取っていたなら、すでに早馬でアレムスに到着しているだろう。戦が始まるかもしれない。その時、エタニカの命は終わる。自分が送られるのはきっと前線だ。それまでここから出ることはない。
「わたし、一生懸命にお父様にお願いしているのよ。お姉様を許してくださいって。お姉様は責任感が強くて、一人で抱え込んでばかりだったもの。お姉様の頑張りをわたしはよく知っているわ。フォルディアを裏切ってグレドマリアに行くだなんて、何か理由があるのでしょう?」
 期待と信頼で青い瞳を微笑ませるアンナ。愛おしかった妹。守ろうと思った。ひいては国を守ることに繋がると思った。この身を捧げるに値する、可愛くて清らかで少し愚かな、心優しい妹だと思っていた。
「お前には失望したよ、アンナ」
 優しく、ひどい言葉が出た。
「……お姉様?」
「私がこの身を捧げるのは。血を、流してもいいと思えるのは。たった一人、あの方だけ。シンフォード様だけだ。フォルディア王でもないし、お前でもない」
 絶句して、目を見張り、何を言っているのだろうと震えている妹に、柔らかい憐れみを注ぐ。優しく無知で愚かな王女。守ってやりたいと思っていたけれど、この娘はそれを踏みにじった。
「お姉様……どうして、わたしのことを、嫌いになったの?」
 ぞっとしてよろめいた姿に、可哀想にと思いながら慰めの言葉をかけてやれないエタニカは残酷な人間なのだ。
「わたしよりも、シンフォード殿下を選ぶの?」
「そうだ」とエタニカは目を眇めて告げた。
「お前も、選んだのだろう?」
 アンナは可憐な唇を結んだ。花びらが水に濡れて小さくなったようだった。
「愛しているの?」
 エタニカは黙っていた。
 愛なのか。希望なのか。かつては憎しみと恐れだったこともある。
 側にいたい、見ていたい、守りたい、感謝したいと願う心を、完全なかたちで言い表すことは、器用でないエタニカには不可能だった。
 結局、答える必要を感じず、そっと目を閉じた。
「……なら、お姉様も幸せになるべきだわ。王族だとか、国だとか、そういうものを置いて、自分の幸せを追い求めてもいいはずよ。お姉様には、その資格があるわ」
「この想い(こい)は叶わない」
 己の言葉に打ちのめされ、唇を歪める。
「叶えられるものではない。叶えるべきではない。不幸になる者が多すぎる。それは、私自身の幸せと天秤にかけていいものではないのだよ」
「どうして、いつも自分をないがしろになさるの?」
「だったら、お前は大事にしてくれるのか?」
 アンナは息を呑んだ。
 蝋に混ざり物があったのだろう。蝋燭の火が、小さくなる。
「…………お姉様はいつも、自分を殺していた。わたしは、そんなお姉様を――」
 何事か呟いたアンナは裾を握りしめると、そこを去った。絞られた横顔の、目尻に涙が見えたけれど、ため息しか出なかった。
 今度こそ、アンナはエタニカを嫌う。いつものように「何か理由があるのよ」と信じることをせずに、人が身勝手なものだと知るのだ。
 その方がいい。
(お前は、これから一人で生きていかねばならないのだよ)
 何故なら、そこに、もうエタニカはいないのだから。

 どれほど、時間が経ったのか。
 突然、身支度をするように命じられたエタニカは、垢を落としてにおいを拭った後、制服である軍の衣装に袖を通し、御前に引き出された。
「何の御用でしょうか」
「そなたにだ、エタニカ・ルネ」
 王の近臣に投げられた書面を受け取る。その目が見開くのに時間はかからなかった。
 近臣は苦々しく言った。
「約束が反古になる前に迎えを寄越すと、そうあるのが読めるだろう。――グレドマリア王太后クリスタの御璽御名入りだ。いったいいつあの王太后と繋がりを得ていたのか」
 連絡も寄越さずに帰国するとはどういう了見か。音楽会はどうするつもりなのか。故国に急変があったのかもしれないと周囲が言うものだから、救援になればと人をやる。約束を破る前に帰ってこい。そういう内容が厳しい口調で綴られ、最後に王太后クリスタ・フェリーザ・グレドマリアの署名と、彼女の印が押してある。
 けれどもう約束はとうに過ぎているし――招かれたのは、エタニカではないのに。
 目を奪われたのは、その宛名と書き出し。
「『愚か者のエタニカ・ルネへ。今頃大泣きしているだろうからこの手紙を送る』……」
 不覚にも、熱いものが込み上げた。
 それみたことかと怒った口調で杖を鳴らし、目を吊り上げる人の姿が見えるようだった。
「『お前はすでに鍵を受け取ったはず』とあるが、これはどういうことか?」と近臣は詰問する。エタニカは服の下につけたままのそれを意識し、触れないよう注意深く手を下ろしていた。
 鍵。――これは、たぶん、あの人へ続く運命。
「エタニカ・ルネ。行って、果たすべきことを果たしてくるがいい。フォルディアに戻ることを約せるならば、かの国へ赴くことを許そう。誓いの証として、アンナ・シアを預かる」
「……王女を?」
「期日までに戻らねば王女を始末する」
 恐ろしいことを、言いよどむことなく国王は言い放った。
「すでにあの娘の信頼は地に落ちている。他国にやれるかどうかも分からぬ。グレドマリアの怒りを鎮めるために、処分を委ねる役目くらいは果たせるか」
 約束の日までに戻らねば、アンナを殺す。
 約束を守り帰国すれば、グレドマリアとの交渉のためにアンナを差し出す。
 どちらの選択も、涙を失わせ背筋を総毛立たせるには充分だった。


       *


 国境に来てなお、シンフォードは自身の確信が正しいと感じていた。エタニカ・ルネは、戻らない。祖母の親書を走らせても、そう思う。
 要塞で最も見晴らしのいい屋上に、緩い風が吹いている。豪雨が頻発する季節だから、王都はもしかしたら雨に降られているのかもしれない。大気はぬるく、土の匂いが強くなっていた。防備のために除草している要塞周辺はひどくぬかるむことだろう。
 詩人に謳われるエストール城の壮麗な都は、この国境のハルムから見えなかった。今まで見る機会もなかった。シンフォードが生まれた時、すでに二国間は緊張状態にあった。十代になった頃、戦が始まり、剣を取って戦った。
 だから汚れた手をしているのは彼女だけではない。自分もまた、罪なきフォルディア人を手にかけた。
 過去は消すことができない。
 どのように行動し生きていくべきなのか、罪人は常に考え続けなければならない。罪を犯した瞬間に、一生考え抜かねばならないという責任を負うのだ。
「私は」と近付いた気配にシンフォードは声をかけた。
「グレドマリアを滅ぼすのだろうか。私のせいで、我が国は敗北するのか」
 自国の民を死へ追いやる。他国の民の血で汚れた椅子に座る。そんな己を忌まわしく思う。
 傍らに立ったロルフは肩を竦めた。
「そうならないように僕たちがいる。お前に白旗を揚げさせるつもりはない。それに、いつだってお前はそう言いながらも成果を上げてきたじゃないか」
 王太后の命令により国境に差し向けられた隊には一定の基準があった。バルト将軍が送られれば戦意ありと見なされて話が進まなくなる可能性があるため、結果、彼の門下が選ばれた。将軍の娘婿ロルフ・ノリスを長にした一分隊と、かなり少数だが、全員が小隊長という編成になっている。彼らの号令で各小隊が編成されるよう、兵士は近くに散らせてあった。
 戦意がないと見せかけているが、本当は真逆だ。シンフォードもクリスタも戦うつもりでいる。王太后クリスタは、すでにフォルディア王に和平の意志がないと知っていた。その機会を図って、今なのだ。
 またこの地が焼かれる。実りの季節を目前に、くずおれる民の姿が見えるようだった。
「迷いが生じた。彼女のせいだ」
 ロルフにはすでに経緯を話してある。興味深げに眉を上げた。
「彼女は私を、理想とする王族そのものだと言った。尊敬し、憧れていると。別れの言葉は歴史に刻まれるよき王になってくれというものだった。私はそんなものになれるとは思っていない。というよりも、どんな王になりたいのか考えたことがなかった」
 あまりにも美しい目をして言うものだから、言えなかっただけだ。彼女はシンフォードを美化しすぎている。
 生まれついた義務のもと、よりよくその仕事を果たすだけで、何かをよくしよう、成し遂げようとは想像したことがなかった男だ。必要なのは滞りなく続けることだと思っていた。
(王とは、罪人だ。常に犠牲に手を染め続け、考え続けるだけだ)
 常に罪を負う存在である王は、不意に断罪される。そこで、歴史が動き、世界が変革する。弑された王は旧世界の象徴として姿を消す。
 国に新たな繁栄をもたらすために、文化を保護するのか。他国からの侵略を防ぐために、軍備を増強するのか。それとも、商人組合と手を組み貿易を活性化させるのか。様々な道、多くの選択肢がある。国王となった時、シンフォードはそれを取捨選択し、最善を尽くさなければならない。その結果が国史となる。
「よき王になれるとは思わない。何になりたいか、考え始めたばかりだ」
 ロルフが肩を叩いた。
「姫は、お前に息吹をもたらしたんだな。だからお前はもう答えを持っている、シンフォード。何になりたいかは、お前の中にすでにある。常々、僕たちはお前が少し欠けていると思っていた。情熱や、激しさというものが。でもお前は来たんだ、ここに」
「あの手紙を受け取れば、来ないという選択肢はない」
 中身を知らないから何とも言えないな、と友人は笑う。
「どちらにしても負うのだろう、お前は」
 交わした目に笑って、突き出した拳を合わせる。まるで少年時代に戻ったような仕草に、友人はくすぐったそうに肩を竦めた。
 守らねば、と思う。ロルフを。ロルフの妻ウィノアや、彼の子どもから、彼を取り上げないように。同じようにして生きている民のために。
 地平の彼方から馬が来る。やってくる旗は鳩。フォルディア王家からの使いだった。
 使者は「近々エタニカ・ルネが参ります」と事務的に告げた。書面を受け取り、目を上げると、使者は不動の姿勢を取った。
「エタニカ・ルネの滞在に期間があることについて、また、アンナ・シア王女の所在について窺いたい」
「エタニカ・ルネは我が国の近衛騎士であります。いずれは皇太子殿下のため剣を振るう者。確かにお返しいただくとお約定いただきたく存じます。アンナ・シア王女については……こちらも、状況の把握に務めている最中です。申し訳ありません」
 知らぬ存ぜぬで通すつもりらしい。彼女がこちらにいない以上、シンフォードがアンナ王女逃亡の証拠として使うことができるのは、グレドマリアに残っている彼女の少数の部下、彼女自身が残した告発文。だが、こう言い張るところを見ると、証拠を突きつけても水掛け論になって泥沼化する。時機を見るべきだろう。
 くつ、と笑い声が響いた。
 緩む口元を押さえるシンフォードに、使者は硬直していた。手足が石になったかのように直立になり、戦々恐々と汗を噴き出させている。哀れなフォルディアの使者に、失礼を、と断る。
「伝令ご苦労だった。しばらく休まれるといい」
 見張りをつけるよう目を配り、ロルフが心得たと頷くのを確認して、再び屋上へ戻る。
 東に目を凝らす。思う影は現れない。だが、空が夜へ移っていくのをずっと見ていられると思った。この雲が晴れる頃、夕暮れの金色を背負って彼女がやってくる。
(……?)
 何かが、広がっていた。身体の内、腹部に近いあばらの、奥と表面に、じわりじわりと震えているもの。落ち着かなくなり、胸を掻きむしりたい衝動が起こる。服の上から押さえるが、止まらない。苦しいが、動けなくなるほどではない。痛いが、そうとも言えない。何かに集中せねばならないと考えて彼方へ目をやると、締め付けはさらに増した。
「……――」
 無意識に呟いたここにいない彼女の名は、その不思議な疼痛を別のものに変える。
 口の中に痺れを覚える。たった四つの音が、どうしてか甘い。
 繰り返し呟けば、甘いそれは焦げついて、ああ、とシンフォードは零した。ここにいない娘へ向けて、自嘲の微笑みを浮かべながら顔を撫ぜる。
 それが何と言い表される感情か、理解したのだった。
(愚劣の極みだ。ここまで堕ちるとは)
 恐ろしいのは、彼女がこの世から消えてしまうこと。彼女が戻ってくれば後はどうにでもできる。目標だけで過程を見ていない自分は、指揮官としては愚かの一言に尽きた。
「エタニカ……」
 想像する。どのように返事をするのか。はい、殿下。そう生真面目に応えるのだろうか。どうしたのだろうとこちらを案じながら、シンフォードの顔を見てふと表情を緩めればいい。笑った彼女は年相応で、ともすれば幼く見える。大きな目の、その瞳の色は、晴れ渡った空に昇る太陽の輝きと同じだ。エタニカ。はい、殿下。何かありましたか。想像するだけで、闇は温かい、光を、浴びる。
(貴方は、私を生かす。生かすために、生きるひとだ)



<<  ―    ―  >>



―  INDEX  ―