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 森の王国に続く深い緑の海には、黄色い石造りの城塞が埋もれるように建っている。子どもが作り上げたような塗り壁の城だが、れっきとしたディピアの国境城塞である。



第4章 緑の城の虜囚



 城壁は真四角を描く塔から塔をつなぐ通路となっており、兵士の鎧が反射する光がちらちらと森に射す。緊張状態が続いているためか、兵士が現れる頻度が高いがまだ静かだ。
 未開の地と呼ばれたディピアも、五百年の間に開墾され、ずいぶん緑を減らした。ここはまだディピア王都から離れているため、都会に比べて開かれてはいない。その証として、森の獣が草を食んだ跡や糞が見られた。気配を感じて顔を向けると、影で光るつぶらな瞳がある。鹿だ。
 牡鹿は興味深そうに、澄んだ目でじっとその場に佇んでいたが、斥候に出ていた部下が戻ってくると、あっという間に身を翻して行ってしまった。
「何を笑っているんです?」
 尋ねたのは、顔なじみの傭兵アイサイトだった。
 レシュノルティアは、狩人に身をやつし、獣道を彼とともに踏み分けて、ディピア国との国境にいた。彼と再会できたのは幸運だった。個人的に受けた仕事でエルディアの国境城塞にいた彼は、その持ち前の視力と潜入能力ですでに兵たちに重宝がられていた。おかげでレシュノルティアはその知り合いとして傭兵たちに受け入れられ、国境警備兵たちにも一目置かれるようになっていた。
「鹿がな」と言いかけて、何でもないと首を振った。
 今頃、グレイは困り果てているだろうかと考えたのだ。
 一見無害そうに思える澄んだ目がきょとんとする想像をして憂さを晴らす。少しは困ればいい。レシュノルティアが思い通りにならないことを思い知ればいいのだ。そこまで思って、ひどくびっくりしてしまった。
 どうやら、自分がこれまで振り回されたことをかなり恨んでいたらしい。なんとでもなれと受け入れてきたつもりだったのだが。
(ここまで来てあいつのことを考えているなんて)
 やっぱり調子が狂う、あの男。むっとしていると、「静かに」と警告してアイサイトが身を伏せた。
 茂みの向こうで何かが動いている。レシュノルティアは同じく身をひそめ、枝の影から見え隠れする者たちの姿を確認した。周囲を気にしてみるが、どうやら獣たちの住処を荒らしているのは自分たちだけのようだ。無言の足音が遠ざかると、二人は小声で言葉を交わした。
「武装していなかったな。鎧の音がしなかった」
「彼らがやってきた方角には村があります。村人、でしょうか」
 緊迫した国境に近付いて、村人たちは何をしようというのか。城塞のある方角を見遣った。木の枝が張り巡らされた空は、夜に暮れようとしている。
 闇が来る。青い夜が。
「アイサイト。お前は戻って隊に報告を。私はこのまま行く」
「……逃亡は、軍紀違反ですよ」
「そうなるまでには戻るさ」
 自由行動と作戦行動の加減は知っている、と胸を張った。そして方角の確認をすると、心配そうな顔をしていたアイサイトはぎょっとし、怯えた目をする。
「そんなところに何をしに行くんですか」
 レシュノルティアは答えた。
「もちろん、死体を見に行くんだ」

 笑うような葉擦れはただの音。風の声は引きつった声に聞こえることはない。木の陰は、本物の魔物には悪霊の誘いにもならなかった。もしここでレシュノルティアと出くわしたなら、人はレシュノルティアこそを魔物と呼ぶだろう。それだけが正しい。この世の不思議は解き明かされつつあり、この世の魔物はレシュノルティアが知るかぎり、自分と、魔術師と、人の心だけ。
 踏んでいた土が、急に柔らかくなる。
 歩みを止め、膝をつき、土を確かめた。
 湿っている。掘り返されたばかりなのだ。目を凝らせば、森が抱える黒と夜の青の中に、いくつもの十字架が浮かび上がる。
 墓地。国境沿いの村の共同墓地だ。
 死角になりそうなところに腰を下ろすと、花輪が置かれてあるのが目に入った。埋葬されたばかりなのだろう。まだ、その死体は消えていない。しかし、別の十字架の側には、蓋が開けられ放置された棺が見えた。あの中の死者は消えたのだろう。
 だから、ここでしばらく様子をうかがっていれば、何かが起こるかもしれなかった。
 吐き出した息が、すぐに冷たくなる。
 エルディアの南側といっても、西の海から吹く風でこの地域の夜は冷え込む。森が風を防いで、野原に寝るよりも温かではあったが、木々のせいで光があまり当たらないので、じめじめして陰気だ。
 しかし眠ろうと思えばどこでも眠ることができるようになっていたので、立てた片膝に置いた腕で頭を支え、十字架の群れを眺めた。
 本来ならば、自分はもうとっくに土の下だ。人の寿命はせいぜい五十年。五百年も経てば、肉は溶け、骨の跡形もないだろう。魂は記憶を忘れて、ばらばらになり、まったく別の魂になって新しい人生を生きただろう。
 ここにいる死者たちはその安息と約束を奪われるかもしれない。王女だったレシュノルティアに死者の魂の行方を教えた星鍾教会の神官は、哀れな死体を奪って何をするつもりなのか。
(ルガン)
 ――星鍾教会の教典には、魂は星神シュリアの星となって地上を照らすと書いてある。徳を積んだ者は永遠に空に輝くけど、罪深い者は空から落ちて消えてしまうんだよ。
 ――ルガン、星が落ちてしまったら、その魂はどこへ行くの?
 ルガンは嘲りの薄笑いを浮かべ、レシュノルティアは心の傷つく音を聞く。
 ――どこにも。あるのは無だけだよ。

 ――きっともう一度生まれてくるよ。

(レイアス?)
 レシュノルティアは息を飲み込んだ。まばたきほどの短い夢の中の自分が、従兄を呼ぶのを聞く。
 しかし目に映ったのは真昼の花園ではない。青紫色の闇が広がる墓地で、顔を上げた拍子に落ちかかる髪は、呪いの色の青だった。
「夢、か」
 誰もいないのに思わず呟いてしまうくらいに鮮明な声だった。
 いつかの、真昼の花園でのこと。祭祀に傷つけられたレシュノルティアを見た従兄は、優しい願いの言葉で幼い自分を慰めてくれた。
 ルガンはその時レイアスを警戒し始めたのかもしれない。あれ以降、ルガンはレイアスの見えないところでレシュノルティアを傷つけてきた。レイアスを探すレシュノルティアにまったく別の方向を教えたり、悪い言葉を使って顔を歪めるのを笑ったり、卑猥な言葉を囁いて赤面させて楽しんだり。儚げな美貌が醜く歪むのが怖くて、大嫌いで、一生懸命避けてきたのに、いつもルガンは側にいた。
 この人は、いつか絶対、私に恐ろしいことをする。
 言葉にすれば本当になりそうで、逃げ回るしかできなかった。端から見れば祭祀と王女が可愛らしいやり取りをしているという風にしか見えなかったのだろう。
 だからこそあの惨劇であり、この旅だ。
(……目が覚めて正解だったな)
 レシュノルティアは立ち上がる。
 墓地の外に、複数の気配がある。森が騒いでいる。植物には奏でられないあの音は――剣戟。
 何者かが交戦している。叫び声。エルディアとディピアの兵か、それとも墓を暴きに来た者か。戦いは激しさを増している。レシュノルティアは耳で状況を読み取ろうとした。やがて、草を掻き分ける音が近付いてきた。
 鎧を鳴らして転がったのは二人の男だった。レシュノルティアははっとした。月明かりに、金の肩章が光ったのだ。
 舌を鳴らし、剣を抜いた。騎士に襲いかかっていた何者かを切り捨てると、驚く騎士には何も言わず、森を疾駆する。枝を折る音が響いてその襲撃者は身体を反転させたが、それよりも速くレシュノルティアの剣が腕を断っていた。
 悲鳴が上がり、助けられた方も新手だと気付いて切っ先を向けたが、レシュノルティアは激高に近い声で怒鳴りつけた。
「どうしてお前がいるんだ馬鹿!!」
 ぽかんとした巨漢が、やがて噴き出す。
「――恋しい女を追いかけてきた、ということにしておいてくれ」
 気の抜けるようなことを堂々とのたまって、アウエン・グレイ王子は襲撃者に大剣を振りかぶった。

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