「これは、我が血を分けた息子にあらず」
茫然自失となった者たちをそこに置いて、シンフォードはただ立っていた。我を取り戻した国民が城前広場に集まった数だけ騒然とし、重臣たちもどういうことかと悲鳴を上げているが、知ったことではない。言えるのは一つだけ。そこの女に聞いてみるがいいということだった。
「私は、アンナ・シアに触れたことは一度もない。それは、女官長、王妃側付き、すべての者が知っていることだ」
蒼白な面持ちで、女官長たちは項垂れている。
アンナ・シアは、グレドマリアへ生贄に寄越され、しばらくは失意の底にいるだろうと思っていたのに、それまでと同じく夢を見るかのようにふわふわと生きていた。誰も知らないと思い込んでいるのか、気まぐれで、我がままで、自分勝手に、守られようとしていた。
ゆえに、グレドマリアの者はアンナを庇うことはない。今は王妃側付きになったルルは最初からすべての事情を知っていたし、女官長は真偽不明の噂まで熟知していた。それでも評価の比重が相半ばで留まっていたのは、吹聴させたからだ。
シンフォードとアンナ・シアは仲睦まじい。
二人の結婚は二国を繋いだ。
シンフォードが何々という判断をしたのは、アンナ・シアの功績だ。
「この二年。嘘とはいえ、おぞましくて仕方がなかった」
赤子を抱いたまま、アンナはぶるぶると震えている。その美しさは花開かんばかりで、まだ残る幼さは可憐と謳われ、子どもを産んでなお衰えていない。むしろ、艶やかさを増し、これからの美貌を予期させる。
その何もかもを切り裂いてやりたいと思いながら生きていた。
「最初から、決めていたのね。わたしを突き落とすために、守るふりをしていたのね」
「そうでなければ復讐にならない」
この晴れの日に似合わぬ白い顔でアンナは唇を震わせる。王子誕生に沸き、素晴らしい王妃だと讃えるその頂点から、背中を押す。転がり落ちた王妃は、国民の手で引き裂かれるだろう。
この瞬間を、ずっと待っていたのだ。
「しょ、証拠がどこにあります!? アンナ殿下が不貞を働いたという証拠は!」
フォルディアから寄越されていたクエド外交官が生白い顔で吠え立てる。目をくれたシンフォードは、この上なく優しい微笑みを浮かべて相手を竦み上がらせる。
「ここがどこなのか忘れているようだ。ここは我がグレドマリア。私は、グレドマリア第五代国王シンフォード。私の意志が、法である」
差し出した手に剣が渡される。鞘を払った。白刃を向けられたアンナは引きつった悲鳴を上げて後じさる。子どもを離さぬ母性は見上げたものだが、そんなもので心動かされたりはしなかった。靴底で豪奢なドレスの裾を踏みつけると、倒れ込んだ、名ばかりの妻に迫る。
「不義を働いた者は死罪だ。教会の教えにも沿う」
「フォルディア王が黙っておりませんぞ……」
「病を得て床についている老王に何が出来る?」
外交官は今度こそ言葉を失った。早々と息子に冠を譲っていれば、多少なりとも打開策があったかもしれないのに、フォルディア王は未だ在位し続けていた。死の床で何を思っているのだろう。失意だろうか、執着だろうか。もしシンフォードが自由の身であったのなら、あの男の首を狩っていたものを、それをしなかったのは、ひとえにこの女への憎しみに尽きる。
彼女が守ろうとしたものを知らず。
彼女から愛されていることに鈍感だった、アンナ・シア。
「私情で国を乱されるか。愚王として名が残りますぞ」
止めたという体裁を繕うように、バルト・レド将軍が呟いた。そんなもの、と鼻で笑う。
「絶対に後悔なさいます! シンフォード様、あなたはいつだって、後からああしておけばよかったと後悔していたじゃありませんか。姫様を失ってどれだけ悲しまれ、辛い思いをしたのか、少しも話してくださらなかったのに、私が、お止めできないと分かっていて、こんな……」
ルルが涙を浮かべて詰る。乳兄弟の言葉には、わずかに胸が軋んだ気がした。
「私を王と戴いたそなたらに同情する」
どんな王になろうと構わない。エタニカが失われた時点で、夢などとっくに潰えている。
シンフォードは見晴し台に続く扉を閉ざした。鞘を置き、向こうから開かぬようにすると、復讐者と不貞を働いた王妃の二人になる。止める者が来る前にシンフォードはアンナの髪を掴み、叫び声に構わず引き寄せると、刃を髪に当てた。絶叫が上がる。止めて、やめてとそれしか言えないらしい。赤子が異変に気付き、激しい声で泣き始める。
「お姉様……お姉様!」
この期に及んでエタニカを呼ぶ。それがシンフォードに火をつけた。
「言っただろう。絶対に許さない、と」
閉ざされた扉の前でグレドマリアの臣下たちは力なく留まっていた。起こる悲劇を予感しながら、己の王の虚ろな眼差しの理由を厳粛に受け止めていた。事情を知らぬ者は右往左往し、動かぬ者たちに声をかけたが、王の振る舞いを彼らは敬愛ゆえに止めることができずにいた。
澄んだ音が響く。
木の杖で大理石を叩いたことで響き渡ったそれは、その人自身の姿とともにそこにいる者たちに敬意と沈黙をもたらした。
「王太后陛下」
この二年で更に視力を失った王太后は、目を凝らすために強く眉間に皺を刻みながら、白木の杖を鳴らしてやってきた。背後にはいつものように長身の従者を従えているが、小柄である彼女は、自身の底知れぬ威圧をもって一同を睥睨する。
「この騒ぎの始末。どのようにつける」
「我らには陛下をお止めする力がございません。王太后陛下。シンフォード様は、ただそれだけのために王位を欲されたのです」
「お前には聞いておらぬ、バルト・レド。私は、そこにいる馬鹿者に聞いたのだ」
人々は誰が来るのかと訝しい顔をして、静かな靴音が近付いてくるのを聞いている。
踵を合わせ、真っ直ぐに歩んでくる。人々の視線を受け、影から、日の当たるこちらへ。
黒髪がなびき、少し焼けた肌が美しい。それを彩るのは光の瞳。
握りしめていた胸元の拳を開いた。鍵の色は、長らく手の中にあっただけではなく、歳月と戦いで曇っているように見えた。何の変哲もない古びた鍵だと、見た者は皆そう思った。
そこから、太陽と月、星と水、空の光のすべてが溢れていく。
誰かが呆然と言った。
――運命の鍵。
さだめの扉が、音を立てて開いた。
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