シンフォードとアンナ・シアの結婚は、二年足らずということもあり、周囲の証言と検証の結果、光教会司教ジュールによって白い結婚と判断され、離婚が成立した。
 二年後、フォルディア王崩御。新王の許諾を得た後にエタニカとシンフォードの婚姻式が行われた。かつて騎士であり、戦場にも出たことがある仮面の王妃の誕生に、人々は嫌悪を露にしたり、歓迎したりと忙しなかった。しかしエタニカとアンナとシンフォードの物語が、詩や物語や絵画、演劇などによって一般的に流布されるようになる頃には、エタニカ・ルネはグレドマリア史上最も人気のある王妃と呼ばれるようになっていた。王妃のためにシンフォードが催した、花を飾った仮面をつけて行われる祭りは、この国の有名な祭りとして残っている。
 エタニカ・ルネは三人の子どもに恵まれ、二番目の子であった王子ルムルスが王位を継ぐ。ルムルスは彼の成人まで存命だったクリスタ・フェリーザに教育され、彼女をして「鏡を見ているようだ」と評される剛胆な人物に育った。残りの子どもたちはそれぞれに道を開き、幸せな結婚をした姉と、母と同じく騎士になった妹は、いつまでも仲睦まじかった。
 いくつかの困難を経て後、シンフォードは五十五歳でこの世を去る。フォルディア、グレドマリアの講和を勧め、この繋がりを持って善隣政策を行い、近隣国家の結束を強固にした功績――多大なる犠牲を払った――は、後に国史に記されることになる。
 多くの家臣や友に見送られた彼の最期は、終まで妻を思うものだった。
「貴方は、私の……――」
 存じております、と告げた王妃に彼は笑みで応えたという。
 夫の死後、彼女はクリスタから譲り受けた館で隠棲を始めた。伝記を書きたいのだと王妃を口説き続けていた文筆家は、エタニカの逸話にまつわるいくつかの不思議――どのようにして逃れたのか、また、どのような手段で駆けつけたのかなど――を伝えたいのだと言った。
 答えたのは、一人の老女――。
「シンフォード様が伝えたことが、すべてです。それが全部よ」


 別の声の主が低い声でそれを打ち消した。
「いいえ。そうではありません」



     *



 静寂だった。何もかもが終わったと、絶望の淵で踞っていた。
 アンナを殺した――すべての罪を引き受けさせたのに、手を伸ばすことができなかった。
 赤子が泣いている。アンナの子どもが、もがくようにして泣き叫んでいる。
 しかし、ようやく戻ってきた世界の音が吐息と歓声のどよめきだと気付いて顔を上げたとき、エタニカはシンフォードが何をしたのかを知った。
 地あるところへ座り込むアンナは、逃げ出せぬようにドレスの裾を踏みつけられている。
「アンナ!」
 何もかも終わる瞬間に、手を伸ばして舞台へ戻されたのだ。それも、復讐を果たさんとしていたシンフォードの手で。
 呆然としていた妹を赤子と一緒に抱きしめる。きつく。
 終わらなかったことを知って、じわじわとアンナの目に涙が浮かぶ。苦しげに首を振って、嗚咽混じりに言う。
「わたしだって、幸せになりたかったの。本当に、それだけだったの。でもそれ以上に、あの牢獄の中で、ずっとわたしを守ってくれたお姉様が、初めて自分が欲しいものを選んだから、それを守ってさしあげたいと思っただけなの。わたしにはもう何もないから。こんなことしかできないから。ごめんなさい。みんなを傷つけて、ごめんなさい」
 生きている、と思う。泣いている。いつもこの子はそうだった。泣いて縋ることしかできなかったのに、いつの間にこんな無謀な強さを得ていたのだろう。
 この子を生かそうとすることは残酷かもしれない。心を交わし合ったライハルトはもうこの世にはいない。だからこれは、エタニカのわがままだ。
「生きて」
 守るから。
 アンナはいつだってエタニカの守りたいものだった。疑うこともあった。憎たらしくも思った。見捨てて、自分の望みだけのために振り返らずに走ったこともある。でも、守り通さなければならなかったのだ。アンナはやはり、愚かしいほど純粋で無垢な心そのものだったのだ。
(これまで抱き続けていたものを、諦めてはならないのだ)
 にわかに広場が騒がしくなる。
「陛下。皆が説明を求めています。これ以上放置すると、暴動が起きます」
「シンフォード。いったいどうするのだ。私がここまでお膳立てしてやったというのにふいにするつもりか?」
 神経質に鳴る杖が、時計の針となって刻限を告げる。
 答えを出すべき時が来た。
「だいすきよ、お姉様。お姉様が何を選んだって、わたしが守るわ。だから、後悔しないで」
 アンナの瞳は、いつか自分が守りたいと思ったすべてを取り戻していた。壊れそうな指先も、儚い笑顔も今は強さを輝かせる。
 この輝きを愛していた。私を最初に信じてくれた、無垢な光。己の子を抱く彼女は、けれどエタニカの知らない何かを得て、包み込むようだ。
 アンナ・シアは愚かな王妃だった。
 けれど、純粋で穢れのない、エタニカの大事な妹だった。
「シンフォード様、私は」
「エタニカ。貴方に言わなければならないことがある」
 バルト・レド、ルル。スタンレイや部下たちの姿もある。この場に集った者たちに見守られ、シンフォードは広場に集まった者たちにも見えるよう、エタニカを導く。姿を現した得体の知らない女性に、更に騒ぎは大きくなっていた。
 シンフォードが両手を取り、跪く。
 人の声が、少し静まって、彼の声が凛と響く。
「いつか、貴方はよき王になってくれと言った。だがこの数年の私は、その願いに背き続けた。貴方の妹に復讐することしか考えていなかった」
 仕方のないことだ。フォルディアや、エタニカたちはそれだけのことを彼にしてしまった。
「だが、どんな王になりたいか、今、はっきりと分かった。エタニカ・ルネ」
 彼の瞳に曇りがないことに、エタニカは気付いた。澱み、暗かった暗色の眼差しは、天にある光を受けて輝き、エタニカを映している。彼の心にも自分が映っている。
 私は、今ここにいる。――この人の前に立つことができたのだ。
 約束の、騎士でなく王女でもない、新しい役割を授けてもらうために。
「私とともに歴史に記されてほしい。私は、例え己自身がどんなに愚かであっても、後世の学者たちに、『エタニカ・ルネは運命の姫だった』と綴らせてみせる」
 エタニカは、涙を堪えた少しだけ歪んだ顔で問いかける。
「血塗られた女を娶るとおっしゃる?」
「その覚悟をしてきたのではないのか。フォルディア王は病床、たった今、不貞を働いた妹を断罪した。今、この広場では貴方が何者なのかという話が巡っている。貴方がグレドマリアにどんな貢献をし、何を果たしに来たのか」
 ざわめきが、歓声に塗り替えられていく。
「シンフォード様は本当にお変わりない。正しくて、とても残酷です。これでは私の返事がひとつしかない」
「返事を。エタニカ」
 アンナが立ち上がり、頬に涙の跡をいくつも作って、深く、頭を垂れる。母親の腕の中で赤ん坊は涙を収め、手を伸ばそうとする。大きくなった歓声の中、エタニカは顔を覆い、手のひらを見つめて、握りしめた。この手にあるものを忘れない。赤い血の色も、裏切りの感触も。
 零れるように、笑う。
 はい、と、吐息と笑みの混ざった声で答えた。



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