(解読不能)を発見。説得を試みましたが、聞き入れる様子なし。しばらく時間がかかると推測します。今しばしご猶予戴きたく存じます。



 ……あの子はただ逃げるための夢を見ている、逃避の手段に恋を使ったのだと思っていました。けれど、再会した彼女は、強い輝きを目に宿していました。それは今まで見てきたどんな無垢で夢見がちな娘の瞳よりも、まっすぐに理想を射抜いていました。その目で、彼女は彼を愛していると言いました。
 恋とは、義務を忘れるほどのものなのか、考えました。
 シンフォード様。あなたの顔が浮かびます。
 あなたに会って、尋ねたい。

 恋とは、愛とは、いったい何なのでしょうか。




       *



 女の力では首を飛ばすことができなかったが、首元から肩にかけて傷を残すことはできた。他人の剣、鈍った腕では、息の根を止められずに刃が骨の下を滑るのが分かった。王の忠臣の憎悪の声が迸り、戦闘が始まった。
 剣と馬を奪い、城を逃走したエタニカは、いずれが最短かを思案し、フォルディア軍を追う形でレディエ山脈を目指した。そこでスタンレイたちに出会えたのは幸運というほかない。エタニカが囚われていると知った彼らは、シンフォードの下を離れ、エタニカの救出を目論んでいたのだという。分隊よりも少数であるエタニカの隊は簡単に闇に紛れることができ、決して背後から敵がやってくることがないと信じているギナ将軍たちの側に出ることができた。
 ギナの目が完全に前方を向いた瞬間に、エタニカは突き進み、剣を振り上げた。深手を負ったギナは、支えられながら後退していく。追おうとしたエタニカはしかし阻まれる。
 雨で視界が利かない。雨なのか汗なのか、血なのか分からない。冷えて震える身体を収めるべく歯を噛み「ギナぁ!!」と怒声を上げる。ざんばらと降る雨と風の音のせいで怒声も剣戟も何もかもが同様に聞こえる。獣の咆哮のようだったエタニカの声も同じく。
 わああ! と鬨の声。あるいは、悲鳴。本陣の変化を嗅ぎ付けたグレドマリア軍が登ってきているのかもしれない。だが確認する間もなく、立ちふさがる敵を切って捨てる。背後で誰かが倒れ込む。迫った敵を部下が斬ったのだ。
「裏切り者! エタニカ・ルネ! お前に二度と平穏はない!」
 これは喋る藁束だ。躊躇していては殺される。だというのに、エタニカの目から熱が逃げてくれない。呼気が引きつり、吸い込むと小さな悲鳴になる。
 戻るつもりはない。なのに、戻れないという後悔が消えない、この、ままならぬ心。
「……すべて、覚悟の上だ!」
 振り返り、上に迫る剣を払う。元に戻って突き進んでくる刃を跳ね上げた。衝撃で跳ぶが倒れる前に踏み堪え、その反動をつけて前へ。相手が、己が身で剣を受け止め奪おうとする気配を察知して、代わりに肘で顎を打つ。
 終わらない。攻撃が止まない。血が流れる。雨が。けれどそれが、エタニカの選んだ道なのだ。


「退避っ、退避ぃー!」
 転がされるようにその場を離れさせられる。剣戟が背後に遠ざかる。
 体温を奪う雨に加えて出血で身体が冷える。歯の根が合わず、足下がおぼつかない。倒れ込みそうになって掴んだ枝は水に洗われ、固く湿っている。強く握りしめたせいで、破れた手袋から皮膚を突き刺した。逃げなければ、あれは、首を狙ってやってくる。
 外套が重い。雨が重い。身体が、動かない。エタニカの斬撃は、ギナの深手になっていた。
(さすがは、王がその価値を認めた娘……)
 黒髪を翻し、金の瞳を、猛禽のように鋭く細める娘。勇戦の者たちの中で見劣りしない、汚れを厭わぬ姿。荒ぶる獣のごとく光るその目は、ギナが誓いを立てた王と等しい輝き。
「前方から攻撃! グレドマリアです!」
 意識しない強制的な思案から、なんとか我に返り、霞む視界に目を凝らす。エタニカの隊が迫ってくると同時に、前方からグレドマリアの精鋭が来る。ギナは、自分が単独で逃亡させられたのを知って、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 何を、しているのだ。自分は。
 傷一つで逃げ出し、隊の指揮を放棄し、今頃軍は総崩れだ。立て直さねばフォルディアは敗北する。ギナの王に諦めを味わわせてしまう。
「……っ! 後方部隊と合流する! 進路開け!」
 腕から伝う雫が、柄を濡らす。
「フォルディア軍指揮官、ギナ将軍」
 低く呼びかけられた時、ギナの意識は一度切断された。
(馬鹿、な……!)
 氷の刃が触れていく。
 我に返ったギナは泥を味わい、燃える炎に襲われていることを知る。しかしその高ぶりは一気に冷えていった。動かない、手足。襤褸人形のようだ。その頭上から、黒い瞳が宣言する。
「――その首、戴く」
 総大将は、通常、本陣を構えてそこで指揮するものだ。一部の闘将はそれでも戦場に出て行くというが、ごく限られた者だけで、この男はそういった種類の人間ではないと思っていた。だが、目立つ白の外套を目印にしていたということは、つまり、最初から想定していたのだろう。それを利用するにしないにしろ、盤に石を打っていたのだ。
 木々が揺れている。風に。雨に。音に嬲られ、鋼と血で森を汚す異端者たちに怒声を響かせている。漆黒の世界。冷たい水に穿たれ続ける、常闇の場所で、ギナは処刑人とは別に足音のする方で、輝く瞳を見た。
 それは歓喜だった。悲嘆であり、怒りだった。
「シンフォード様」
 呟きが聞き取れたのは、ギナが剣姫のことを考えていたからかもしれない。
 あの娘の目はひたむきに王を仰いでいる。ゆえに、恐れたのだ。――「フォルディアは近く滅びる」。エタニカ・ルネが放った呪いは、思うところがある者たちに植え付けられた。怒りを投げつけたのに、それでも閉じられなかった、あの目。
 光を見つめ続ける、人が忘れてしまったそれを見続けるその瞳。
 シンフォードが腕を伸ばす。エタニカが、よろめきながら前へ出る。
 拙く歩み寄った二人は、屍の山の中で、離れられないとばかりに、惹かれ合うように強く、きつく抱き合った。



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