第六章
戦場、想いを結ぶ
 

 南部国境ハルム要塞に留まっていたグレドマリアの分隊は、各隊員を回収しながら、国境の防衛と、開戦の兆しありの知らせを持って王都へ疾駆した。
 フォルディア軍はグレドマリア王都アレムスを目指し、西進。北部国境にあたるレディエ山脈を越えることが予想され、北部各領主に向けて協力の要請が行われた。ラメルを治めるロルフ・ノリス子爵を中心に北部領主軍が形成される頃には、フォルディア軍レディエ山脈突破の伝令が走っていた。
 この時、グレドマリア北部東側にフォルディア軍一万三千、西側にグレドマリア北領主軍五千。南部国境ハルムに、フォルディア軍二千、グレドマリア軍八百。
 王都防衛に重きを置いたグレドマリアは、バルト将軍を中心にして兵を集めている最中であり、講和直前の裏切りに、未だ体勢を整えることができていなかった。
 しかし、絶体絶命であるグレドマリアの一筋の希望が、偶然にも東に滞在していた皇太子シンフォードと、彼の知己でありバルト・レド門下であるノリス子爵ら小隊長たちだった。


 夜の雨が肩を濡らす。
 騎士団長の外套が要塞にあったのは幸運だった。シンフォードがまず小姓にさせたのは、その外套に紋章を巨大に縫い取らせることだった。竪琴に麦と剣。グレドマリアの標である、音楽と、力と、人が得た豊穣を示す紋章。急ごしらえで雑であっても、遠目からは白い外套ゆえに暗闇でも輝き、フォルディア軍を釘付けにした。敵の心中にあるのは、間に合ったのか、という苦々しさだろう。本来ならばもう少しハルムに留めるつもりだったはずだ。
 戦闘は激しさを増し、グレドマリア防衛軍は確実に後退させられていた。敗色は濃厚で、影となってまとわりつく諦めが、兵士たちの剣を鈍らせている。
 だが何もかもがフォルディアの意図通りとはいかず、進軍は遅々としていた。シンフォードの指揮と、隊を率いることになった小隊長たちの働きが目覚ましいからだ。
「殿下! 領主軍が敵軍先陣を撃破、続いて第二陣を迎え撃っております!」
「深追いはするなと伝えよ。我らは壁だ。壁は動いてはならない」
 王都が準備完了すれば一気に退くことができるが、その知らせがまだ来ない。結果、兵を削がれながら下がっている状態だった。バルト将軍が援軍を出したと聞いていたが、それに期待するには、フォルディアの攻撃は凄まじかった。
 シンフォードもまた、勝てると思っていない。敵を壊滅できないのならば、守備に徹するのみだと考えるだけだった。相手は数で勝っているが、一つ一つを潰していけば、進軍はわずかでも遅らせることができる。
(フォルディア軍の動きは統制されきっていない。策によっては総崩れさせることが可能なはず。だがその手が見つからない。将の首を取るか……)
 考え始めたそれを打ち払う。
 状況が変わらぬようであれば現状維持、半刻後に撤退だ。雨は夜更けまで続くだろう。湿っている風は温く、近く霧が出るだろうから、その間に退くことができれば被害を抑えることができる。
「全軍に通達。半刻後に撤退。防衛をラメルまで退く。近隣住民の避難確認を開始」
 復唱した伝令に行けと命じる。
 しばらくしてロルフがやってきた。やけに思い詰めた顔をしているとシンフォードは思った。
「シン。命じてくれないか」
「賛成できない。一分隊を連れて敵将の首を取ることは不可能だ」
 冬の芽のごとく、深く潜んでいる将を見つけ出すことは容易ではない。焦れば為損じる。無茶無謀で苦難を切り開ける青さはシンフォードにはない。
 私情だとロルフは言った。
「クード伯の動きがおかしい。逃亡の恐れがある。もし裏切ってくれるなら万々歳だ。一緒に行って、ちょっと首をもらってくる。ラメルを巻き込みたくないんだ」
 敵国軍に攻め入られた地方は、略奪の憂き目に遭う。住民は避難しているだろうが、彼らの蓄え、財産、ありとあらゆるものが奪われるだろう。彼の治める村が痛めつけられてほしいと思っていない。だが、それは本人の言うように私情に違いなかった。
「お前も帰ってこないつもりか」
「このままだと壊滅だ。援軍が遅すぎる。相手の攻撃が早かったせいだがな」
 援軍が今どこにいるという連絡も来ない。だから早く撤退を命じなければならないというのに、抱くべきでない恐怖が身体を竦ませている。
 人が、国が滅ぶかもしれない。手の中にあるものを守る前に、それが他者によって奪われるかもしれないのだ。いくつかの戦乱を知りながら、己の立場が盤石であると信じていた愚かさをシンフォードは知った。
 そんな顔をするな、とロルフは笑う。
「というか、そんな顔を初めて見た。姫に感謝しなくちゃな。今までで一番お前らしい顔だよ」
「どんな顔だ」
「人並みに悲しい寂しいって顔。――殿下、ご命令を」


       *


 フォルディア西征軍将軍に据えられていたギナは、国王の信頼厚い忠臣だった。当時王太子であった国王に、幼い頃から学友として側につき、共に兵法などを学んだ。王はその頃から思索に耽る子どもで、周りとの交流を不得手としていた。そして事実、彼は周囲に興味がないことをギナは知っていた。
 王が生きているのは、自分と、世界と、他者という三つで大別されるものである。世界の中心は自分であり、他者が存在していることを認識していても、その他者が自分と同じように考え動く生き物だという意識が極めて低かった。それを悪化させたのは、彼の知略が彼の思うように人を動かしてしまっていたことだ。果てにつけられたあだ名が『眠れる狼』。森の賢者とも言われる狼は二頭以上の群で行動する。眠っている狼は、自分が群にはぐれたことに気付いていないのだ。知恵者であり、孤高であり、愚かでもある。揶揄のもとにつけられた名は、今はついに『老いぼれ狼』と、耄碌したことを嘲笑されていた。
 ギナは王の意志を汲み取ることのできる数少ない人物であり、この時も王が命じる前に、自分が出征を志願した。ギナは知っていた。王が、足掻こうとしていること。自身を取り巻く状況を変えるべく、周囲に目を凝らし始めたこと。老いていない、独りではない。愚王の誹りを免れたいと心を持ち始めたこと。
 手遅れにはさせない。老いようとも変わりたい、世界と関わりたいという思いがあるのならば。それを実現するための西進だ。ギナは、必ず勝たなければならない。
 勝利は確信に近付きつつあった。木の実を転がしていたようなものだ。固い殻に覆われていても、勝利という実はこの手にある。グレドマリアの歩みは牛のようだったが、ギナはそれを我慢強く追い立てている。しかし、焦り始めてもいた。本来ならばアレムスに向かっていたはずが、グレドマリア軍の意外な健闘に阻まれていたのだ。
(地の利はやはり相手にあるか。口惜しい。シンフォード王子がいなければとっくに突破できていたものを)
「ギナ将軍! 後方部隊が山脈を越えたとの由!」
 内心、やっとか、と苦かった。機動が遅い。戦が続き、兵は訓練を欠かさずにいるが、フォルディア兵士の錬度は年々下がるばかりだった。
「敵軍、撤退を開始した模様! シンフォード王子が後退していきます!」
「本陣、移動を開始せよ。進軍続け」
 時機だろう。勇将は引き際も知っている。敵国の王子ながら、シンフォードの手腕は見事なものだった。正直、ここまで足を止められようとは思いもしなかった。
 だが、ふと思った。勇将の下に弱卒はいないという。グレドマリアの奮闘は、それを体現しているのではないだろうか。あの王子は、やがて讃えられる王となるのではないか。そして、フォルディアは……。
(何を、弱気な。何のためにここに来たと思っている)
 外套を払う。雨を吸って重くなっていた。動き回る者たちを見ていたギナは、ふと見覚えのある兵士に違和感を抱いた。何故だろうと顔をしかめるが、腑に落ちない理由が分からない。
(挙動がおかしいわけではない。見慣れぬ者ではなく、きちんと我が国の騎士だ。移動の準備を始めて陣幕の片付けを始めている。だが……何故目につく? わたしの感覚は、何を知らせているのだ?)
 誰かに尋ねてみれば分かるかもしれないと、部下を捜す。直属の部下ではないあの男は、誰の隊の者だったか。戦の際、出撃を命じられる隊はほとんど決まっている。あれは、ハービスの部下だ。ハービスの上は。
 スタンレイ・ハービスの上官は。
 光が闇を切り裂いた。
 突風が吹き、雷が鳴り、閃光が走る。敵はそれらすべてを持っていた。風となって駆けつけ、雷のごとく現れ、閃光の刃を振り下ろす。その戦士の名を。
「エタニカ・ルネ――」

 エタニカは迷いなく故国の将をその剣で屠る。



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