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「最近変わったこと?」
 大声で怒鳴らなければ聞こえないような猥雑とした酒場で、肩を触れ合わせてレシュノルティアが尋ねると、彼らは考え込んだ。くっつきすぎだ! とでも言いたげなミランは、運ばれてきた酒を一口舐め、顔をしかめて遠ざけた。騎士様の肥えた舌に安酒は合わなかったようだ。
「ああ。この国で何か変わった事件は起こっていないか。怪異とか」
 二人組はそれぞれ、杯を回したり胡桃を割ったりしていたが、「そういえば」と口を開いた。
「ディピアで小競り合いがあったの、知ってるか?」
「いや」
「国境でちょっと一戦やらかしたんだと。その理由ってのが」
「『死者を冒涜した』っていうんだってさ」
 ミランが息を呑んだ。レシュノルティアは、黙って杯に口を付ける。熱い液体を嚥下して、言った。
「墓でも掘り返したのか」
「だったらよかったんだけどなあ! ……実際は、消えたんだと」
 死体が、と男は声を潜めた。
「死体が歩くわけないが、死者の棺が空っぽだったって、エルディアとディピアが一触即発! 今もぴりぴりしてるらしい」
 おっかないねえ、と男たちは首をすくめ、実際のところを想像し、笑い始めた。彼らは、この事件を冗談か、何かを勘違いした話だと思っているのだ。
「なんだ、ご機嫌だなあ。何の話?」
「ほら、ディピアの……」
「死体か! 俺が思うにあれは……」
「ちがうちがう! そうじゃないよ、あれはさ……」
 話を聞きつけた者たちがわれもわれもと推論を披露し始め、あっという間にレシュノルティアたちは野太い声に埋もれた。酒が入っているせいで、声は割れ鐘のようにやかましく、あちこちで割れた杯や胡桃の殻や唾や食べ物が飛び交い始める。
 その中で静かに酒を舐めていたが、ミランに肩をつつかれた。
「そろそろ戻るぞ。会食に間に合わない。陛下との顔合わせでもあるんだぞ!」
「それは大変だ」
「ちょっとは焦ろよ。お前にこわいものはないのかよ」
「あるぞ。怖いもの」
 レシュノルティアは微笑んだ。意外そうな顔をするミランに耳を貸すよう指を動かす。
 そうして近付いた耳に、……ふうっ、と息を吹きかけた。
「なっ、……な!?」
 飛び離れた青年に、意地悪くにやついた。
「誰が教えるか」
 席を立つ。酒と場の空気のせいで、二人が出て行ったことには誰も気付かなかった。
 夜の冷えた空気が火照った頬に心地よく、家々の灯火は潤んだ瞳に優しく映った。家に灯るあの光は、人を集わせ暖める。思い出を焼くことはない。その上にはやがて宝石のような星々が光り、優しい夢を誘うだろう。
 運河にかかる橋から、黒い鏡になった水面を見下ろす。月が出ており、川の中で白い宝珠は歪んで見えた。
「綺麗な川だろ」
「……本気で言ってるのか?」
 記憶にある運河はこれほど泥臭くなかったし、ごみも浮いていなかった。ミランは不満そうに唇を尖らせる。
「まあ、まだ清水とは言えないけど。これでも綺麗になったんだぞ。殿下がご尽力されたからな。エルディアは百年前に比べて豊かになったけど、それでは失われるものが多すぎると殿下が仰って……今は自然保護に努めてる」
 銀青花は咲かなくなった、今の大人たちで青冴蝶を見たものは幸運で、銀白鳥が渡り鳥だということは知識のみ知られている――あの男の灰色の瞳が、そういう、失われつつあるものを見つめているとは思いもしなかった。
 彼は王子で、歴史は重んじても、国を発展させるために多くのものを見返らない人間だと思い込んでいたのかもしれない。
 不思議なくらい胸が騒ぐ。
 どんなものも例外なくこの世から消えていくというのに、あいつは忘れられていくものとどめようとするのか。
 苛立ちに似た思いに突き動かされ、舌打ちして歩き出した。
「おい、どんどん城から遠ざかってるぞ!」
 ミランが追いかけてくるが答えず、すり減った踵で石畳を鳴らしていく。すれ違うのがやっとの道は緩く蛇行していき、急に開けた。別の運河にかかる橋向こうの家々、その屋根の先に城の尖塔が見えた。
「……お前、詳しいな。前に来たことがあるのか?」
「……住んでいた。五百年前の話だが」
「は?」とそれまで感心していたミランは、冗談だと思ったらしい、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「お前、いい加減にしろよ!」
「本当のことだ」
「そうじゃない! 自分勝手に行動して、好きに物言って。お前が対等で当然だと思って話している人はなあ! この国の王子で、この国を支えるお方なんだぞ!」
「だから?」
 レシュノルティアの突き放した声に、ミランは怯まなかった。むしろ怒気を強めて言い放った。
「心も許さないのに相手に甘えるなよ!」
 しばらく、レシュノルティアは青年を観察していた。頬を紅潮させ、肩を張っていたミランは、レシュノルティアが何の反応も見せないことに、次第に気勢をそがれ、感情を落ち着かせていく。やがて後悔するように目を伏せ、だが頑な声で、ゆっくりと続けた。
「……お前は何も話さない。お前が事件の犯人に心当たりがあるのは、殿下も気付いてる。なのに何も聞こうとしないだろ。でも、それがどうしてかお前には分からないはずだ」
 確かに、その通りだった。グレイが共犯として巻き込んだ女剣士に、あの血文字の伝言がなんだったのかを尋ねなかった理由が、分からない。
「あの方は、お前を助けたいんだ……」
 ふっと、レシュノルティアは息をこぼした。歪んだ月の光と同じ冷たさで。
「私は誰にも救えない」
 私を救うのは、あの魔術師の死だけ。
 あの魂をこの世から消し去ることだけ。
 ミランはレシュノルティアが投げつけたものを驚いた顔で受け止めた。しかしそれが何なのか、すぐには分からなかったらしい。彼の手の中には銀青花染めの護符があった。
 困惑した顔でそれを見つめ、何なのか問おうとした時、レシュノルティアは彼の視界から消え失せていた。
 ――その夜、レシュノルティアは王都を離れた。

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