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 久方ぶりに乗り合いでない三頭だての馬車に揺られていたが、レシュノルティアは両手を握っては開くことを繰り返していた。こうしなければ手が石のように固まってしまいそうだった。
 幕に覆われた窓の向こうには、エルディア王都の景色が広がっている。
 いつか着の身着のままで駆け抜けた、城下町。
 王女であった頃の名残のない青い髪を、貴族の女性のようにまとめあげ、小さな帽子を添え、足を覆い隠すドレスを着て。こうして馬車に揺られて来ようとは思わなかった。



第3章 曇色の関係



 あのとき、レシュノルティアは誰にも助けを求めなかった。遠くへ行っただろう仇を追うために、煤と汗と涙と血で汚れたドレス一枚、布の靴一つで、騒然とする街を逃げた。赤い炎に包まれ、強い松明のように燃え盛る城を、人々は不安そうに見つめ、自分たちの街に炎の波が押し寄せないよう走り回り、誰も、一人逃亡する王女に気付かなかった。
 青い月だけがうまく駆けることを知らない王女を、長く走ることのできない不器用さを冷めた目で見下ろしていた。辛かった。足を止めないよう、従兄の剣を強く抱えた。涙は捨てた。代わりに呻いた。
 その冷たさと鋭さを、結晶のように大事に固めた。
 そして気付けば、銀の髪は作り物のような青に染まっていた。
「…………」
 街の門が開く音がし、ざわめきが聞こえ始める。車輪の音、馬のいななき。甲高い驚きの声は、立ち話をしている女性たち。子どもたちのはしゃぐ声。男たちの低い声もよく響く。街の雑踏、どこにでもある日々の音は、いつかの記憶のそれとまったく変わらない。
 ぼんやりと声や音を頭の中に反響させていると、ついに車が停止した。
 扉が開けられ、ミランが手を差し出す。スノーラからの道中に礼儀作法を叩き込もうとした若い騎士ミランは、レシュノルティアが教育を拒否してきたためにずっと気を揉んでいたらしい。できるだけ補助しようという気負いが透けて見える。
 ドレスの裾を持ち上げ、手を取って馬車を降りた。そこにしばらく立ち止まっていると、行くぞ、とミランが焦ったように告げる。レシュノルティアはひっそり笑った。
 青い目で、そこに居並ぶ人々を見つめる。グレイに近しい王宮の住民たちは、目に見えてレシュノルティアの髪色に表情の変化を見せなかったが、若い娘たちなどは一生懸命に驚きを飲み込んでいるようだ。
 その一人と、目が合った。
 レシュノルティアは、笑った。唇を引き、目を細め、頬を持ち上げてにっこりと。
 途端、娘は真っ赤になり、男たちは感心するように眉を上げ、女性はこちらと先ほどとは違った目で観察し始めた。
 空気が変わったことを感じたミランが戸惑ったように目を瞬かせ、レシュノルティアを見る。滅多に見せない笑顔を振る舞ったレシュノルティアは内心で苦笑していた。
「長旅、疲れただろう。王都に入って、感想は?」
 やってきたグレイが親しく声をかける。レシュノルティアは答えた。
「正直……拍子抜けだ」
 宮人たちは目を白黒させた。
 レシュノルティアは真顔で述べる。
「新しい城だと聞いていたから、もっと華美だと思っていた。無駄に広くもなく、狭くもない。見晴らしがいいし、城への入り口は一つしかなく、その道は外から入り込むのは難しい。辺りを森で囲まれているから街を通らずにここへ辿り着くのは時間がかかるだろう。――いい城だ」
 記憶よりも城の周辺に木々が少ないから、やはり火災で森の一部が失われたのだろう。だがおかげで以前より視界が開け、見晴らしがよくなっている。当時の城は、全焼は免れたものの損壊が激しく、選定会議で王家に推されたエルディアも、謎の火災を受けた城を使い続けたくなかったらしい。すべて建て壊し、新しい城を建設した。
 宮廷の人々は、突然現れた王太子妃の感想を、褒め言葉と取るべきか悩んでいた。グレイが「あっはっは!」と笑わなければ、愛想笑いすることもできなかったくらいだ。レシュノルティアは笑いを噛み殺す。
 公爵令嬢に成り代わり、王太子と結婚した、身分の卑しかろう、気味の悪い青い髪をした女。最初からレシュノルティアの評価は低い。だが、その言動が彼らの意表をつくものだとしたら、その存在は彼らに強烈な印象を刻む。
 これで簡単に侮られることはないだろう。
 戦場で剣を合わせるようなやり取りではなく、言葉を重ね心をほどいていく方法が必要な王宮では、レシュノルティアには、こういうはったりが必要だったのだ。
「なるほど、お前らしい。では行こうか。お前の宮殿はすでに整えてある」
 レシュノルティアの宮殿は、奥まったところにある小さな館だった。小さいと言っても、敷地も部屋数も普段泊まる宿の数倍はある。窓が多く、庭は広く、木春菊や橡の花といった夏の花が咲き乱れている。いかにも育ちのいい令嬢が夢に見そうな建物だな、と白薔薇の葉を指先で弾いて、レシュノルティアは自嘲した。
 自分がかつてそうだった。花が咲く美しい建物に住まい、豪奢なドレスを着て装飾品を着け、つまらないことに怒って笑った。平和で何者にも脅かされない姫の生活――憎たらしかった。王女というだけで歴史に刻まれる。無邪気で愛らしいだけでは、何も成すことは出来ないのに。
 到着してレシュノルティアがまず行ったのは、裾がぴらぴらとうっとうしいドレスを脱ぎ捨てることだった。その場にいる者でレシュノルティアの言動を知っているユリアは呆れた顔でそれを見守っていたが、若い女官たちは勢いよく投げ捨てられる衣装に呆然とし、悲鳴をあげた。放り捨てられていくものは、彼女たちにとって喉から手が出るほど欲しい高級品ばかりだ。
 複雑に編んだ髪を解き、いつものようにまとめ、慣れ親しんだ軽装備を身につける。なめし革の香りが心地いい。
「ひ、姫様ぁ!」
「姫じゃない」
 辛抱たまらないという女官の悲鳴に冷静に返答し、レシュノルティアは剣を担いだ。
 そこへ、部屋を見て回っていたグレイが戻ってきた。
「もう出て行くのか。どこへ行く?」
 レシュノルティアは結婚したとは微塵も感じられない素っ気なさで相手を見遣り、部屋を出る。
「時間が惜しい。城下に行ってくる」
「供はいるか?」
「いらない」
「そうか。夕食までには戻ってこい」
「殿下ーっ!?」
 平然と見送る王子に女官たちは絶叫し、それに対して、気の抜けるような穏やかさで生真面目に説明する声が聞こえてきた。
「あれはな、足を止めると死んでしまう生き物なのだ」
 言い得て妙だ、とレシュノルティアはグレイを見直した。

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