「不義の王妃アンナ・シアをここに裁く。異議ある者はここに来て申し立てよ」
 広場が怒号に埋められていく。シンフォードを満たしていたのは、甘美なほどの憎しみだった。憎悪に焼かれた心は、女の不幸を、潰えていく未来を欲し、舌なめずりをしてあらゆる復讐を積み上げた。
 ゆえに、閉ざしていた扉が開いたときも、何も変わりはしないと嘲笑うつもりでいた。
「異議ある者が、ここに。――これは、フォルディア、そして私の罪でございますれば」
 滑らかな声。曇天に差す光のようなひとすじの音。何度繰り返しても同じものを聞くことができなかったというのに、何故今になってと、シンフォードは絶望のごとき恐れを味わった。
「エタニカ……」
 左顔を鈍色の仮面に覆い、お久しぶりでございます、と記憶よりも幾分か低い声で言って、エタニカは深く一礼した。
 二年経った彼女は、更に美しくなっていた。女性らしさが身につき、佇まいも、微笑も、成年のそれに近い。落ち着きと柔らかさ。強い意志が、彼女を清めている。その姿があまりに澄んで眩しく、シンフォードはかすかに喘ぐ。
「お約束を、果たしに参りました」
 シンフォードが辛うじて言えたのは、つまらない一言だった。
「……遅い」
 エタニカが苦笑する。二年前もどこも変わりのない、優しい呆れ。
「申し訳ありません。最後まで、迷っていたのです。アンナとの関係がうまくいっているようなら出る幕はないだろうと……ですが」
 そう言って、妹に目を移した。国の女の頂点に立っているというのに、我が子に縋りつき、今は戻ってきた姉に縋ろうとしている。アンナはみるみる目に涙を浮かべて、泣きじゃくった。
「お姉様……!」
「アンナ。お前は自分を見返るべきだったのだよ。皆に守られるだけでいるのか。それとも、皆を照らしてやろうと務める光であるのか。己に、本当にその価値があるのかどうか」
 優しい口調で、エタニカは事実を告げる。妹がずっと目を逸らし、彼女たちが故国で覆い続け、嘘をつき続けていたもの。
「そして、私は――アンナ、お前を、光の中に閉じ込める形で守っていたことが正しかったのかどうかを」
 無知も、鈍感も、王族としての義務感の欠如も、すべて、私たちが引き起こしたもの。
 泣き濡れた顔を上げた後、アンナは伏した。激しい嗚咽を漏らし、赤子と同じ声で泣いた。姉と、本当に決別したことが分かったのだろう。
「お姉様」と不意にアンナが言った。
「お姉様が生きていて……本当に、よかった……!」
 エタニカは目を見開き、自身も涙を浮かべて、妹姫を抱きしめた。アンナは激しく泣きじゃくり、洪水のような涙を溢れさせてエタニカにしがみつく。
「シンフォード様。あなたも。私など忘れて、アンナを更生するという道もあったのですよ」
「貴方以外の誰を選ぶという」
 背後の室内でフォルディアの者たちを拘束させるのを見ていたエタニカは、静かにシンフォードを詰る。そんな謂れを受ける覚えはない。アンナ王女を更生させる義務はないのだ。
「どうして姿を消していた」
「ハルムでの戦いの後……フォルディアがアンナを盾にするのではと不安を感じ、フォルディアへ行くことも、グレドマリアに戻ることもできず、生死不明にした方がいいと考えて。その途中、偶然、クリスタ王太后陛下の助けをいただき、グレドマリアを見守っておりました」
「……お姉様は、わたしのために姿を消さなければならなかったのね」
 アンナが濡れた目を開き、強ばった調子で呟く。シンフォードはそれに答えさせる暇を与えなかった。今になってと、怒りは失望と希望を行きつ戻りつしていた。ずっと待っていたのだと気付いたのだ。
 この世から失われてもなお、自分は、彼女が戻ってくるのを待っていた。
「理由を聞いている」
「……恐かったのです」とエタニカは睫毛を震わせた。
「自分が、運命に潰されるかもしれないと思って。私はいつも、美しい妹の後ろにいる、光を浴びることのない、日陰の存在です。名が残らないのが当然の生まれです。そんな私が、あなたに出会った。あなたを欲すれば私は何をしても人の目に触れるものになる。過去の罪も、罰も明らかになる。それらに潰されるのが、恐ろしいと思いました」
 彼女は瞳を伏せ、私はそれほど強くない、と震える声で言う。
「お姉様……」
 アンナが言う。瞳も声も透き通り、この騒ぎの中で響き渡るほどだった。
「お願い。正直に、本当のことを教えて……シンフォード様は、お姉様のことが好きよ。とてもとても、誰かを憎むくらいに好き。お姉様は、どう思っているの?」
 エタニカは瞳を揺らし、今にも泣き出しそうだった。こんなところで彼女が涙を流す必要はないのに、震えて、怯えていた。
 その両手を取って、アンナが立ち上がる。涙が止まらぬのに、笑っていた。
「……今みたいに、お姉様が長い戦いから戻ってきたことがあったわ。怪我をして、でも痛いなんて一言も言わなくて、みんなのために真っ直ぐにわたしを見ていた。綺麗で、強くて、そんな人が傷ついているのが悲しかった。わたし、その頃から少しも変わっていない。せめて結婚することで戦争が終わらせた証になれればと思っていたのに、いやだいやだって、泣いているだけだった」
 乱れ、無惨な髪が、まるで翼のように広がった。黄金の、柔らかい糸が天井から彼女を絡めとるようだ。エタニカが妹の名を呼びながら、細い指を強く、己のものにするように握る。そうしなければ、何者かに奪われてしまうと思っている。
「でもね、考えたの。お姉様がいなくなって、一生懸命に考えたのよ……。どうすれば、シンフォード様の望みを果たせるだろう、お姉様に償えるだろう、みんなが納得してくれるだろうって……。でも、お姉様、わたし、そんなに強くない。憎まれて、いつかこの日が来ることを知って生きていくのは、とっても辛かったわ。苦しかった……。だから」
 アンナは、どこかで見た瞳を向けた。色こそ違えど、意志を結集させた戦う者の眼差し。目を奪われた。
 初めて、エタニカとアンナが姉妹なのだと感じた。己の手を離れていく混乱の最中に、不意に冷徹な意志を宿し、貫く。エタニカにもあったそれが、アンナにもある。
「シンフォード様の望む結末を、あげます」
 エタニカの手を振りほどいて露台の手すりに足をかける。広場から、室内から悲鳴が上がる。エタニカが声のない悲鳴をあげる。エタニカは、妹から託された赤子を抱えて手を伸ばすこともままならない。
「だって全部、この日のためだったもの。シンフォード様、わたしは、うまくやったでしょう? わたしの、放蕩な振る舞いは、憎むのに上出来だったでしょう? そこにお姉様が来て、あなたの計画は完璧になったわ」
 いいえ、と彼女は無垢に、泣きながら微笑んだ。
「『わたしの計画』は、非の打ち所のないものになったわ……!」
 誰もが息を呑んだ。
 ――演技だったというのか。エタニカのことを忘れたかのように遊びほうけたことも、王妃としての義務を疎かにしたことも、シンフォードが事実を隠蔽し、偽証したことも。いつか復讐を果たすその日がやってくることも、気付いて、何も知らないふりをして。
 拙く、幼い計画。どこからが、一身に憎しみを受ける決意をしたアンナの策謀だったのか。
「本当の王妃になってね。幸せになって。これが、最初で最後の、わたしの嘘――」
「アンナ!」
 仮面の娘が王妃となり、王妃であった王女が翼を得ることがなかった、それらのことが運命だったのか、歴史に刻まれるべきものだったのかは、分からない。
 ただシンフォードは、それを選んだことを、一生後悔することはないだろう。



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