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 エルディア王子と不老不死の傭兵が交わした密約は単純なものだ。
 仮面夫婦として王宮に戻り、犯人を見つけ出すこと。
 レシュノルティアはそれに、自分の行動を決して制限しないことを加えた。ルガンを追うためには、後宮で本当に王太子妃をやっているわけにはいかなかったからだ。
 設定としては「アウエン王子とジェシカ姫はスノーラ聖堂に辿り着き、結婚したが、ジェシカはそこで出会った巡礼者と恋に落ち、姿を消してしまった。残された王子は偶然現れた巡礼者の女と恋をし、連れ帰った」というものである。
「無理がある」
「知っている」
 目の前の男に燃え上がるような恋をする自分を想像できなかった。グレイも同じだろう。目つきの鋭い女傭兵に情熱的な愛の言葉を囁く王子――想像しただけで剣の錆にしたくなる。
 スノーラ聖堂に厳重に保管されているはずの結婚証明書、その署名は、レシュノルティアが書いたジェシカ・キルタの名になっているはずだから、お前の名前が記録に残ることはない、とグレイは図太く言った。記録と実際とどちらが本当か分からないから安心しろ、と言われても、レシュノルティアは膨れ上がっていく面倒さに頭痛を覚えた。
「結局嘘をつくなら私を巻き込むな」
「俺は結婚せねば相手が湧いて出てくる立場でな。ジェシカが殺された以上、お前くらいの者でないと、被害者を増やすだけだ」
 冷笑した。その通りだからだ。
「確かに、殺しても死なない女はこの世で私くらいのものだな」
 この盟約は所詮利害関係に基づくものだ。王国に降り掛かりつつある災厄の犯人をグレイは取り除きたいと考え、更に言えば、結婚問題を一時的に解決したいがためにレシュノルティアと結婚した。レシュノルティアは王国から追われたくはない、ルガンがエルディアに手を出したのならば、この国を拠点とするのが手っ取り早そうだ、と判断した。
 だから、グレイの実利に文句を言うつもりはない。冷えた目で椅子に肘をついていると、彼は何故か怪訝な顔をした。
「そういうことを言っているのではない。剣の腕は一流、肝も据わっていて、美しくそこにいるだけで目を奪う女なんてそうはいないのだぞ」
 椅子から転げ落ちそうになった。
「殿下のいつもの物言いだ、気にするな」
 このとき、すでにミランはレシュノルティアに同情的になっていた。主君の無茶苦茶な言動を身を以て知っているからだろう。頭を抱えるレシュノルティアを、憐れみの目で見ていた。
「お前がいると動きやすい。お前は自分の身を守れるし、俺は背後の心配をせずに済む」
「むしろ守ってやる。覚悟しておけちくしょう」
 ほんのり赤くなった顔で罵るレシュノルティアに、グレイは満面の笑みを浮かべていて、居心地が悪くて仕方がなかった。

 そうして、この王都にやってきた。戻ってきたというのが、正しいのか。
 歩き始めてレシュノルティアは目眩を覚えた。この石畳の感触も空気も、記憶の中に鮮やかすぎた。どうして人の営みは変わらないのだろう。時間が混乱する。
『まさか王女がここにいるとは思わないだろうね。買い食いしたなんて陛下に知られたら、目を回してしまわれるかな』
『私、初めてじゃないわよ。何度もお忍びでうろうろしてるもの』
『なんだって? このお転婆め』
『内緒よ、内緒! あ、ほら! 輪になって踊ってる。行ってきていい?』
『やれやれ。この調子じゃ、陛下もお困りだろうね』
『何が困るの?』
『街中で、見知らぬ殿方と笑って踊る君が心配だってこと!』
 思い出の急襲に怯んで、歩みはふらついた。顔を覆いそうになるのを、唇を噛んで耐える。口の中に甘い味、油と香辛料。においや、温度や、色彩は、形を変えても記憶に褪せない。
 同じ人とは二度と会えないのに。
 ぶちっと唇を噛み切った痛みにはっとした時、後方で騒ぐ声を聞いた。路地を吹き抜ける風の中に笑い声が消えていく。
 聞き覚えのある、若い狼のような声。深々と嘆息し、身を翻す。
「おい」
 声をかけると、人相の悪い男の二人組は、絡んでいた青年騎士からこちらに目を移した。茶化すように首をすくめてみせる。
「すまんが、それは私の連れだ。何か用か」
「邪魔するな私は……!」
 血気盛んな騎士は声を荒げたが、レシュノルティアは呆れた顔で言った。
「男より女に絡めよ。情けない」
 ミランは不意打ちに目を瞬かせ、やがて不審げな顔になる。
「……そういうお前が女じゃないか」
「こんなのを数に数えるな。お前、見る目がないな」
 話に置いていかれていた二人組が顔を見合わせる。
「変なやつらだなあ」
「やたら勇ましいけど、あんた女か。被り物取って顔見せてくれよ」
「すまないが、見られる顔じゃない」
「……いんやぁ? こりゃあとんでもない美人だ。おい坊ちゃん、あんた見る目あるよ。面白いな、一杯おごってやるよ。来な」
 レシュノルティアの頭巾の下を覗き込んだ男は、ひどく嬉しそうな顔で二人を誘った。一杯だけな、と線引きしながら、展開についていけないらしいミランを振り返る。
「こういうところに来る時は、できるだけ平服で来るんだな。あの二人は行儀がよかったが、でないとその金の肩章をむしられるぞ」
 近衛騎士の栄誉を手で押さえ、ミランはぞっとした顔をした。

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