序章
 

 焔が蝶の鱗粉のようだ。
 エニア国に生息する、青い羽を持つ青冴蝶の翅の鱗。しかし、王女の前にきらめくのは穏やかな青ではなく、自身の大切な思い出を黒く塗りつぶして灰と化していく、美しくも禍々しい赤い炎だ。
 喉はすでに煙でつぶれた。涙をこぼさないようになんとか目を見開いているが、今もまた、炎の熱で揺れる不明瞭な視界のために、置物にぶつかって無様に転んだ。立ち上がろうと手をついたとき、床の上に累々と転がる人々に息を飲む。
 ――どうしてこんな。
 誰もが何が起こったのか理解しないまま事切れたのだろう。外傷もなく血すら流れず、城内の者たちは命を失い、冷たくなっていた。異変を感じて自室を飛び出すと城の本館には火の手が上がっていたが、ここに来るまで、消火活動に当たる兵士の姿も、逃げ惑う侍女たちも、下働きの者たちすら見かけなかった。
 静謐なまでに沈黙した城。すべてが消えていく……。
 気を抜けば漏れそうになる嗚咽を飲み、立ち上がる。この数分で死体は見飽きた。縋り付くのは無駄だと悟るには十分な時間と数だ。ただ目指すは玉座の間。父の、従兄の無事を確かめなければ。
 倒れ伏した騎士たちを踏み越えて玉座の間に辿り着く。炎に熱せられた扉は熱く、触れただけで手を焼かれ、悲鳴をあげそうになった。だが唇を強く噛み締めると、体当たりで扉を破った。
 飛び込んださきも、火の海だった。玉座に続く赤い絨毯を辿って目を上げていき、声にならない悲鳴を迸らせる。
「あ、あ……っ!」
 嘘だ。嘘だと言って。赤い椅子に剣で縫い止められたその人が私の父ではないと。エニア国の王が、このように惨たらしく殺されるわけがないと。
 その足下に倒れている青年が従兄のレイアスだと気付いたとき、瞳からどっと涙があふれた。噴き出す涙を抑える術を知らず、声もなく、泣き崩れる。
 悪夢のようだ。つい昨日、レイアスと踊ったことが嘘のように思えた。ヴァルク伯爵の夜会で、父親であるヴァルク伯に命じられたレイアスは、優しい顔で王女の手を取り、人々が注目する場へと導いた。幼い頃からともに過ごしてきた従兄に、ああして手を取られたのは初めてだった。
 貴公子然とした従兄は、娘たちの噂に上らぬことがないくらい、繊細な美貌と優しい心根を持った、憧れの存在で。明るい広間の光に目をくらませながら、王女は思った。この手、このつないだ手から、きっと、何かが始まる。胸に甘い予感を柔く抱えて、踊った。
 しかしいま、何もかもが終わろうとしている。図書館で本を読む彼。剣は嫌いだと言った彼。小さな従妹の頭を優しく撫でてくれる彼。そして、その従妹をかばって傷を負った彼……私は、彼につけた傷のことさえきちんと謝れていないのに。
 傷つくことが分かっていても、そこに倒れているのが従兄だと確かめたかった。涙が止まらない目を上げ――ふわりと、黒い影が舞い降りた。
「かわいそうに……」
 憐れみと憂いの声に、息を止める。
「ルガン……」
 星鍾教会の神官ルガン。異例の若さでエニア王国の祭祀の一人に列せられる、柔らかい美貌の青年。
 彼のことを、王女はあまり好きではなかった。彼は常に人好きのする笑みを浮かべていたが、それは彼女には仮面に見えていた。
 仮面の下に彼は黒々とした闇を買っている。
 自己中心、嗜虐、人の苦しみを喜びに思うような歪つな愉悦。神官であるがために魔術が扱え、それに天賦の才能を与えられていた彼は、その力で様々なものを歪めていた。人の関係、他者の心、そして、自分自身をも。
 しかしそれを忘れて王女は縋った。魔術の天才であるルガンならばこの悪い夢を変えることができるかもしれないと、願ってはならないことを望んだためだった。
「ルガン! ルガン、お父様が、レイアスが……!」
「姫。落ち着いて。そんなに泣かれると困っちゃうよ」
「何が起こったの!? 城の人たちが死んでるの。いきなり城が炎に包まれて。ファルム国の魔術師の仕業? それともディピア国? どうして……どうしてこんなことに!?」
「うん、これはね」と彼はのんびりとした口調で。
「私がやったんだ」
 何を言われたのか、分からなかった。
 ぜんまいが切れた時計のように、王女は凍りつき、にっこりと笑う黒髪の魔術師を見上げた。
「――うそ」
「嘘じゃないよ。城に巨大な魔法陣を描いてね、一気に命を吸い取った。おかげで『術』には十分な力が集まったよ。さすがに、私一人の魔力では無理でねえ」
 王女の瞳から、ひとつ涙がこぼれ落ちる。
 ルガンの浮ついた声は止まらない。
「でもやっぱり、この『術』は私自身の魔力も削らなくちゃならないみたいだ。人間の究極の願いのひとつだもん。でも、君のためならやぶさかじゃないよ、姫。私、君のことが好きだから」
 涙の筋を汚れもない白い手で拭って、神官は囁いた。
「愛してる、姫。だから一緒に生きよう?」
 何を、と言う声は阻まれた。――男の唇で。
 注ぎ込まれるような口づけに、王女は震えた。熱く、柔らかく、心地よい。そう思ったのは一瞬で、すぐにルガンが飛び離れた。血がにじむ唇を、愛嬌のある顔でぺろりと舐めとり、笑った。
「甘い」
「――殺してやる」
 王女は血のついた唇で唸った。
 唸りは言葉に、言葉は力になった。
 殺してやる。
「殺してやる、殺してやる殺してやる! お前を!」
 噴き出す感情のままに吠えた。青い瞳に浮かぶ涙は別の熱を持ち、視界を晴らす。胸を貫かれた父王。動かない従兄。城にいたはずの多くの者たち。それらすべての嘆きと怒りが胸の内で熱くたぎる。
 闇を抱いた魔術師は、今をもって復讐を果たすべき仇となった。
 王女は隠し持っていた短剣を振りかぶった。護身用、あるいは自害用の短剣だ。獣が飛びかかるように身体ごとぶつかっていった王女を、ルガンは軽い歩調でかわし明るく笑う。
「あはは、踊ってるみたいだ。ちょっと不格好だけど。ねえ姫、今の方がずっと劇的だと思わない? レイアスと踊るよりもさ」
 華奢な宝剣を振り回した。怒りで言葉など忘れた。騎士たちの御前試合の剣技を王侯貴族の舞踏に例えるなら、ルガンの言うように王女の足さばきは確かに不格好で見られたものではなかった。
 そのとき、身体の芯で鳴った心臓に、王女は息を詰まらせた。肺が動かなくなり、手足が硬直する。短剣が落ちる音を遠くに聞いた。意識の背後に広がる闇に引きずり込まれそうになる。
 空を掻く手を取り、王女を支えたルガンは、眠気を誘う優しい声で囁いた。
 その瞳が、青く光る。
「『術』が発動する。ほら、ゆっくりと身体が作り替えられていくのが分かるでしょう? 爪先から染み込んでいくよ……永遠が」
「何を、した……!!」
 言葉は空気を求める喘ぎにしかならなかったが、ルガンは答えた。
「この城すべての人間の命、そして私の魔力で、君を作り替えているんだ。私と同じものにね。……君は、不老不死になるんだ」
 目を見開き、歯をむき出し抵抗する王女の喉元に顔を埋め、囁く。
「私みたいに身体を変えるだけなら、もう少し魔力を節約できるんだけど。他人の血と肉で補えばいいんだし。でも、肉体的に時間を止めようとすると、どうしても大量の魔力が必要になるんだ。結局私の魔力を削ったけど、その価値はあるよ。だって、君はとても綺麗なんだもの……」
 ルガンの瞳が、王女の銀の髪を辿り、目を見つめ、鼻からゆっくりと血の付いた唇に行き着いた。反った喉元に口づけてくる。触れる唇や髪が、それ以上に身体に染み渡っていく熱病のようなざわめきが、吐き気を催すほど不快で仕方がなかった。この魔力が数多くを犠牲にしたもので補われているのかと思うと、身体を引きちぎりたいとさえ思った。
「例え人が滅んでも、私たちだけは生き残る。一人で生きるのは辛いよ、だから一緒に行こう? だって、君はもう一人なんだから」
 心を突き刺された音を聞く。
 もう、この城には誰もいない。建物は焼け崩れ、父や従兄、大臣たち、侍女たちや侍従たちでさえ、もう戻ってはこない人になってしまった。この国にいるなら、私は一人で生きていかねばならない。一人で、さびしく、孤独に。過去ばかりを思って。
 そんなのは、いやだ。
 再び涙がこぼれ、王女はすすり泣いた。暗い穴に落とされた心細さで、胸は不安にむかつき、息ができない。
「ねえ、姫」
 そうして差し伸べられるその手を取ることが、一番楽なのだということが分かった。
 短剣を探っていた手は力をなくし、やがて、黒衣の魔術師に向かって差し伸べられる。魔術師が愉悦の表情で見つめていた王女は――。
「――ぅっ!?」
 顔に降り掛かった血で覚醒する。
 ルガンは吐きこぼした血を信じられない表情で見つめ、胸から抜き取られた剣の勢いで横に倒れた。闇の幕が取り払われるようにして現れた人物を見た王女は、萎えていた力が噴き出すのを感じた。
「レイアス!」
 従兄は剣を支えにすることができず、倒れた。
「レイ、レイアス……!」
 従兄は、薄い色の瞳を細め、かすかに微笑むと、そっと目を閉じてしまう。
 いやだ、と呟く。いやだ。何も言わないなんて。何か、言って。喘ぎながら死人の美しい顔を覗き込み、身体を揺さぶった。いかないで。おいていかないで。
「……今回は、ここまで、か……でも『術』は発動した……」
 はっと王女が目を戻すと、神官服を血で染めたルガンはいつの間にか後退し、魔法陣が光る床に、水に沈むように消えていくところだった。
「これで君は、私のもの」
 儚げにも思えた美貌はぎらつく目で魔物のように禍々しく変貌し、その低い声は呪いを放つ。
「君の死は、私の死。君の憎しみは私の憎しみ。この命は、繋がれる」
 王女は主を失ったレイアスの剣を拾い上げ、もつれるように駆け出した。
「術を解いてほしいのなら、私を、殺したいのなら。追いかけておいで。永遠に追いかけておいで」
 ひらめいた焔の布は王女の歩みを阻んだ。怯み閉じたまぶたの闇の中、魔術師の声が響く。剣を振りかぶった。

「私は世界のどこかで君を待っている」

 がちん! と。振り下ろした剣は大理石を割った。
 貫いたのは赤い絨毯だけ。その赤い王権の布も、次第に黒く燃えていく。
 涙とともにこぼれ、苦く、しかし甘いような重い味の息を噛み潰して、王女は立ち上がる。振り返った先に翻る王家の紋章の垂れ幕。踊る炎に包まれるのは時間の問題だった。
 このままここに留まり続け、王国を続ける道を選ぶこともできただろうが、王女はその道を振り捨てた。嘘でも偽りでもなく、この身が不老不死になったのだと感じられる。自身の魂が、細くかすかだが確かな糸で、憎い仇に結びついているのを感覚する。
 ここで命を絶てば、終わるかもしれない。
 けれど追っていく。どこまでも。

「ならば私は、世界の果てまでも追いかけてお前を殺す」



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