会えるとは、思っていなかった。
 そこにいた者がいつの間にかいなくなっていることは戦場の常だ。だからこそ守護を、刹那を逃さぬよう足を踏みしめる。目を凝らし、生きていることから逃げないでいなければならない。毎日の会話が遺言で、日々の決意が別れの覚悟だ。
 しかしそれが揺らぐ。
 シンフォードがそこにいた。手の届く場所にいて、自分を見ている。
 ハルムに留まり続けるか、進軍を食い止めに行くか、シンフォードが選ぶなら後者だとは考えた。だが、本陣で指揮していると思っていた。こんな、死の傍らにある闇深い森の中にいるとは思いもしなかった。
「別働隊ですか。なんて無茶な」
「貴方ほどではない。将軍の首を貰いにきただけだ」
 事務的に確認する。言いながら、足を止めず、ただ一直線に相手に向かう。
 世界の、余計な音が消えた。
 伸ばした腕がお互いを絡めとる。
 そうして、ぶつかるような荒々しい口づけを交わした。
 ずぶ濡れで風に打たれている場所での接吻は、溺れている者がしがみついているようだ。
「んむ……! は、……っ撤退、援護します! んっ!」
 二度目も同じように口づけられる。息が足りない。空気を奪うつもりらしい。何もかも食い尽くされそうだ。彼に牙があったならきっと歯を立てられている。
 相手の体温を奪うつもりで掻き抱く。心地よいと思っていた触れ合いは、今すぐ一つになって憩いたいとでもいうように、激しく、痛いほどにもつれ合おうとする。あの安堵が欲しいと思う。寄り添って、包まれていたい。
 そんな荒っぽさとは裏腹に、汚れた手袋で貼り付いた髪ごと、頬を、手の甲で柔らかく撫でられた。
「後ろは任せる。はぐれるな」
「は……っ、了解!」
 注ぎ込まれた熱さを拭うようにして頬を擦ると、シンフォードはふっと笑った。
 それぞれに部下の名を呼びながら、移動開始を叫ぶ。先頭を切るシンフォードたちの後尾につきながら、襲いかかってくる敵を斬る。水濡れで滑るため、握りが甘くなる。手が痺れるほどに力を込めれば相手を断つことができた。足下を流れ行く泥水のように、罪悪感が高揚で押し流されていく。すべてが終わる時に、何度も繰り返し、苛まれると知っているのに。
「ギナ将軍の首は取った! フォルディア軍は降伏せよ! 戦いは無用だ!」
 あちこちで不戦を促す声がする。最初に比べると戦闘は減ったが一時的なものだ。代わりの指揮官が立てば勢いは再び盛り返す。急ぎ山を下りて、本隊に合流せねばならない。数の上では圧倒的に負けているのだから。
 グレドマリア軍はすでに川向こうに撤退していたが、様子がおかしい。その数が膨れている。そして、果敢にも前進を始めているようなのだ。
「援軍が到着した模様! こちらに向かっております! エタニカ様、勝機です!」
 ぞくぞくと笑いが込み上げる。
「気を緩めるな! 無事に殿下を送り届けるまでは、己にも傷一つつけるなよ!」
「難しいことをおっしゃる!」
 それぞれの鋼の刃に、見えない灯火が宿った。このようにして炎は移り変わる。きらめいたと思えば潰えている。人の希望、苦しみ、絶望、喜びが巡っていく。敗者は勝者に、英雄は愚者に、闇夜は光の朝に変わる。
 傾斜が変わった。下りが緩やかになる。先導隊が敵を避けるため、迂回しながら本隊合流を目指す。
 フォルディアの追撃が止まない。シンフォードとエタニカがいることを知った向こうも、大将の首を取れば形勢を逆転できると考えているのだ。
(させるものか)
 シンフォードがいる。見上げていた頃とは違う。そこにいて、戦っている。後ろを任せてくれている。届くとは思えなかった高みにいる人は、エタニカの手を掴んで引っ張り上げてくれる。
(あの方は、私の……!)
 突然の衝撃。
 知覚できぬほどの、轟音。
 白く染まり、音が失われる。
 ――世界の何もかもが消えた後、音と雨の手と冷えた土の感触を取り戻し、エタニカが身体を起こすと、そこにいたすべての者がなぎ倒されていた。
 目眩がする。じりじりと、焦げ付いたような音がしていた。爆発、巨大なものが降ってきたのだ。震撼した世界に投げ出された者たちがよろよろと起き出し、呆然とした。
 森に、火の手が上がっている。
「落雷……? ……山火事になる!」
 轟々と燃える一本の木から、葉、枝と次々に燃え広がっていく。広がる速度は凄まじく、この大雨でも消火が追いつかない。とても戦っている場合ではない。留まっていては炎に巻かれて焼け死んでしまう。
「うわああ!!」
「俺たちは死ぬんだ! あんたのせいで!」
 混乱を来たした一部のフォルディア兵が、捨て身の攻撃に出始める。技も何もなっていないから、受け止めて蹴飛ばせば相手は転がって、這々の体で逃げ出していく。
 しかし、その叫び声は状況を変えた。進路をフォルディアの兵によって阻まれる。
 何も見えていない、虚ろな目は、感情をなくした死者のよう。
 ぞっとする。これは、私が今まで手にかけてきた者たちではないだろうか、と想像が止まらなかったのだ。
「……お前のせいで俺たちは殺されるんだ。このまま進軍しても使い捨てられる。負けても処刑だろうな。それがいつかという違いだけだ……」
 お前のせいだ、と誰かが言った。お前のせいで死ぬんだと声が続いた。お前が裏切った。裏切り者。お前のせいで。お前が。
「お前が国を滅ぼすんだ!」
 エタニカは、気を取り戻した味方とともに、行く手を阻む者たちに斬り掛かった。
 一時も怯まなかった裏切り者に愕然としたフォルディア兵は、エタニカが向かってくると分かった瞬間、背を向ける者、がむしゃらに向かってくる者とに分かれた。本気で迎え撃とうとし、しかし我を失っている者については適当にあしらい、手から武器が離れるよう、腕を打つ。逃げるがいいと吠えながら追い立てる。
 煙が、灰色に流れてくる。今や森の中は真昼のように明るい。口の中は、水と泥と炎と煙と、錆び付いた金属の味がする。
(そうだとも。私のせいだとも)
 そんなこと、もうとっくに分かっているのだ。
「遅れています! エタニカ様、早く!」
「エタニカ!」
 声がした。先んじているはずのシンフォードが戻ってきたのだ。
 敵が迫っている。シンフォードは危なげなく打ち払っているが、こんなところまで戻ってこなければ今頃脱出できていたものを、彼は何をしているのか。
 彼の近くに滑り込み、落とされた攻撃を払う。みしみしと音がしたので頭上を仰ぐと、大木が倒れてくるところだった。エタニカは警告を叫び、シンフォードを突き飛ばす。間一髪、下敷きにならずに済んだ。
「エタニカ!」
 ぱっと、顔面に火花が散った。
 灼熱を浴びせられ絶叫する。
 顔に斬りつけられたのだ。
 エタニカの血に濡れた剣を持つ兵士は、シンフォードによって倒された。秀麗な顔が歪むほど焦燥に囚われた彼は、怒鳴り声でエタニカの無事を問う。
「エタニカ!」
「う、あ……あ、戻って、くる、なんて……」
 駆け寄ってきた、その頬をひっぱたく。左手は顔を押さえているので右の拳でだ。呆然としているシンフォードをどやしつけた。
「馬鹿ですか、シンフォード様! 無用な怪我を負ってしまったではありませんか!」
「エタニカ……」
 心無しかほっとしたように呼ばれるが、彼の眉間の皺は消えない。
「傷はどの程度だ。目は傷ついていないか」
「目元の……近くまで、切られたようですが、眼球は恐らく無事です。血のせいで見えないだけだと思います」
 痛みが凄まじい。さんざん降ってくる雨のおかげで多少はましだが、顔に、燃えたぎった油を流し込まれたようだ。切れ切れの言葉が堪えているのだと気付かれないように祈りながら、真っ赤に染まった顔を背ける。
「もう全軍総崩れです。火がついたのは北ですか」
「明るい方角を見るとそのようだ」
「では迂回して本隊に合流してください。私はこのままハルムに行きます」
「今度の無茶は聞かない。貴方を連れて帰る」
 ぱきりぱきりと割れる音がする。木や、石や、炎が弾ける音だ。雨は強弱を繰り返し、二人の身体を交互に翻弄する。じっと立っていられないながらも、エタニカはシンフォードを見つめ続けた。
「私は、あなたの運命の姫ではありませんでした」
「違う」とシンフォードが言うのに、微笑んだ。まだ続きがあるのだ。
「けれど、あなたが、私の運命です」
 あなたがくれた。憎しみを、恐怖を、怯えを。そして夢や希望や理想、光と愛を。
 それだけでこの心は生かされる。汚れる手をただ忌み嫌うだけでなくなる。負った罪は肯定しない。人を殺した。傷つけた。でもこの手は、それだけではない。
「人には、光が必要です。愛や、理想や、夢や希望といったもの。あるいは悲しみや憎悪といった暗いものであるかもしれない。けれどそれらが、己が望む未来への鍵になるのだと、私は思うのです」
 そして、それはあなただった。
 シンフォード。憎み、恐れ、憧れ、愛した。あなただった。
「グレドマリアには戻れません。今は、まだ。私の、王の娘としてすべきことを果たしてから、必ずお伺いに上がります。あなたがこの国の光となられた時、必ず、お祝いに参りますから」
 細くなっていった声は、彼の胸の中に消える。
 あれほど欲した彼の胸は、エタニカに狂おしい悲しみの嵐にさらす。
 胸が熱いのは、この人に触れているから。この人の心の鍵がエタニカの胸にある。
 ――王を救った聖女フレドリカは、己の責務を果たした後、炎の中に消えたという。もし、エタニカが次にシンフォードの前に現れるのならば、その時は、騎士ではなく。
「……手助けしてやったのにと、王太后が怒り狂うぞ」
 ぎこちない手つきと表情でエタニカは彼に応える。
「再びお目通りする時、騎士でもなくフォルディア王の娘でもない私が、いったい何者なのかは分かりませんが……」
「その時は、私がその役目をやる」
 震えた。
 騎士でなく、王の剣でもなく、政略の道具にされるのではない、妹姫の影でもないその役をくれるという。彼に与えられた場所、この胸元の鍵にふさわしい役目。
 本当にそれが叶うのならば。
(シンフォード)
 あなたを、愛している。
 己の血で汚れた彼の胸を押す。気付かれてはならない。悲しみに立ち止まっていられるほど、エタニカの時間は長くない。
「……さあ、殿下。行ってください! 必ず参りますから!」
 シンフォードが離れる。名残惜しくこちらを見ながら、騎士たちを連れていく。
 そこに立って見送った。今や、エタニカの方が彼を見下ろしている。ほんのわずかな高さは、彼の優しさであり、自分の弱さだ。困難よりも、エタニカの意志を選んでくれた優しいシンフォード。その困難でもともに行くと言えなかった、エタニカの弱さ。
「本当に……」
 彼の姿が本当に見えなくなってから、エタニカは零した。
「嘘ばかり、巧くなった……」
 これこそ『老いぼれ狼』の血か。娘さえ偽り、裏切った王の血脈。ともに行けるわけがない。フォルディア王は確かに策士だった。虚言でさえ、策に変えた。
 エタニカがグレドマリアに亡命すれば、何らかの形でアンナは殺される。愚かしい妹であっても、見捨てることはできない。
 エタニカが選べるのは、このまま彼のために命を使い尽くすこと。
 その後は、きっと、何もかもが、元にあるべき形に戻るだろう。
 シンフォードとアンナの物語が、始まるのだ。
 側にスタンレイが来た。部下たちが号令を待っている。エタニカは剣を取った。血と脂が、雨水に流されていく。白刃は、まだ曇っていない。
「好きなところに行くといい。私に付き合わなくとも、自身の道を生きていいのだよ」
「今更ですね。最初から、こうなるんじゃないだろうかと思っていましたから」
「最初?」
「あなたの下についた時から、こりゃあまずいなと思っていたんですよ。うんと年下の女性に指揮されるわけですから、厄介事が来ない方がおかしいです」
 だから、いいんですよ。スタンレイはそう言って、エタニカの頭を撫でる。まるで、幼児を見守る父親か、妹がいる兄の顔だ。他の者たちも似たような顔で、少し、笑いを堪えているように見えた。
「よく頑張りましたね。さて、最後まで気を抜かないでいきましょう」
 込み上げた涙は流れるままに任せた。きっと、雨で分からないし、このくらいは、見ないふりをしてくれる。
「ああ。――行こう」



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